前3世紀末から約500間モンゴルに栄えた遊牧騎馬民族のこと。 すでに匈奴は中国の戦国時代に、オルドスを根拠地として盛んに燕、趙、秦の北境を 侵していたという。 匈奴の侵略から中国を守るために、秦の始皇帝は万里の長城の建設にとりかかった のである。その徴用などで人民の反感をかい、秦王朝は倒された。 そもそもスキタイに発生した騎馬戦法を東アジアにもちこんだのは匈奴である。 彼らの前には、馬にひかせる戦車と歩兵とによる戦争をしていた中国人は、 とても敵ではなかった。中国人は匈奴から騎馬戦の技法を学んだのである。 秦代、匈奴は秦将蒙恬(もうてん)のために破られ、オルドスをすてて北にのがれたが、 秦末には再びオルドスを回復した。このとき冒頓単于(ぼくとつぜんう)は武略にすぐれ、 月氏などの遊牧諸民族を攻め破り、モンゴル全域を支配するにいたった。 前200年、漢の高祖みずから大軍を率いてこれを討ったが、逆に匈奴騎兵32万に 白登山で7日間も包囲されてしまった。高祖はようやく身を脱してのがれ帰り、 使者を派遣して匈奴に和睦を請い、公主をおくり婚姻関係を結んだ。 さらに、毎年多額の絹織物,酒,米の類を贈ることを約束した。 以後、漢は約束を守り毎年贈与をしたにもかかわらず、匈奴はしばしば漢を攻略したので、 漢の武帝はついに前129年討伐を開始し、以後約10年間、漢軍と匈奴は戦争を繰り返した。 またこのころ、武帝は、匈奴に追われ西に逃げた月氏の存在を聞き、月氏と同盟して 匈奴を倒そうと考え、月氏と同盟を結ぶために張騫(ちょうけん)を使者として派遣した。 張騫は途中匈奴に捕らえられ、10年余り捕虜になったが初志をすでず脱出に成功し、 大宛国を経て、ついに侃水(アム・ダリヤ川)北の大月氏国に到着した。 しかし大月氏は、肥沃で外敵の少ない地に安住しており、匈奴と戦う意志はなかった。 彼は1年余り滞在してから、帰国の途中で再び匈奴に捕らえられたが、単于(ぜんう)の 死に乗じて脱出し、13年ぶりに帰国した。 彼の月氏国との同盟という使者の目的は果たされなかったが、漢と西域諸国の それぞれに情報をもたらし,東西の交通を開いた意義は大きい。 『胡麻、胡瓜、胡弓、胡椒、胡桃』などは西域から伝えられたから、胡の字がついた とされる。西域からの文物は、事実にかかわらず張騫が伝えたものと言われて いるものが多い。 前60年ころ匈奴は単于(皇帝)の位の継承をめぐって内争がおこり、分裂した。 部族の中には、中国にくだり中国の守備に任ぜられるものも出た。これは南匈奴族 と呼ばれる。依然としてモンゴルにとどまる匈奴(北匈奴族)もいた。 やがて魏や晋時代には、中国内の匈奴は5部に分けられ、任命された5人の都尉により 管理支配された。五胡十六国の乱の際の匈奴人劉淵(前趙の高祖)はこの5部都尉中の 北部都尉であった。 また十六国のうち後趙(石氏),北涼(沮渠氏),夏(赫連氏)も南匈奴族であるが、 北魏の華北統一後はしだいに漢人に融合していった。 一方、北匈奴は鮮卑・丁零族に攻撃され、かつ後漢の遠征軍に撃破されていき、 やがて、タリム盆地をへて、2世紀の中ごろキルギス地方に西遷し、以後中国の史上 よりその消息を絶った。 4世紀にヨーロッパに侵攻したフンはこの北匈奴の子孫であろうと考えられているが、 まだ定説ではない。北匈奴のモンゴル退去とフンのヨーロッパ出現の時期が一致しており、 両者の習俗の同一などのほか、使用言語がともにチュルク語であること、 五胡十六国時代の匈奴を当時のソグド商人がフンと呼んでいたことなどをあわせて 考えると、少なくとも匈奴とフンとは密接な関係にあるものと考えられる。
ヨーロッパに侵攻したフン族が、ライン河畔ヴォルムスのブルグント国王を
倒した歴史にまつわるニーベルンゲン伝説