中国観光をしたり、中華料理をはじめ偉大な中国文化にふれるとき、
もっと中国の歴史が知りたくなります。
あるいは、自分の記憶のあやしいところを確認したくなり、メモを作ってみました。
だから、体系だったものではありません。私の趣味として、興味あるところを
ピックアップしただけの歴史メモです。
何かの参考になれば、幸いです。
そのうちに戦国時代となり、専制的な諸侯と、その協力者である宰相、将軍たちが支配的地位にあった。
商人は権力を得るために富を求め、役人は富を得るために権力を求めた。
法律を作り、警察と軍を支配する役人には勝てない商人は、贈賄によって利権を守ろうとした。
ときには、賄賂を送った者も送られた者も捕らえられ、一族は南方の未開の地に追放された。
そんなふうにして、江南の地、越と呼ばれる地域に才気あふれる華僑の先祖たちが地位をかためていったという。
孫子は二人いたという説がある。孫武(そんぶ)とその子孫の孫賓(肉づき)のことをさすという。
孫子の兵法は竹簡に書かれている(昔の書物だから)。孫子らの活躍で呉の国は楚の国を破ることができた。
越王勾践の王位継承を見て、チャンスとばかり、呉王は伍子胥(ごししょ)や孫武を軍師に、越の国
に戦いをいどむが、越王勾践(こうせん)の名軍師范蠡(はんれい)の奇手にあい敗北する。呉王は息子
夫差(ふさ)に「越王勾践が、おまえの父を殺したのを忘れるなよ。」と言い残して死ぬ。 臥薪嘗胆
呉と越は以後ライバルとしてにらみあう。呉王夫差をいさめた伍子胥は王から死をたまわる。
長い戦いの末、越王勾践は呉王夫差を倒す。しかし、范蠡は身の危険を感じ、報償も栄誉も辞退して身を隠してしまう。
伍子胥が王から自殺を求められたとき、孫武も自分も危険と察したのか、まもなく司馬遷の史記からも消えている。
狡兎死して走狗煮らる(こうとししてそうくにらる): 目的を達成すれば不要となった人間は殺される
范蠡は斉の国に逃げた後、その北西の陶という国に移り、朱公と名乗った。
交易中心地である陶において商売を始めついに大金持ちになった。
華僑は義の人関羽と商売上手の陶朱公を商売の神様としてあがめている。
戦って敵を打ち破るのは上策とはいえない。戦わずして敵を倒すことが上々策である。
孫子の思想を、商売や生き残りに活かしてきた一番の実践者は華僑であろう。
(スターリング・シーグレーブ、華僑王国、サイマル出版会)
内蒙古自治区の呼和浩特(フフホト)市の南郊9kmに王昭君墓がある。墓の広さは約3万m2
で、あたりには樹木や草花が植えられている。中国には、この墓の他に王昭君墓
といわれるものが少なくないという。
陳寿の書いた原典が竹簡や木簡で発掘されたすばらしいことだが。
彼の墓はどこにあるだろう。故郷の四川省南充市にあるのだろうか。
南充市は長江の四川省内を流れる四大支流の1つ嘉陵江(かりょうこう)の近く
ということだ。
ちなみに四大支流は、烏江(うこう)、嘉陵江、沱江(だこう)、岷江(びんこう)
であって、四川の名はこの四大支流からきている。
伝統的な漢民族の農耕社会に、はからずも牧畜・狩猟民族との文化交流の機会が
訪れたことになり、以後の中国に大きな影響を与えた。
16の王朝が各地に生まれ、政権交代を繰り返した。
異民族は力にまかせて、漢民族から略奪をほしいままにしたが、
仲間うちからも反乱が続き、安定支配するための方策を考えるようになった。
たとえば南匈奴の劉淵が挙兵して前趙を建国したが、羯族の石勒に支配され後趙
に代わられた。そして、後趙も国内が乱れ亡んでしまった。
そういうわけで、異民族は軍事力にすぐれていても、自分の政権を長期化するため、
かつ大多数の漢民族を継続して支配するために、積極的に漢民族の文化を取り入れ、
官僚体制を取り込んだのであった。
円滑な統治には漢人官僚の協力が必要であったからである。
つまり、結果的には漢民族国家に異民族のエネルギーが取り込まれて、
以後の中国の発展につながったと考えられるだろう。
(この間、江南の地には漢民族中心の東晋王朝が存続した)
そうした結果、次の南北朝時代に北朝には、北魏や北周のような異民族の要素の
濃い国家が生まれ、北周の外戚楊堅が隋王朝をつくり、南朝にあった陳を滅ぼして、
中国の統一をしたのである。
隋や唐の王朝には、もともとそういうわけで異民族の要素が入っていた。
多くの異民族の人材もエネルギーも能力も取り込んで、唐王朝は、
それまでの歴史の中で最大の中国の領土をもつことができたのであろう。
乱暴な異民族の暴力略奪を逃れ、中国南部に移住していったのが
今日の客家(はっか)の先祖の一部であると言われている。
それにしても、匈奴がトルコ人をさすのか、モンゴル人をさすのか、確信できない。
鮮卑も満州族の先祖なのか、モンゴル人とは違うのか。
これからの研究に期待します。いちおう匈奴の定説です。
6〜8世紀に中央アジアを制した突厥のことです。
モンゴル人をさしたりトルコ系民族をさしたりするタタール人の説明です。
中国の王朝の歴史を、漢民族と異民族の交代の歴史という人もいます。
中国で少数民族を名乗れない人は、みな漢民族であるという説を述べる学者もいます。
それが中国人の常識かもしれません。
本名クマーラジーバの中国音訳である。
344‐413
中国六朝時代の仏典翻訳家として有名。
父はインド人僧、母は亀茲(きじ)国(今のクチャ)王の妹で、西域に生まれた。
7歳で出家し、カシミールやカシュガルで仏教を学んだ。
語学の天才で、頭も良かったのであろう。
初めは小乗仏教を、後には大乗仏教を学び、大乗仏教の名僧として
当時の西域から中国にまで有名人であった。
低(てい、本当の字は人偏を取り去った字)族(チベット系)の前秦王苻堅(ふけん)は
国の文化を高めるために、彼を中国に招こうとした。
苻堅の命により亀茲城を攻略した呂光(りよこう)将軍に招かれたが、かんじんの前秦が
滅んでしまった。苻堅は天下統一をめざして江南に攻め入ったのであるが、
東晋に破れてしまったのである。
呂光は涼州の地に後涼をたて、鳩摩羅什もこの地に10余年もとどめられてしまった。
彼の偉いところは、その間に中国語の勉強をして、経典を中国語に翻訳する
仕事を始めたことである。
その後、後秦の姚興(ようこう)によって国師として長安に迎えられ
大規模な仏典翻訳に一身をささげた。その訳業は膨大なもので、流麗な名訳は
中国人に広く親しまれた。
彼の翻訳した般若心経を参考にして、玄奘訳が作られたのである。
玄奘もインドの文献に忠実に仏典の翻訳に努めたが、すでに中国人の心に
深く愛されていた鳩摩羅什の訳の経典の勢いをくつがえすことはできなかったという。
玄奘訳のものはわずかに般若心経のみが今日も愛好されているだけと言われる。
観世音と観自在<鳩摩羅什訳と玄奘訳>
鳩摩羅什は女好きで、なんと多数の美女をかたわらにして仏典翻訳をしたという。
瀬戸内寂聴さんによれば、最初真面目だった彼を支配下におこうと、時の権力者が
わざと若い女と二人っきりにさせたりしたので、ついに彼も破戒の道に転落したとか。
その点、玄奘は清く真面目な一生を送ったらしい。
北陸新潟の翡翠(ヒスイ)が太平洋側の遺跡から発掘されている。
ヒスイは、「魏志倭人伝」に倭の特産物として記されている。
はるばる新潟から邪馬台国まで運ばれたということ。
ヒスイはjade つまり玉のこと。玉には硬玉と軟玉がある。
硬玉は中国には産出せず、商業的な産出はすべてビルマ(現ミャンマー)北部のカチン州であった。
いっぽう軟玉は、主産地は新疆ウイグル自治区のホータン地区である。
古代でも、貴重な宝石などは、交易により世界各地にいきわたっていったのだろう。
メソポタミア展を見て
都市ウルの王墓の調度品から確認できること。
ラピスラズリはアフガニスタン山地から、紅玉髄の長いビーズはインダス地方から
金は紅海沿岸と南アラビアから、銅はオマーンからもたらされた。
つまり当時のメソポタミアは遠隔地と交易をしていた。
メソポタミアの文物が古シルクロードを伝わって中国に届いたかもしれない。
シンガポールのシンガポール・ヒストリー・ミュージアムにはヒスイのコレクションがある。
これは万金油などで財をなした胡文虎一族の財産であった。遺族がシンガポール
政府に寄贈したものという。
こちらは香港にある胡文虎花園の見学レポートです。
顔之推(がんしすい 531-591)という当時の知識人がいた。もともと南朝の梁に
使えた名門の家に生まれた知識人であった。しかし、戦争に巻き込まれ、西魏とその後
できた北周の軍国主義の王朝に、やむなく仕えなければならなかった。ある時、
自由を求めて増水の黄河に船を出し、北斉へ亡命した。そこで文化的事業に従事
できたが、北斉は北周に滅ぼされ、北周武帝により再び漢中に移住させられた。
以後、彼は北周から隋へと政権が交代する中で、ひっそり生活し、長年の苦労から
書きためてきたことを、子孫への戒めとして残したのが有名な「顔氏家訓」である。
知識によって、中国社会で生き続けるよう、子孫に残した言葉を紹介しよう。
「父兄はいつまでも頼りになるとは限らない。親戚も、国家の制度も、いつまでも
保証してくれるとは限らない。自分の生活は自分で守るしかないのだ。
自分の身につけるべきものは、学問である。」
「学芸を身につけているものは、どんなところへ行っても、安住の地は見つかる。
世の中が乱れて、俘囚(ふしゅう)のうき目におちた人は数々あった。
その中で家柄もよくない人の中に、わずかに『論語』や『孝経』ぐらいの書物が
読めるというだけで、先生と呼ばれ大事にあつかわれた人もいた。その反対に、
代々身分の高い家柄に生まれながら、書籍を読みこなせない者は、田を耕すか
馬の世話をするしかなかった。」
南北朝時代の末から中国を統一した北周、隋唐帝国は、顔之推のような知識人を
傘下に組み入れて、国家の支配体制の中に知識人を文官として活用することを考えた。
すなわちこれが6世紀末に隋の文帝の時始められた科挙の制度である。
科挙という試験制度は、応募者の出身を問わず、試験によってすぐれた読書人を
選抜して、官僚の地位を保証する制度である。
科挙は門閥貴族の勢力に皇帝が対向するため、身分や出身に左右されない、効率の
よい人材を選抜する方法として開発されたのである。
(科挙は宋の時代に全盛を迎え、形骸化しながらも清朝末まで約1300年間続いた)
まさに顔之推のいうように、読書によって「古聖人の道」を学ぶことが、そのまま
職を得て身分が保証されるという読書人の理念を、国家が実現することにほかならない。
はたして唐の時代に、顔之推の家系から、顔師古(がんしこ)という史学者や
有名な書家である顔真卿(がんしんけい)が出たのであった。
唐の第2代皇帝太宗は、実質的に唐王朝を建国した人物である。すぐれた人材を集め、
突厥を支配するのにも成功し、貞観の治と呼ばれる政治を行った。
最愛の文徳順聖皇后を34歳の若さで失った。太宗は政治のことを皇后に相談しても、
女は政治に口を出すべきではないとして、決して自分の意見を言わなかったという。
太宗は、自分の跡継ぎを粗暴な長男ではなく聡明な次男につがせたかった。
しかし、自分も高祖の次男であったが、兄弟を殺して皇帝になったため、
回りの意見にしたがって、凡庸で従順な9男(高宗)を後継者に選んだ。
高宗が皇后に選んだのが(太宗の後宮であった)武氏で、後の則天武后である。
武后は病弱な高宗にかわり、しだいに政治権力を握り、中国唯一の女帝となった。
武氏は14歳のとき太宗の後宮に入り、太宗の没後尼となっていたのを高宗が見つけ
後宮に入れた。その時、高宗の皇后王氏と淑妃の蕭氏とが寵を争っていて
高宗の寵愛を維持しようとあせる王氏が、武氏を昭儀に引き上げたが、武氏は
うわべはよく王氏に仕えながら高宗の寵を独占し、策略を張りめぐらして
ついに王氏と蕭氏とを失脚させてしまったのである。
武氏は、外戚勢力の反対を押しきり、門閥的背景のない新官僚を懐柔し、
彼らの支持を背景に、ついに皇后になることに成功した。
体の弱い高宗にかわり、だんだん武后が政治をとりしきるようになり、事実上の武后執政
が始まった。
さすがの高宗も武氏の立后を後悔し、664年(麟徳1)の年末に廃立を断行しようと
したが失敗に終わった。674年(上元1)8月に、皇帝を天皇と称し、皇后を天后と称する
ことを宣した。
683年末に高宗が亡くなって中宗が即位したが、まもなく廃され、ついで弟の睿宗が
即位したが、名目だけで、武太后が全権を掌握した。密告制度を奨励した。
ついに、690年(天授1)にみずから皇帝の位につき、国号を周と改め聖神皇帝と称した。
周は、彼女の死とともにわずか15年で終わり、中宗が復位し唐朝が復活した。
武后は自分を批判する者は、子でも孫でも容赦なく処分した。
紙は中国で発明された。
宦官の蔡倫が、樹皮、麻、ぼろきれなどを原料として紙を造り、
105年に皇帝に献上したことが「後漢書」に出ている。
こうして、紙の製法は中国から朝鮮半島、日本にも伝わった。
モンゴルや新疆ウイグルあたりまで伝わったが、西方は伝わらなかった。
唐は751年、タラス川付近(キルギス共和国ジャンブール)で、
イスラム帝国アッバース朝のイスラム軍と戦い大敗した。
このタラス川の戦いは、当時の世界二大強国の対決であった。
この戦いで捕虜になった中国人の紙の技術者から、紙の製法が
西方に伝わったことになっている。
750年、唐の節度使(朝鮮出身)高仙芝(こうせんし)が石国王を
捕虜にし、これを虐待したことが、この戦いの原因とされている。
石国とは、ウズベキスタンの首都タシュケントにあった国で、
タシュケントはトルコ語で石という意味である。
捕虜にされた石国王子は逃亡して周辺国に高仙芝の暴状をうったえた。
周辺諸国はアッバース朝に救援軍を頼み、これらの軍隊が唐軍と戦ったのであった。
紙の技術はイスラム社会に伝わった。やがてそこから、ヨーロッパへと伝わった
のであった。
難しくいうと、王者が冊書により諸侯を封建すること。
通常は、中国の皇帝が周辺の国家の支配者をその国の王とみなし
中国が庇護することを認めること。
冊書を受けた国の王は、中国皇帝へ朝貢するが、皇帝から手厚いもてなしを受け
皇帝の庇護の下に入ることができた。
くわしくはこちらに。
江戸時代には、日本と朝鮮との間で正式の外交文書をとりかわし、朝鮮通信使が
江戸幕府を公式訪問した。
日朝間の外交文書は国際用語である中国語で書かれ、公印は実は冊封の印章
が使われた。
ありもしない日本国王印を使い国書偽造をして罪を問われた対馬僧のこと
ここに シュメール・アッカド楔形文字を出発として
ヘブライ文字、アラビア文字、ヨーロッパ文字(ギリシア文字、ラテン文字)
の文字体系がまとめられています。
アラビア文字は右から左に書く。
これをもとに中国新疆ウイグル民族のウイグル文字ができた。
このウイグル文字を参考にして、モンゴル文字が作られた。ただし上から書く縦書き。
清王朝はモンゴル文字を参考にして満州文字を作った。
北京の故宮を見たとき、ある建物の入口の額に書かれた漢字と並んで見慣れない文字。
それが満州文字。あの字はシルクロードをたどって、イランから伝わったという。
つまり、モンゴル文字や満州文字は楔形文字の系統なのです。
中国のお札にモンゴル文字が書かれていると思います。
他の本を読んでも同じようなことが書いてあります。
モンゴル文字はチンギスハーンのころにウイグル文字から作られた。
そのウイグル文字はソグド文字から作られたものです。
ウイグル人は今も中国新疆ウイグル自治区住んでいるトルコ系の民族です。歌舞が大好き。
ソグド人とはオアシス地帯に住んだイラン系の民族で、中国とモンゴル間の貿易を
独占するなど活躍した商人です。
ソグド文字はアラム文字からできたとされています。
アラム文字からは、ヘブライ文字、アラビア文字、ペルシア文字ができたと言われています。
つまりイスラエルのヘブライ文字もアラビア文字もウイグル文字も右から書くのです。
しかし、アラム文字の系列であるモンゴル文字は、上から下へ書きます。
モンゴル文字から満州文字が作られました。だから満州文字も縦書きです。
アラム文字→ソグド文字→ウイグル文字→モンゴル文字→満州文字
松花江は源を白頭山に発し、吉林省の中央部を流れ、黒龍江省との省境で、嫩江(のんこう)
と合流し、大きな松花江となって哈爾濱(ハルビン)市をすぎて、やがて
牡丹江(ぼたんこう)をあわせて、黒龍江(アムール川)に合流する。
松花江は、満州語の源名はスンガリーウラ(天の川)で、漢民族がこの地に進出し、
スンガリの音に「松花」の字をあてたのである。
黒龍江(アムール川)がロシアとの国境であり、時代とともに境界線をめぐって
中国とロシアとの対立が続いてきた。
雍正帝の後を継いだ乾隆帝のとき、清帝国は最盛期を迎えた。
清朝が北京に入ってからすでに1世紀近くなり、宮廷も中国語を使い、
領土は拡大し、国庫は充実し、都市も農村も安定期を迎え、国力は上向きであった。
乾隆帝はモンゴルのジュンガル部を、内紛に乗じて制圧し、天山北道・南道を
完全に支配した。さらにチベットを制圧し、南方のビルマもベトナムも
内乱時に介入して朝貢国にした。
やがて、タイやラオスも朝貢するようになり、朝鮮・琉球も衛星国となった。
乾隆帝のときは、このように中国のほかに内外蒙古、新疆、台湾、チベットを
領土としたので、中国領土は最大のものとなった。
乾隆帝は、辺境に10回出兵して全部戦勝したので、自分のことを「十全老人」
と号したほどだった。
1900年8月、義和団事件で英・米・独・仏など8か国連合軍が北京を占領した
時に、西太后は西安に逃げた。
その途中、空腹を訴える西太后に、そばに使える者が、近くの民家で作っていた
窩頭(トウモロコシの粉を円筒形にして蒸した粗末な主食)を差し出したら
西太后は大変喜んだという。
やがて、戦乱も収まり都に戻った西太后は、あの味が忘れられず
御膳房の料理人に窩頭を作るように命じた。
でも、窩頭は庶民が食べる食べ物で、トウモロコシの粉で作った粗末なもの。
あのときは何も食べるものがなく空腹だったからおいしかったので、宮廷では
窩頭をそのまま出すわけにはいかない。料理人はいろいろ考えた末、クリの粉を
使って、一口で食べられる小さなものを作って差し上げたら、大変喜ばれたという。
これが、宮廷料理の小窩頭の生まれたいきさつという。
第10代皇帝、母は西太后。わずか19歳で亡くなった。
当時北京では妓楼が盛んで、同治帝も通った結果梅毒にかかってしまった。
宮中ではそれを隠して天然痘ということにした。そこで次のような風刺がはやったという。
「家鶏(ニワトリ)を顧みずに野鶏(キジ、売春婦をさす)を愛して、
憐れにも天子様は天然痘を患った」
西安事件の舞台は西安郊外の華清池(玄宗皇帝と楊貴妃の温泉保養地)にある。
しかし、国民党が北京から台湾に逃れるとき
蒋介石は張学良を台湾に連行した。
張学良はその後どうなったろうか。
張学良は現在ハワイで暮らしている。
ハワイに立ち寄った台湾の李登輝総統は
張学良のアパートを訪問した。
(1997年9月7日 朝日新聞)
張学良は2001年10月15日、ハワイで死去した。享年100歳
1928年に奉天で張作霖爆殺事件が起こった。
これは関東軍が起こしたとされる。
張学良はこのとき殺された張作霖の息子である。
1931年に柳条湖事件(満州事変)が起こる。
橋本首相は戦後の首相として初めて
柳条湖を訪問した。
張学良が生前に残した膨大な口述記録や日記などはニューヨークのコロンビア大学で
近く公開される。
蒋介石の監禁を解いたのは「中国をまとめられるのは彼しかいない」と思ったから。
張学良は蒋介石に対する変わらぬ評価を述べた。
彼は、蒋介石の南京行きに自ら進んで同行し、それが半世紀に及ぶ軟禁に連なる。
殺されるかもしれないと思いながら同行したのは「自分は蒋介石側の人間と思っていた」
からだったという。
だが彼も、こんなに長く軟禁されるとは思っていなかったようで、
「妥当な扱いではない」と不満も示した。
また、日本については「軍国主義を今も許していない」という趣旨の発言をしている。
周恩来が、張氏の軟禁後に国民政府に対して圧力をかけたから殺されなかった。
そのことにも謝意を述べた。
(2002年6月2日 朝日新聞)
2001年10月15日に100歳で死去したが、翌年の誕生日の6月1日まで
待つことを条件に遺族が公開を許した。
宋慶齢は、孫文の秘書をへてから1915年孫文と結婚。
孫文の死後、1926年国民党執行委員となるが、
1927年蒋介石の反共クーデタを糾弾し、以後国民党左派として反動と戦う。
日本の侵略に際し、抗戦を支えるために、1938年保衛中国同盟を発起し、
主席として活躍。中華人民共和国成立後は、人民共和国副主席にもなった。
しかし、紅衛兵が乱暴を働いていた時、上海の彼女の家は襲撃された。
どうやら、毛沢東夫人の江青がライバル視していたらしい。
やがて紅衛兵運動もおさまり、江青らの四人組は裁判で裁かれた。
宋慶齢は死ぬまで北京に住み共産党政府から優遇された。
そして三女は宋美齢(蒋介石夫人)。1927年に軍人蒋介石と結婚した彼女の運命も
ドラマチック。
蒋介石が台湾に移り中華民国総統になったので、台湾で暮らした。
この三姉妹の父親、宋喜樹は海南島の出身で、韓という姓であった。
先祖は12世紀に河南省から移住してきた、いわゆる客家であった。
宋喜樹はアメリカに渡り、大学を卒業してから、中国に宣教師として戻ってきた。
結婚後に印刷業に乗り出す。
三大紀律(北京革命軍事博物館)
第一、行動は指揮に従う。 第二、人びとから一本の針も、一銭の金もとらぬ。
第三、(とった)物も金も公のものにする。
八項注意(同博物館)
第一、(寝たあと、家の表の)戸板を元通りあげる。 第二、(寝ワラにした)乾草は縛る。
第三、話はおだやかにする。 第四、売買は公正にする。 第五、借りた品物は返す。
第六、物をこわすと弁償する。 第七、からだを洗うのは女の人を避けてする。
第八、捕虜のポケットをさぐらない。
1951年に雲南省シーサンパンナにやってきてそこに住みついた解放軍の人の話。
少数民族はみな山中に逃げ込んで町は誰もいなかった。中国語で呼びかけても
彼らには中国語も理解されないから役に立たなかった。結局、彼ら解放軍のしたことは
山中に逃げ込んだ住民の家のニワトリの世話をしたり、ニワトリの産んだ卵を
自分たちで食べずにすべて残しておくことだった。そのうちに山中からひとりふたり
と少数民族が降りてきて、降りたものが口コミで解放軍の行為を仲間に知らせた。
1か月か2か月たって少数民族はすべて戻ってきたという。
(小田実:毛沢東 20世紀思想家文庫15、岩波書店)
周恩来の死後8ヶ月たって毛沢東が死んだ。公式の追悼行事がいくつも
行われた。人々は暗澹たる気持ちで彼の死を嘆き悲しんだが、人民大衆は
自発的に人民英雄記念碑の前に詩と花輪を持って現れることはなかった。
1976年11月に北朝鮮訪問の後に日本帰国のため北京を通過した小田実は、
人民英雄記念碑のそばに新しい建物が建てられるを見た。
後にそれは化学処理をほどこされてガラス箱に入った毛沢東の遺体を納めた
記念堂だったことを彼は知る。そして、1982年に中国訪問した際、
周恩来の遺体を焼いた灰が彼の遺言通りに中国各地にばらまかれたことを
かつての紅衛兵から聞く。
権力者は商人の苦労して稼いだ財産を取り上げたり、溜まった借金を 帳消しにするなど、ひどいあつかいをしてきた。これは古今東西よくあること。 日本の徳政令を思い出そう。 越王勾践(こうせん)は范蠡(はんれい)のおかげで、呉王夫差(ふさ)に勝った。 狡兎死して走狗煮らる。 越をのがれ陶の町でひっそり暮らし蓄財に成功した。華僑は范蠡の肖像画を飾る。 (華僑の出身地は江南が多く、昔の越の国に近かったからだろうか) 孫子の無形無声(戦わずして敵を征服)を身につけた華僑。 宦官鄭和(ていわ)は明永楽帝の命をうけ、マラッカ海峡の入口バレンバンを支配していた 海賊陳祖義(ちんそぎ)を討つ。 鄭和は港町マラッカを支配していたシャム人を倒し、親中国のかいらいを立てた。 現地の華僑は、通行税を明皇帝に払うことで貿易を続けることができた。 戦乱を避けて東南アジアに移り住んだ難民、あるいは権力者の搾取を逃れるため インドシナやマレー半島に移動した商人たち、それらは何代もの間住みついて 現地で華僑となる。 華僑は出身地(より正確には出身の村)ごとに集まって組織を作った。 同郷会、幇(バン)である。表の組織と裏の組織があった。秘密もあった。 それは外敵から仲間を守る智恵である。公的な県人会の集まりもあるし、ヤミ経済を 支配するギャング団として欧米に知られる組織もある。黄金の三角地帯の麻薬取引も 華僑のいくつかのシンジケートであると言われている。 ある意味では、華僑は巨大多国籍商社の現地代表で、かつての東インド会社よりも 実力がある。現地に住んでいる歴史も古い。 彼らを密輸業者と呼ぶのは課税できない政府の理屈であり、彼らにしてみれば 自由に貿易して、関税や賄賂や搾取を逃れるため日夜努力している商人 と考えているかもしれない。 東南アジアの植民地において、支配者のユーロッパ人と現地人の間に入り 華僑は辛抱強く自分たちの活動の場を広げていった。地域貿易活動もその1つだった。 華僑は現地の土地を直接買うのを禁止されていたので、財産を宝石や外貨などで もち、金融活動により浪費家の現地人に借金のかたに土地を手に入れた。 こうして大土地所有者となったが、原住民の反感をかい何かのきっかけで暴動が起きると 虐殺される華僑もいた。 シンガポールの場合、まさに華僑にとっては理想的な展開だった。 ラッフルズは手に入れたシンガポールを発展させるべく、中国人とインド人の移民を 大量に受け入れた。安い労働力として苦力も導入されたが、中国商人も入ってきた。 彼らは合法的に商売ができ財をなすものが次々に生まれた。
中国歴史のテスト(^^)