香港旅行記(4)

16回目から17回目まで

香港旅行記 その16

香港の小さな民俗博物館
三棟屋博物館  客家の家屋
Sam Tung Uk Museum

12月14日(土)
午前中は香港理工大学で最近の研究や鋼構造の話題講演を
聞いてから、市内見学にでかけた。

この香港に客家の家屋を保存した博物館があるというので
ぜひ見たいと思い行ってきた。

香港理工大学の向かいに九龍站(駅)がある。
 站は中国本土でも駅のことである。

九広鉄路(Kowloon Canton Railway) 香港広州300キロ

香港が管理しているのは、九龍から国境の駅羅湖まで。
一般乗客が自由に行けるのは1つ手前の上水まで。

その先へ行くには特別の許可証がいる。

1975年に九龍站は現在のこの地に移転されたが
その前は尖沙咀にあった。

昔站のあった場所に
時計台だけが残されている。
それが旧九龍站時計台である。

天星小輪碼頭 Star Ferry Pier の近くにある。

港の近くで夜景を見ながら散歩する場所だから、この時計台は 有名ですね。

駅を尖沙咀におくより町の発展のことを考えて、現在の場所に
移したのであろう。尖沙咀には地下鉄がある。

九龍站は香港返還の後に一体となる中国本土行きの長距離列車の
ターミナルになる。そういう輝かしい未来が約束されているから
駅周辺の建設も盛んだ。

駅のそばに大きなバスターミナルやタクシー乗り場がある。

駅には中国の各地の民族(衣装を来た男女)や名所を1枚にまとめた
大きな絵の看板が飾ってあった。

これからは香港を出発すれば、上海や北京にそのまま行くことができる。
新彊ウィグル自治区にも行くことができる、雲南省にも行かれますよ
というわけだ。

今は香港から中国に行くには、香港でビザをとってから
列車なら広州まで行き、そこから中国の各地への列車に乗り換える。

飛行機ならいきなり香港から北京や西安などに飛べるが。

日本の若者が上海まで船で行き、上海から中国大陸横断の長距離列車
に乗っていたけど、これからは香港からも中国大陸横断の長距離列車の旅
ができることになる。

理論的にはモスクワ、ベルリン、パリそしてロンドンにまで行ける。
北京政府も張り切るわけである。

あの猿岩石がなぜ上海から出発しないで、香港から出発したのだろうか。
彼らの書いたという本に理由が書いてあるだろうか。

上海に行くには、まず中国のビザをとらないといけない。

香港なら1週間まではビザがいらない。とりあえず香港に行って
そこから中国行きビザを申請した方がてっとりばやいということだろうか。

香港はイギリス領。イギリス領香港から総督の密命を受けてロンドンまで
ユーラシア大陸横断の旅というのなら一貫性があるが、
あの軽さではとても重大任務のできる役者ではない。

(偶然、昨年10月にロンドン、そして12月に香港を見た私は
イギリスと香港について、この連載の終わりにまとめてみたい)

   九龍站    九龍站内    九龍站内
新しく建設された九龍站

そういうわけで
この九龍站からちょっと列車に乗ってみた。

大きな駅なのにがらんとしている。
駅員も窓口に数名しかいない。売店もない。

乗車券は地下鉄のように目的地を押せば料金が表示され
コインを入れて切符がでてくる。

改札口も無人化しているから駅員が必要ないのだろうか。

列車は新しく日本にもあるような普通の座席だった。

香港の地下鉄
【以前にリンクしたホームページのサービスが停止したようです。
時々確認にこなくては(1999.1)】

こちらも 香港の地下鉄
【このサイトもいつまであるか(2005.12)】

九龍駅から2つめの九龍塘駅までわずかの列車の旅。

九龍塘で地下鉄に乗り換え、
その地下鉄も2つめの太子(Prince Edward)駅で乗り換えて
全(草冠)灣(Tsuen Wan)に行った。

目的地は終点だった。

駅の案内板を見ると、目指す博物館は近い。
しかし見当をつけた道が違っていたようだ。

どうやら行き過ぎたようだと思って、向こうから来た若いカップルに
場所を聞いてみた。

男の方は博物館の場所を知らないようだが、
女の方は私の考えたとおりの方角にあると言う。

しかし、車道が広くて、目的の方向に行くのには、
横断歩道橋を渡って行かないといけない。
見通しが悪い。

そこで横断歩道橋を降りた場所でまた聞いてみた。
今度は年配の男性だ。散歩をしていたその男性は親切にも
途中まで案内してくれた。

公園の中に目的の博物館があった。

三棟屋博物館といっても、大きな壁が見えるだけ。
平屋の大家族の家をこの地に移転したという。

もとは香港の町に近いほうにあったが、都市開発で壊されそうになり
価値ある民俗資料だから、郊外に移そうということになったようだ。

客家の住居は中国でも独特で、ものの本にはよく紹介されている。

> 客家 hakka(北京語では kejia)とは東晋(4〜5世紀)の末まで黄河流域
> に住んでいたが、異民族の侵攻に抵抗して破れ、また戦乱を避けて集団で南へ
> 大移動した落ち武者たちの子孫と考えられる。

> あとから移ってきたため、いい所はとっくに先住民に占拠されて、
> 大部分の客家は自然条件の悪い山間僻地に定住するしかなかった。

> 広東を中心に散居するが、さらに台湾、東南アジア
> (客家は華僑の主流であり、東南アジア各地の経済を掌握している)
> そして欧米諸国に広がっている。

> 客家の女性は昔から働き者で、漢民族の中でも
> 纏足(てんそく)の習慣がなかったのは客家の女性だけ。

先住民からすれば、よそから来た人たちだから、客家と呼んだという。

しかし、客という名前どおりには、温かく向かえられなかったらしい。
警備の厳重な家の作りになっている。そして集団で住んでいるのも
結局仲間どうしで助けあってきた歴史を示していることになる。

窓が少ない。回りを壁で取り囲んで、せいぜい中庭で日向ぼっこをしていた
のだろうか。まあ、建物の中に中庭をもつ建築スタイルは北京の四合院
などもそうだ。

中は小さな部屋でいっぱい区切られていた。
一つひとつに先祖を祭る部屋とか、若夫婦の部屋とか、台所とか
説明がしてあった。家具も当時のものが並べられ、貴重な資料だと思った。

> 客家の料理は味が比較的濃厚でやや塩辛く、北の料理の系統に属する。
> 交通の不便な山間僻地に定住したので買物が不便であり、生活も貧しかったから
> 塩味をきかせた少量のおかずで食事ができるよう工夫がされた。

> 客家料理は脂肪分が多い。これは北方系の伝統を受け継いできたことと、
> 重労働のもとで体をもたせるため脂肪分を多量に摂取する必要があったからだろう。

> 客家人はいろいろな保存食品を作ることに長じている。塩漬けや乾燥保存食など。

辞典を読むと、客家の女性が外に出て働き、男は家の中で家事をしていたという。

この住居の中で保存食を作り、三代あるいは四代もの大家族が
暮らしていたのだろう。

隣の部屋と壁一枚という、我々だったらプライバシーの守るのが困難と
思われるような環境の中で、1000年以上も民族の伝統を守りながら
生活してきたのだ。

ふと、ヨーロッパの教会を300年も500年もかけて造ってきた
ヨーロッパ人の歴史を考えてみた。

日本人からすれば気の遠くなるようなことを
大陸の人々はしているのだ。

       居間と厨房の説明書

         

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