羯族

羯族は、後趙王国を建てた石勒(せきろく)の属する種族である。 羯という名称は、彼らが匈奴の南下とともに、上党郡武郷県の羯室(山西省東南部) に住んでいたことから呼ばれている。羯の意味は去勢された羊である。 羯族の石氏の建てた後趙のことを書いた歴史書「晋書」に次のような話が残っている。  羯人の孫珍が、崔約(さいやく)という漢人官僚に尋ねた。  「わたしは眼病をわずらっているのだが、なにかよい治療法はないかね」  ふだんから孫珍を軽蔑していた崔約はからかって答えた。  「目の中に小便を注げば、治るさ」  「小便など注げるものか」  「きみの目はガボガボだから、十分、小便を入れられるよ」  怒った孫珍は石虎の太子石宣にこのことを報告した。  石宣は石虎の息子たちの中でもっとも胡族風の容貌をしており、目が深くくぼんでいた。  石宣は孫珍の話を聞いて激怒し、崔約親子を殺してしまった。 後趙は350年に漢人苒(草冠とる)閔(ぜんびん)に滅ぼされた。 苒閔は軍隊を率いて羯族の大虐殺を行い、20万人以上も殺したという。 その中には「鼻が高く、髭が多い」ために、まちがって殺されたものが半数近くいた と史書に書かれてある。 どうやら中国の史書で「高い鼻」「深い目」「多い髭」と書かれた羯族はモンゴロイド ではなく、インド・ヨーロッパ系の人種であったらしい。 (中国の歴史3魏晋南北朝、講談社)