恋の中国文明史

中国民族のなりたちについて書いた本を読みました。
目から鱗の思いがしました。

この著者のいうことですが
中国に住んでいる人が、特定の少数民族を名乗れないときは
その人は漢民族になるのだというのは、他の本に書いてあることと
矛盾しません。
かえって、漢民族がどういうものかを定義することはむずかしく
儒教文化や中原文化の影響からのがれられず、かつ自己のルーツとしての
異民族の文化をもたないものは、形式的に漢民族として扱われているようです。

この著者によれば
漢民族を表す「漢人」は「後漢書」ではじめて使われており、それ以前の
中国人を表す言葉は「秦人」であり、これははじめての統一国家秦からきており
「史記」に出てくるという。
そして「秦人」も「漢人」も、ほんらい一つの純血民族を指す言葉ではなく
複数の民族ないし混血民族を含む民族集団を指していたと考えられる。

漢王朝は、自分たちの中原文化が、周辺の匈奴や東胡などの異民族の文化 と違うことをはっきり意識していた。 たとえば、匈奴の世界では青壮年がよい食物を食べ、年寄りはその食べ残したものを 食べていたのを反面教師として、自分たちは老人を敬った。 また、遊牧民族は父親が亡くなった後、息子がその妾をめとり、 兄弟が亡くなると、兄嫁を妻にしていたが、中国人はそのようなことはしなかった。 こうして、しだいに儒教的倫理観が築かれていった。 (遊牧民族の弁護をするなら、寡婦となった場合、生活が大変なので、 亡くなった夫の兄弟や父親が未亡人を世話するのが、一族保護の解決策であり、 これも生活の知恵なのだが) 唐の時代、科挙に合格した者は高級遊郭に通うことができた。 その遊女たちは歌や楽器の演奏ができるだけでなく、詩もつくることができた。 当時の社会では儒学倫理のもと、未婚女性の外出禁止や男女隔離の原則があったから、 未婚男性にとっては遊女のみが女性を知るチャンスであった。 遊女と交流できた男性はごく一部で、それ以外は異性との交際の機会は少なかったらしい。 西域から中国に使節が派遣されるようになってから、ペルシア商人が多数訪れる ようになって、彼らの中には唐の女性と結婚して長安に住みついて者もいた。 また、中国人がシルクロードの王国の王女などと結婚することも盛んになった。 西域から歌舞の演奏者や胡旋舞を踊る女性もやってきた。 胡姫として酒場で働く女性たちもいたのは、李白の詩にも残っている。 今でいえば国際結婚とか異文化交流が盛んになっていった。 玄宗皇帝と楊貴妃の情愛を詠った「長恨歌」は中国の古典として、当時の日本人の 貴族の常識にもなっていた。楊貴妃は玄宗の息子の妃にあたるものを自分の妃に したのだから、儒教からいえばおかしなことである。しかし、唐代はもともと 異民族の軍事力を利用してたてた王朝ゆえ、異民族の存在を無視してはありえなかった せいか、異民族の習慣に影響されたのであろう。でも、さすがにいきなり結婚せず いったん楊貴妃を道教の寺院に入れ禊ぎをさせてから結婚したところに 玄宗皇帝の潜在意識としての儒学のこだわりがあったのではないだろうか。 したがって彼は結婚してもなお自分は漢民族としてのタブーをおかしている、 息子の嫁を自分の妻としてはいけないという心のこだわりがあって、 それゆえ外見的に夫婦なのに恋の情感を高めたのではないかと著者は推察している。 白楽天は玄宗のこだわりを見抜いていたのである。 唐代の24人の皇帝はほとんどの皇帝が多かれ少なかれ異民族の血をひいている。 宋代までは異民族の皇帝がいてもなるべく出身民族を隠した。 唐代の皇室のように中原の支配権を正当化するために、自分は漢民族の先祖を もっていると主張した。 元王朝のモンゴル族や清王朝の満州族王朝は、漢民族でないことに何のためらいも なかった。 著者によれば、異民族と名乗ったり混血とわかっている皇帝の合計は、 中国の歴代王朝の5割を超えていて、しかも残りの漢民族の皇帝にしても 純粋の漢民族の保証はない。混血してから時間の経過が長くて血筋が不明になったり あるいは混血を故意に隠してる場合もあるから。 13世紀はじめ、モンゴル軍が金に侵攻したとき、国防大臣の妻と娘は難を逃れて 南へ逃げた。娘は母とはぐれ、書生と道連れとなり、二人の間に恋が芽生え結婚する。 モンゴル軍が撃退され、戻ってきた父親は、相手の男が無一文なので娘の結婚を 許さない。発憤した青年は努力して科挙の試験に主席で合格する。 やがて、父親は高級役人が娘の前夫ともしらず、娘にむりやり結婚を勧めるが 当人同士はそんなことを知らないからそれぞれ拒絶する。ついに策略により 二人は会うことができ、事実を知って結ばれる。(拝月亭) ここには未婚の男女が会う機会が認められ(儒教の中国なら許されない)、 父親が反対したのは、若い二人が出会い自分の意志で結婚を決めたことでなく、 二人の間の家柄の違いや経済力の差を問題にしたのである。だから、その問題が 解決されてからは二人の結婚に問題はない。しかも、ヒロインの父親は金の女真族 であることを小説の中で明記され、ヒーローの方は何も書いていないから漢民族と 推定される。つまり異民族どうしの相思相愛の結婚がおおらかに認められる世界を モンゴル支配がもたらしたのである。 モンゴルの時代に、男女の恋を表現した劇が上演されるようになった。 男女交際は漢民族よりはるかにモンゴル族のほうが自由であったから、 それまでの演劇の枠をこわしてしまった。 そして、明代になり劇の上演を禁止する法令がくりかえして発布されるようになった。 自由な表現はおさえられるようになったのである。 「紅楼夢」 従兄弟どうしの林黛玉、賈宝玉 幼い子どもならともかく十代の二人が同じ屋根の下で 会話をしたりするのは普通の漢族の上流家庭なら考えられない。 物語の中では、賈宝玉が女の子から離れると、すぐ精神状態がおかしくなるので 祖母が孫をあまやかしてこのような生活を許していることになっている。 これは作者の先祖が漢人とはいえ満州人に近い存在で、曾祖母は康煕帝の乳母を していたほど満州人から信頼されていたから、風俗習慣も満州族の影響を受けて いたのだろう。ちなみに康煕帝が亡くなり雍正帝が即位すると、一家の風向きは 変わり、財産没収のうきめをみて家運は傾いてしまう。 当時の漢民族にあった男女交際の禁制は、満州族の比較的自由な男女関係の 影響を受け、このような小説をうみだすことになった。 恋は許されない儒教の漢民族文化では生まれないし、恋のタブーがない満州族 文化だけでは生まれない小説。漢民族文化と満州族文化のであいによってしか 生まれなかったであろう。 現代の日本人から見れば、そんなのあたりまえのことではないかと思うだろうが 儒教の制約の中での中国人にとっては新規に思われる魅力ある小説だったに違いない。 この著者は、親が取り決める結婚について、こだわっている。 古代の中国において、家父長制の強化により、子どもの結婚は家族の長の取り決めに したがわなければならなくなった。そして、この制度を成立させるために、 女性の社交禁止と男女の隔離が必要になった。男女交際を禁止された若者たちが 結婚するには、父母の取り決めか媒酌人の斡旋によるしかなかった、 そして、そういう取り決めの結婚では、それまでの近親結婚やレビレート婚 (夫の死後、未亡人が夫の兄弟の一人と再婚する場合と、子が亡父の実母でない 方の妻と結婚する場合と、未亡人が母の兄弟と再婚する場合などがあった)、 ソロレート婚(妻の生死にかかわらず、その姉妹か姪を第二の妻とする)など さまざまな原始的結婚の慣習を否定したり改革するという意味をもった。 中国人が自由恋愛の実現ため戦ったり苦労した人の例として下記の名前が 紹介されている。 秋瑾(しゅうきん):親の決めた相手との結婚がうまくゆかず離婚後、日本留学、 1907年中国で革命活動に参加し処刑された。 孫文:親の決めた結婚相手に最初反対したが最後は妥協して結婚した。 毛沢東:両親により、14歳の時、20歳の女性と結婚させられたが、故郷を脱出 してこの結婚から逃れたことをエドガー・スノウに語った。 郭沫若(かくまつじゃく):素直に親に従って結婚したが、花嫁の纏足と醜い容貌 を見てショックを受け、二度と妻のもとに戻らなかった。

参考文献 張競:恋の中国文明史、ちくまライブラリー90