冊封体制(さくほうたいせい、さっぽうたいせい)

難しくいうと、王者が冊書により諸侯を封建すること(一種の政治システム)。
通常は、中国の皇帝が周辺の国家の支配者をその国の王とみなし
中国が庇護することを認めること。
冊書を受けた国の王は、中国皇帝へ朝貢するが、皇帝から手厚いもてなしを受け
皇帝の庇護の下に入ることができた。

中国は長年の外交経験から、この方式を考えついたらしい。
すなわち、中国を宗主国としてあがめ、周辺の国々を従属させる独特の
国際ルールをつくりあげていったのであろう。
交流を許した周辺の国の王に中国皇帝が印鑑を授け、
定期的に朝貢使節を迎え入れる。
そして、一定の規定を設けて貿易を許したりしたのである。
これを朝貢(ちょうこう)貿易という。                     志賀島で発見された「漢倭奴国王」の金印

倭の女王卑弥呼が魏王朝から〈親魏倭王〉の冊書を受けた。
足利義満も実利のある貿易のため明皇帝から冊書を受けたが、
豊臣秀吉は明王朝の臣下に入ることを嫌い、冊書を受けなかった。

沖縄では、1372年中山王察度(さつと)が中国に誕生した明王朝の太祖洪武帝のもとに
初めて入貢し、冊封体制の一員となった。
こうして琉球王国は中国から統一王朝として認知され、中国、日本、朝鮮、
東南アジアとの間で活発な外交・貿易関係をすすめた。

江戸幕府をひらいた徳川家康のもとで、薩摩藩主島津家久は、かねてよりの
琉球支配を実施するため、琉球出兵を家康に願い出て許可された。
1609年(慶長14)に薩摩軍は琉球に侵入しこれを征服した。
征服されても琉球の王国体制はそのまま温存された。
琉球は、薩摩と幕府への従属を強いられたが、一方では伝統的な中国との
朝貢・冊封関係は維持することができ、首里王府が現地を統治していた。

主従の関係である冊封体制は、秀吉も家康も嫌い、明国からの誘いを断った。
日本の隣国朝鮮との外交関係は江戸時代には対等であった。
江戸時代には、日本と朝鮮との間で正式の外交文書をとりかわし、朝鮮通信使が
江戸幕府を公式訪問した。この朝鮮通信使が日本にもたらしたものは
最新の国際情報と高い文化であった。また、日本は朝鮮との貿易に魅力があった。
日朝間の外交文書は国際用語である中国語で書かれ、公印は実は冊封の印章
が使われた。

ありもしない日本国王印を使い国書偽造をして罪を問われた対馬僧のこと