ルーシー・モード・モンゴメリーは子どものころから詩や物語を
書くことが好きだった。いつか世に認められる作家になろうと努力を続けた。
拒絶されても何度も出版社に詩や小説の原稿を送り続けた。
そして、だんだん自分の作品が本になって出て、読者からの嬉しい手紙を
もらうようになる。
著者名をL・M・モンゴメリーと表記したくて、ルーシー・モード・モンゴメリー
という本名を載せることに抵抗したという。特にルーシーという名前を嫌った。
これは厳しく育てられた祖母の名前だったからかもしれない。
彼女は、祖父の死後一人となった祖母と、彼女が死ぬまで一緒に暮らす。
彼女はモードと呼んでほしがった。
彼女が2歳のとき母が死んだので、父は彼女を妻の実家にあずけた。
そして、彼女が13歳の時、父はメアリ・アン・マックレーと再婚する。
16歳の時、彼女は父の家族と一緒に暮らすが、義母とそりがあわず、義母は
彼女が通う高校の校長と彼女が結婚することを望むが、彼女は嫌いな相手なので
結局父の家族と別れ、祖父母のもとに戻ってくる。
しばらく地元の子どもたちに音楽を教えていたが、プリンス・オブ・ウェールズ・
カレッジの教員養成コースで学び、1年間で教員の資格をとる。そして教師となる。
1895年に文学の勉強をするため、ハリファックスのダルハウジー大学に入学し、
1年で大学を卒業する。
彼女はプリンスエドワード島ベルモントで教壇に立った。
話し相手がほしかった彼女は、時々親戚のシンプソン家を訪ねた。上から順に
フルトン、アルフレッド、エドウィンという息子たちがいた。彼女にとって
またいとこであった。彼女はフルトンとアルフレッドから恋されたが
相手にしなかった。
そのうちに三男エドウィンが彼女に恋心をいだくようになった。
彼は二人の兄たちより頭も良く、高い教育を受けていた。彼女は、常々
人生の伴侶には、自分にふさわしい知性と社会的地位がないといけないと考えていた。
彼女からみて、エドウィンは夫としての条件を満たしていた。
こうしてプロポーズを受けて、バプテスト派の神学生エドウィン・シンプソンと
ひそかに婚約した。しかし、ほどなく彼女は彼を愛していないことに気がついた。
彼に人間的な親しみや優しさが不足していたのだろうか。
彼女は秋からロウアー・ベデックという村で教師となり、下宿先の息子の
農夫ハーマン・リアドと恋に落ちる。彼女はハーマンを男性として意識するように
なる。しかし、ハーマンは彼女と身分や教育程度が違いすぎるから、彼との結婚生活
が後悔とみじめな人生になることを予感した彼女は、きっぱりと彼とも別れた。
(ハーマンは彼女が詩や小説を書くことを好まなかった)
1898年の春にハーマンと別れた彼女は、祖母と暮らすためキャベンディッシュ
に帰る。そして婚約者エドウィン・シンプソンにも婚約解消の手紙を書いた。
翌1899年にハーマンはインフルエンザで亡くなってしまった。
彼女もハーマンの死を大いに悲しんだという。彼と結婚したい気持ちと結婚すべき
でないという気持ちが、半々であったのだろう。
1901年に、友人の推薦で彼女はハリファックスの新聞「ディリー・エコー」の
校正の仕事につく。やがて、コラム記事を書いたり社交面の記事を書くようになる。
短い時間に、うめ草的記事を書く技術を鍛えられる。これは作家になるために
役に立った。あの瀬戸内寂聴さんも若いときに、勤務していた雑誌社で頼まれて
与えられたスペースに短い時間で小作品を書いているうちに、
それが得意技になったという。
ぼつぼつ作品を発表するモードのもとに、ヴァージニア州の作家フランク・モンロー
・ベヴァリーから作家同士のペンパルになろうという手紙が届いた。
そして、彼から届いた手紙の1つに、非公式な作家の集まりを主催している
ミリアム・ジーバーという女性について書かれたものがあった。
ミリアムは作家同士が文通することで作家がよくなると思い、
一種のペンパル紹介所を設けていたのだった。
フランクとの文通にはみるべき結果はなかったが、ミリアムはモードにぴったりの作家を
紹介してくれた。一人はカナダ西部アルバータ州のイフレイム・ウィーバーで
彼は詩やエッセイを新聞や雑誌に掲載していた。
二人は、互いの作品を批評しあい、それが採用してくれそうな雑誌社のアドバイス
をしあって、文通は40年間続けられた。
ミリアムはさらに、スコットランドのアロアに住むジョージ・ロイド・マクミラン
を紹介してくれた。しかし、モードは、マクミランとも文通していることを
ウィーバーには言ってはいけないと指示された。そして、マクミランにはウィーバー
のことを話してもよいのであった。
マクミランは、モードが好きな花や貝殻や小石を送ってくれた。
マクミランから、イギリスやヨーロッパの人気のある本についての情報を得ることが
できた。モードはアメリカやカナダの若い作家のことを教えた。
こうしてカナダの田舎にいながら、彼女は世界の若い文学者の動向を知ることが
できたのである。
いくつかの出版社に送った原稿は採用されず戻ってきたが、あきらめきれない彼女が
最後に送ったボストンのL・C・ページ社が「赤毛のアン」を出版してくれた。
売れ行きがよいので、出版社は契約により、さらに続編を書くよう催促するが、
彼女は別のものを書きたい。がともかく契約実行をして「アンの青春」、
「アンの友だち」、「アンの愛情」までを出版する。
そして、出版社の意向と彼女の希望とのずれや、映画成功に対して著者に無報酬
(そういう契約だった)の扱いをしたことなどで、出版社に対する不信感が生まれ、
彼女は別の出版社と仕事をするつもりになる。しかし、ページ社は契約延長を主張する。
ついに出版社との間に長い裁判が起きた。
その間に、祖母の死、婚約者との結婚、長男出産と家族生活も忙しくなる。
作品も多数発表し、子どもたちが大きくなるにつれ、世間的な母親の役割も
無意識に演じなければならなくなる。
モードの長男チェスターは大学の工学部に入学したが2度の落第で退学した。
そして、新しく法律の勉強を始めたが1年目の半ばルエラ・リードと密かに結婚して
子どもも生まれることを母に告白する。
次男スチュアートの方は苦労しながらも、なんとかトロント大学医学部を卒業する
ことができた。家庭生活をざっとみたところ、平均的な一生を送ったのだろう。
夫が鬱病になって教会を辞めたり、長男の大学の落第や母親の期待にそむく結婚と
それに続く離婚など、色々あったが、たいていの家庭にある話である。
「赤毛のアン」はユーアンとの交際中に書かれている。
(第一章を書きはじめてすぐにユーアンが訪ねてきたので、
ペンを置いて彼とおしゃべりした)
アンはアラン牧師夫人を崇拝し、「牧師さんの奥さんになりたいわ」と憧れる
ここには作者の理想が語られている。
彼女には他に、最愛の従兄弟フレデリカ・キャンベル(愛称フレッド)がいたが
、彼は三十代半ばで流感で死ぬ。
気難しい祖母との生活をしながら、アンの執筆をしたが、そのころ
将来の夫となるユーアンや気持ちのあう従兄弟フレッドなどの訪問があったから
比較的落ちついて執筆をしたのではないか。
リースクデイル牧師館修復活動を主催しているウィルダ・クラーク夫人
生前のモンゴメリーのことを知っている人から彼女の厳しい躾の話が飛び出す。
モードおばさんはいつも「黒いステッキ」を持っていて、二人の息子のお仕置きに使っていた。
この話を聞いたウィルダの顔はこわばる。彼女の憧れのモードが
子どもに体罰を下す母親であったとは認めたくないに違いない。
ウィルダは「マクドナルド夫人、つまりモンゴメリーの日記には、辛かったことや
村人の悪口も書かれています。でも、この村での日々の中で、
幸福なときも数限りなくあったんです。絶対にそうだったと思います」と語る。
これはそのとおりだったであろう。
彼女の夫ハロルド・クラークは物静かな優しそうな人。彼は日曜学校では
マクドナルド夫人の指導を受けた。しかしモンゴメリーのリースクデイルの
日記には、彼の名前はでてこない。それに対してウィルダの返事
「日記は彼女の憤りのはけ口だったのでしょう。ハロルドはとても
おとなしくていい子だったから、モードは特別には書かなかったに違いないの
ですよ」(記録に書かれていることだけが真実ではない。書かれていない真実もある)
ノーヴァル時代
三十前の未婚の女性イザベルからの度を越したラブレター
「イザベルが望むような愛は与えられない。私はレズビアンではない」
こんなこわいファンがいるから有名人は気をつけないと。
作者モードは、自分の育ったマクニール農場を受け継いだジョンおじさんが
モードの育った家を取り払ったことを今になって後悔していると知って驚いた。
有名になった姪の家を残していたら、ティー・ルームでも開いてお金儲けが
できたのに、そう後悔していた。そして、モードは古い農家がなくなっていた
ことを心底喜んだという。自分の大切な思い出の家が、もう誰も足を踏みいれ
られない存在となったことに安心感をおぼえたようだ。
(作者は、こころない読者たちが、自分の思い出の場所にずかずかと上がり
込んでくることを嫌っていた)
晩年モードは有名作家になったのち、島を訪れることはあっても、決して
住もうとは思っていなかったようだ。夫がノーヴァルの職を辞めたときにも、
引っ越すならトロントにと思っていた。オンタリオ州で生まれた息子二人
の近くにいたかったろう。また、先祖代々の土地を譲られることもなく、
善良ではあっても、自分の金銭をあてにする親族たちの住む島に帰る
気持ちはなかったのだろう。
都合の良い時だけモンゴメリーをあてにしたり利用する島の親戚たち。
これは世界どこにでもありそう。
モンゴメリーは、アンの結婚式の日に、自分の才能のなさをはっきりと
認めさせ、結婚を「降伏」だと書いている。これは自分自身のことだった。
年譜 1874(0) ルーシー・モード・モンゴメリーはプリンスエドワード島クリフトン・コーナー で生まれる。父ヒュー・ジョン・モンゴメリー、母クララ・マクニール・モンゴメリー 1876(2) 母が結核で亡くなる。 母の両親(祖母)のアレクサンダー・マクニール とルーシー・ウェルナー・マクニール夫妻に預けられる。回りはおじ、おば、いとこ が大勢。 1880(6) キャベンディッシュ(アヴォンリーのモデル)の学校に入学。 1887(13) 父はメアリ・アン・マックレーと再婚する。妹ケイトが生まれる。 1890(16) 父方の祖父ドナルド・モンゴメリー上院議員とサスカチェワン州プリンス アルバートに住む父と義母のところに行く。ウィルとローラ・プリチャード兄弟と 強い友情で結ばれる。シャーロットタウンの「パトリオット」、モントリオールの 「ウィットネス」、プリンス・アルバートの「タイムズ」に初めて原稿が載る。 1891(17) プリンスエドワード島にもどる。 1892(18) パークコーナーのキャンベル家のいとこたちと過ごすこと多い。 キャベンディシュで子どもたちに音楽を教える。 1893(19) シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジの 教員養成コースで学ぶ。 1894(20) 1年でカレッジを修了し教員免許を得る。プリンスエドワード島 ビデフォードの教員になる。 1895(21) 文学の勉強をするためビデフォードの教員をやめる。秋にハリファックスの ダルハウジー大学に入学。 1896(22) フィラデルフィアの「ゴールデン・ディズ」とボストンの「ユース・ コンパニオン」から原稿料をもらう。1年間の大学生活を終えてキャベンディシュ に戻る。プリンスエドワード島ベルモントで教える。 1897(23) バプテスト派の神学生エドウィン・シンプソンとひそかに婚約する。 秋からロウアー・ベデックという村で教師となる。下宿先の息子の農夫ハーマン・ リアドと恋に落ちる。短編に「L・M・モンゴメリー」と署名する。 1898(24) ハーマン・リアドとの結婚は断念する。エドウィン・シンプソンに婚約解消 の手紙を書く。祖父の死により、一人になった祖母と同居するためキャベンディッシュに 戻る。 1899(25) 愛した農夫ハーマン・リアドが死ぬ。 1900(26) 父も死亡する。 1900年8月義和団事件で8カ国連合軍は円明園で略奪破壊をはたらく。 1901(27) 秋ハリファクスの「デイリー・エコー」新聞社で半年記者として働く。 1902(28) アルバータのイフレイム・ウィーバーと文通をはじめる。 1903(29) スコットランドのジョージ・マクミランと文通を始める。この時期の習作が のちの「アンの友だち」、「ストーリー・ガール」、「アンをめぐる人々」に使われる。 いとこのフリード・キャンベルとの友情強まる。キャベンディッシュ教会に長老派 ユーアン・マクドナルド牧師が赴任。 1904(30) 「赤毛のアン」を書き始める。 1906(32) ユーアンと婚約するが、いつ結婚できるかわからない。ユーアンは勉強のため グラスゴーに行く。 1907(33) ボストンのL・C・ページ社が送った原稿をもとに「赤毛のアン」の出版を 決定。続編を書く契約をする。この契約が著者に不利だったので後で訴訟原因になる。 1908(34) 春出版の「赤毛のアン」は5カ月で1万9千部売れる。マーク・トゥエイン をはじめファンレターが殺到。 1909(35) 「アンの青春」出版 1910(36) ユーアン・マクドナルド牧師はリースクデイルとゼファーの教会に任命され オンタリオ州に行く。モンゴメリーはシャーロットタウンでカナダ総督グレイ伯爵と 会見。ボストンにページを訪ねる。 1911(37) 祖母が87歳で死亡。「ストーリー・ガール」出版。 ユーアンと結婚。 スコットランドとイングランドに2カ月の新婚旅行。 オンタリオ州リースクデイルの牧師館に住む。 1912(38) 「アンの友だち」出版。長男チェスター生まれる。 1912年4月14日深夜ニューファンドランド沖でタイタニック号氷山に衝突 1914(40) 次男ヒュー・アレクサンダー死産。 1915(41) フリード・キャンベルがチフスで死にかける。「アンの愛情」出版。 三男ユーアン・スチュアート誕生。 1916(42) 詩集「夜警」出版。書評は好評だが売れ行きはよくない。 ページ社と離れ、トロントのマックレランド・アンド・スチュアート社から次作 を出版することにする。 1917(43) 「アンの夢の家」出版。自伝的エッセイ「険しい道」出版。 1918(44) ページの印税不払いと著者の承諾なしに初期の短編出版のため法廷闘争。 1919(45) いとこフリード死亡。 夫が鬱病になる。「虹の谷のアン」出版。 「赤毛のアン」映画化されるが、契約により4万ドルは著者でなくページ社に入る。 1920(46) 「アンをめぐる人々」が著者に無断で出版される。ページ社に訴訟。 1921(47) 「アンの娘リラ」出版 1922(48) 夫がゼファーのマーシャル・ピッカリングとの交通事故を起こし訴えられる。 1923(49) 米国法廷でページに勝訴。「可愛いエミリー」出版。英国王立芸術院会員になる。 1924(50) 長老派とメソジスト派の統合に反対投票するよう、リースクデイルとゼファー の教区員に働きかける。 1925(51) 「エミリーはのぼる」出版。 1926(52) ユーアンはオンタリオ州ノーヴァルへ転任承諾。 1927(53) 「エミリーの求めるもの」出版。ユーアンの病状不安定。トロントで 皇太子、ジョージ王子、英国首相に拝謁。 1928(54) 三男スチュアートもオーロラの全寮制学校へ進学。ペンパル、イフレイム・ ウィーバーに会う。ページとの長期裁判に勝訴。 1931(57) 長男チェスターがトロント大学工学部入学。 1932(58) チェスター1年生落第。教会の青年劇団指導。ノラ・ルフルジー・キャンベル と再会。 1933(59) スチュアートがトロント大学医学部入学。チェスター工学部退学し、教会長老 の娘ルエラ・リードと密かに結婚。 1934(60) ユーアンはグエルフ療養所で数ヶ月過ごす。投薬事故で死にかける。 初孫誕生。チェスターは法律を勉強する。 1935(61) 健康問題とノーヴァル教区員の誤解で、ユーアンは聖職辞職。トロント郊外 のハンバーサイドに転居。 大英帝国勲位を受ける。フランス芸術院会員になる。 1936(62) 「アンの幸福」出版。 チェスターの妻ルエラは実家でキャメロン出産。 カナダ政府は、グリーンゲイブルス、恋人の道その他の場所などキャベンディッシュ の一部を国立公園に制定。 1937(63) トロントを「丘の上のジェーン」の冒頭背景に使う。長男チェスターへの心労、 スチュアートの恋愛問題、ユーアンの鬱病が、モンゴメリー自身の精神状態をおびやかす。 1939(65) グロセット・アンド・ダンロップ社がモンゴメリー初期の全著作の再版に 着手。ブリンスエドワード島に最後の訪問。 第2次大戦始まり、いっそう鬱状態になる。「炉辺荘のアン」出版。 1940(66) チェスター兵役免除。スチュアートは医学部卒業まで兵役猶予。チェスター離婚。 アンの最後の物語「アンの村の日々」をまとめる。1974年出版。 1941(67) G・B・マクミランに最後の手紙。 1942(68) トロントで死亡。プリンスエドワード島のキャベンディッシュ墓地に埋葬。 1943(69) 夫ユーアン・マクドナルド死亡モード・モンゴメリーとローラ・インガルスの年表 モード・モンゴメリー ローラ・インガルス 家庭にあこがれた孤児のあゆみ 開拓一家の力強い父親としっかり者の母親 1867 ローラ・インガルス生まれる 1874 モード・モンゴメリー生まれる 1876(2) 母が結核で亡くなる 1882(15) 教員になる 1884(10) 日記を書きはじめる 1885(18) アルマンゾと結婚 1886(19) 娘ローズ生まれる 1887(13) 父はメアリと再婚 1893(26) サウス・ダコタのデ・スメットの町へ 1894(20) 教師となる 1895(21) ハリファックスの大学入学 1895(28) ミズーリ州マンスフィールドへ 1897(23) 祖父が死に祖母と暮らす 1902(35) 父が亡くなる 1903(29) 牧師マクドナルドと出会う 1904(30) 赤毛のアンを書きはじめる 1906(32) マクドナルドと婚約 1908(34) 赤毛のアン出版 1911(37) 祖母亡くなり結婚する 1912(38) 長男チェスター生まれる 1915(48) サンフランシスコで娘ローズに会う 1923(49) 可愛いエミリー出版 1924(57) 母が亡くなる 1928(54) ページ社との裁判勝訴 1930(63) 自伝を書きはじめる 1932(65) 大きな森の小さな家出版 1935(61) 健康問題で夫辞職 1935(68) 大草原の小さな家出版 1939(65) 炉辺荘のアン出版。 1942(68) モード死亡 1943(69) 夫マクドナルド死亡 1949(82) 夫アルマンゾ死亡(10歳年上の夫) 1957(90) ローラ死亡 はじめの四年間ユニークなアンと作者の年表
プリンスエドワード島の歴史赤毛のアンの島
ユニークなYさんの「赤毛のアンの翻訳者」比較
参考にした本
☆高山智津子:赤毛のアンと大草原のローラ、清風堂書店(1991)
☆キャサリン・M・アンドロニク、折原みと訳:わたしの赤毛のアン、ポプラ社(1994)
☆メアリー・ルビオ、エリザベス・ウォーターストーン、槙朝子訳:<赤毛のアン>の素顔 L・M・モンゴメリー、ほるぷ出版(1994)
☆ハリー・ブルース、橘高弓枝:モンゴメリ 「赤毛のアン」への遙かなる道、偕成社(1996)
☆テリー神川:「赤毛のアン」の生活事典、講談社(1997)
☆梶原由佳:「赤毛のアン」を書きたくなかったモンゴメリ、青山出版社(2000)
☆松本侑子:誰も知らない「赤毛のアン」、集英社(2000)
☆小倉千加子:「赤毛のアン」の秘密、岩波書店(2004)文学放談の部屋 他の作家についても扱っています。