観世音と観自在 玄奘三蔵
「般若心経」の始めにある
観自在菩薩、アヴァローキテーシュヴァラ菩薩
この菩薩は古くから観世音菩薩として知られていた。
なぜ、観自在菩薩は観世音菩薩と称されたのであろうか。
それは、法華経を訳した鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)が
観音経の趣意をとってそのように美しく訳したというのである。
観音経には
「善男子、もし無量百千万億の衆生あって、もろもろの苦悩を受けんに、
この観世音菩薩の名を聞いて一心に名を称せば、
観世音菩薩、即座にその音声を観じて、皆解脱することを得せしめん」
という名句がある。
羅什はこの性格にもとづいて、「観世音」と訳した、というのである。
もう一つの考え方は、この菩薩の名は、実は
「アヴァローキタ・スヴァラ」だったという説である。
「スヴァラ」とは、「音声」の意である。
しかし、玄奘は「観自在」と訳した。
おそらく、アヴァローキテーシュヴァラを、「観(アヴァローキタ)」+
「自在(イーシュヴァラ)」の合成語と見て、
こう訳したのであろう。
そして、般若心経の場合、「観自在」という訳語は実にぴったり納まっている。
一般的には、
「観音」というときには「大悲」を強調し、
「観自在」というときには「智慧」を強調して
このように訳出したのだといわれている。
「アヴァローキタ」は、「観られた」という、受け身の形であるが、
インド語では、観られることは、観ることでもある。
観自在菩薩は、世間の多くの人々から観られつつ、
多くの人々を観、そして救う働きが自在であるといわれている。
(紀野一義、般若心経を読む、講談社現代新書 606)
この本の最初のあたりに
玄奘三蔵と般若心経のことが書いてある。
イギリスの探検家スタインが敦煌の石室から出てきた教典類を
王道士から買い取ったのは1906年のことだった。
この敦煌出土本の中に
唐梵飜対字音般若波羅密多心経
があった。
この本の序文に次のような話がのっている。
玄奘が益州の空恵寺にいた時、インドから来た僧が病気で苦しんでいたのを見て
これを看病した。
このインド僧は玄奘が砂漠を越えてインドに仏教の教典を取りに行く志を抱いている
ことを知ると、
玄奘に般若心経という短いお経を教えてくれた。
そして、これを唱えてゆけば、災厄にもあわず、病気にもかからないと言ったという。
のちに玄奘が中インドのナーランダー寺に行ったら、
なんと、かの病僧がそこにいるではないか。
驚く玄奘にその僧は、私は観世音菩薩である、と告げて姿を消したという。
玄奘は、あの遠い遠い、まったく気が遠くなるほど遠い砂漠の道を
「ガテー、ガテー、パーラガテー、バーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」と
般若心経を唱えながら進んで行ったのであろう。
さて、この伝説はともかく
玄奘の頃にすでに
鳩摩羅什の訳の般若心経があったであろうから
その訳を頭に浮かべて旅をしたのであろう。
あるいはインドの原語そのまま、唱えながらシルクロードを旅したのであろうか。
いずれにせよ、現代我々の知っている般若心経は
玄奘が長安に帰ってから訳したのであるから
まだなかったはずである。
この紀野一義氏の「般若心経を読む」の本は
般若心経を借りて、紀野一義氏一流の哲学を述べているので
好悪半々の感想になるというのが、私の印象であった。
私は埼玉県岩槻市にある玄奘の遺骨を祭った所に行ってきました。
(日中戦争の時、南京で偶然、玄奘の遺骨が発見され、
日本軍はこの遺骨を大事にとりあつかって中国に返したので、
特別に一部を日本が譲り受けたとのこと。
回りまわって、その遺骨は岩槻市の慈恩寺の元に保管されることになった。
埼玉県の寺恩寺から、さらにその遺骨の一部が奈良の薬師寺の玄奘廟に
ゆずり渡されたという。薬師寺のこのお廟にも行ったことがあります。)
私の友人、駒沢大学教授の袴谷憲昭氏にこの話をしたら、
彼が書いた、玄奘三蔵の本(桑山正進・袴谷憲昭:玄奘、大蔵出版)を送ってきた。
これが専門の本で難しく、内容はほとんど私の力を越えている。
玄奘がなぜ、経典を求めてインドへの旅をしたのだろうか。
玄奘の読んだ仏典がインドバラモン出身の真諦による中国訳であったのだが、
その翻訳が不完全なため、真実を求めてインドへ行ったのではないかと袴谷教授は推察している。
真諦は南朝の梁の武帝(在位502−549)の招きで、中国に来たといわれている。
武帝は、その学才において南朝最大の皇帝として名高く、彼の治世48年間に
南朝文化は最も充実したときを迎えた。しかし、真諦は武帝の没する前年に来て、
安定した政治に恵まれず、各地を転々として、不完全な仏典の翻訳しか残せなかったのである。
袴谷教授の本から、玄奘の力いっぱいの仕事が、結局は同時代の中国仏教界に
あまり影響を与えないでしまったこと、
正確な翻訳は後の文献研究者にとって貴重な研究資料を与えたことがわかった。
玄奘の新訳は、羅什の旧訳の流行を止めることはできなかった。
わずかに、般若心経だけは、羅什の訳をおさえて、玄奘の新訳が圧倒的流行をみた。
さらに、玄奘は政治的に絶妙にたちまわって
すべての権力者たちの力を、うまく自分の事業実現に使ったこと
等がわかった。
(当時、唐と敵対の関係にあったシルクロードの国の王様からも、支援を受けた)
探検家で冷静な学者であった玄奘は、たぐいまれな政治的センスの
持ち主でもあった。
太宗皇帝が西域の風俗の話を聞きたがって、皇帝の相手をさせられたのを我慢し
ながら勤め、それでも大慈恩寺を建ててもらって、そこで翻訳するのに成功した
その苦労と強い意志はただものではない。持ち帰った経典を火災から守るため
大慈恩寺に大雁塔を建てたのである。
私が紀野一義氏の般若心経解説の一部がどうしても理解できない
と思ったら、
袴谷氏によれば
それは当然、般若心経は呪文みたいなもので
真の仏教ではない(論理的ではない等の理由)、というのが袴谷先生の考え。
なーるほど、どうりで私には理解できないわけだ
と思ったりした。
私にとってまるで複素関数のような難しい般若心経であるが
わかっている人には、これぞ真理、奥義中の奥義
エッセンス
ということなのでしょう。
まあそれはそうとして、これからも般若心経について考えていきたい
と思っています。
・般若心経(花山勝友氏の現代語訳)