中国の唐代玄宗皇帝の時の高句麗出身の節度使。 小勃律(北インド、カシミール北部)と結んだ吐蕃のパミール高原への進出による東西交易 ルートの遮断に対して、747年に小勃律国を討った。 750年には石国(タシケント)を討つが、その際の殺戮と略奪は周辺諸国の強い反発を招き、 唐軍を嫌った周辺諸国はアッバース朝イスラム帝国に救援を求めた。 翌年高仙芝はこれをタラス河畔(いまのキルギス共和国北西部)に迎え撃ったが大敗した。 安禄山の乱のとき、長安・洛陽間最大の要衝である潼関(どうかん)を守備して 安禄山軍の西方進出を阻止したが、讒言(ざんげん)にあって陣中で処刑された。