アラム語 アラム文字

キリストやマリアが日常話していたというアラム語

アラム語を話していたアラム人は、紀元前2千年頃に上部メソポタミア地方で
小国家群を形成したと推定される。

最古のアラム語の資料は同地方から出た前9〜前7世紀の碑文で、古アラム語と呼ばれる。
母国がアッシリアに滅ぼされた後も、アラム語は勢力を拡大し、前7世紀ころから
アッシリア王国、ついで新バビロニア王国で、前6世紀中葉以後はペルシア帝国の公用語
として用いられ、北はカスピ海沿岸から南はエジプトのナイル上流地点まで、
東はインド(前3世紀のアショーカ王碑文)から西は小アジアのエーゲ海岸に至る各地から
資料が見つかっている。

今も、シリアのダマスカスの北東約50キロにあるマアルーラ村では、村民が
アラム語を使っているという。

アラム文字はペルシアに伝わってパフレヴィー文字となり、さらにインドに入って
カロシュティー文字やプラフミー文字(梵字)となったと言われる。
アショカ王が仏教遺跡に建立した石柱や磨崖碑の刻文はたいていがカロシュティー文字
である。

ヒンディ文字をはじめ、現在インドやスリランカで使われている文字、チベット文字、
ビルマ文字、タイ文字などは、すべてプラフミー文字から生まれたとされている。

一方、アラム文字は中央アジアに伝わってソグド文字となり、さらにウイグル文字
となった。このウイグル文字を母体としてモンゴル文字が生まれ、このモンゴル文字
から満州文字が作られた。

パキスタンからモロッコまで、ずっとアラビア文字の世界が広がっている。
アラビア文字は、アラム文字が少し変化したものである。

アラブ人が、イスラム教徒の王朝、つまりサラセン帝国を建国したとき、
西部と東部とではアラブ文化の伝わり方が違っていた。

シリア、イラクはもともとがアラブと同じセム系なので、完全にアラブ化した。

エジプトは人種的には別系統であったが、アラビア半島に近いため、多数のアラブ人
が移住したので、こちらも完全にアラブ化した。

チュニジアからモロッコに至る地域でも、最初は抵抗したが、結局アラブに征服され
イスラム文化を受け入れた。もともとが固有の文化を持っていなかったから、
アラブ化された。

しかし、イラン以東は違った。イスラム化されたが、アラブ化されなかった。
ペルシア人は、アラブ人よりはるかに高い文化を持っていたし、民族的な誇りを
持っていたから、軍事的にはアラブ人に征服され、イスラムの信仰を受け入れたが、
言語までアラブ化されることはなかった。

むしろ、逆にペルシア文化がイスラム文化の主人公になったという感さえある。

中央アジアや西北インドにも、イスラム文化はペルシア色の濃い形で浸透していった。

トルコ人もペルシア文化の影響を強く受けていた。オスマン・トルコ帝国では
長い間ペルシア語が宮廷用語、詩文用語として尊重されていた。

しかし、全イスラム圏において、宗教用語だけはアラビア語が使われていた。

  ササン朝ペルシアでは主にパフレヴィー文字を使っていたが、ササン朝ペルシアが
アラブ人に倒されてから、この文字は使われなくなり、ついにアラビア文字に
取って代わられた。

パフレヴィー文字もアラビア文字も、どちらもアラム文字が少し変化しただけの
表音文字だったので、取りかえるのにそれほど困難はなかった。
しかし、アラビア語とペルシア語はまったく構造の違う言語なので、アラビア文字では
表記できない部分を補うため、ペルシアでは新しい字母を4つ作った。

中央アジアでは、このペルシア式のアラビア文字をそのまま使い、西北インドでは
さらに新しい字母を3つ加えた。

だから、インドのウルドゥ語、シンディ語、ベルチ語、アフガニスタンのパシュトゥ語、
ペルシア語、旧ソ連領カフカズ(コーカサス)のアゼルバイジャン語などは
今でもペルシア式のアラビア文字で表記している。
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フェニキア文字→アラム文字→アラビア文字、ヘブライ文字、ブラーフミー文字

 アラム文字→(ペルシア)パフレヴィー文字→(インド)カロシュティー文字、プラフミー文字(梵字)
   プラフミー文字(梵字)→ヒンディ文字、チベット文字、ビルマ文字、タイ文字
 アラム文字→(中央アジア)ソグド文字→ウイグル文字→モンゴル文字→満州文字。
フェニキア文字→ギリシア文字→ローマ字
 ギリシア文字→キリル文字