ルーシー・モード・モンゴメリーの育った島
プリンスエドワード島の歴史については、彼女はほとんどアンのシリーズ
に書いていない。
そこには、アメリカ大陸の開拓時代、そして先住民族の悲劇的な歴史のあることを
忘れてはいけない。
プリンスエドワード島には、あとでのべるように60以上の異なった民族が 仲良く生活している。人口の81%はイギリス系、14%がフランス系である。 長さ224キロメートル、幅は一番広いところで64キロメートルしかないから 30分ドライブすれば海が見える。最も標高の高いスプリントンでも 海抜130メートルしかない。人口は13万人(1990年) 1万8000年前氷河期の氷河がとけ海水位が上昇し、それまで陸続き だったプリンカエドワード島もカナダ大陸からわかれた。 1万600年前(紀元前8600年)ころ住んでいた古アメリカ・インディアン の石槍の穂先(石器)が発見されている。 彼らの子孫ミクマク族が狩猟生活をして暮らしていたとき、最初に来た ヨーロッパ人はフランスからのジャック・カルティエだった。 1534年5月にニューファンドランドに達し、6月にプリンスエドワード島に 上陸した。 (ニューファンドランドに初めて来たヨーロッパ人は、10世紀末の北欧人である) しばらくはミクマク族との交易や、飲み水や燃料の補給に寄港する漁船以外は 誰も島には訪れなかった。 しかし、漁船や毛皮商人の往来が活発になってくると、フランス政府は 北米に恒久的な植民地を建設する意志をもつようになった。 そして入植者がしだいに入ってくるようになる。 当時フランスは、プリンスエドワード島をサンジャン島と呼んでいた。 フランスの入植者は1604年にファンディー湾に入った。 冬がすぎ春になると、生き残った入植者は、ファンディー湾を渡って大陸に 移住した。彼らは、ここで新しく、ポール・ロワヤール植民地を建設する。 入植者に食料や壊血病の特効薬を与えてくれたミクマク族の助けで、 植民地は成長し、繁栄した。 フランス系の入植者は、彼らの新しい郷里をアカディアと呼び、現在の ノヴァスコシア州、ニューブランズウィック州、プリンスエドワード島 に住んでいた人々は、ほどなくアルカディア人と呼ばれることとなる。 アルカディアは、17世紀全体を通じて、イギリスとフランスの交戦状態 のため両国の紛争の影響をまともに受けた。 (1605 ポール・ロワヤール建設 ここをめぐって英仏争奪戦が数十年続く。 1710 英国に占領されたポール・ロワヤールがアナポリス・ロイヤルと改名) 当時フランスは、アカディアに最初に上陸したのはジャック・カルティエなの だから、そこはフランス領であると主張し、イギリスは、そこを発見した 最初のヨーロッパ人はジョン・カボットであるから、アカディアはイギリスに 属すると反論した。イギリスはこの地域をラテン語で「新しいスコットランド」 を意味する「ノヴァスコシア」と命名した(1713)。 アカディアは農地にも恵まれていたが、もっと重要だったのはそれが大漁場 クランド・バンクスのそばに位置していたこと、そしてニュー・フランスと ニューイングランドの間の戦略的に重要な位置を占めていたことだった。 それがイギリスとフランスがアルカディア獲得のために血を流した本当の理由 なのである。 先住民族ミクマク族は、ヨーロッパ人のもたらした病気とアルコールによって 滅びの道をたどった。こういう例は他にも多い。 イギリスが支配すると、ミクマク族にとってはフランスよりも冷遇された。 土地を追われた彼らに、政府はレノックス島に移住するよう命令した。 しかし、そこも安住の地ではなかった。島の3分の1は沼地であり、 豊かな土地でなかった。その沼地さえも入植者に賃貸しされた。ミクマク族 は地代を払えなかったから。ミクマク族は奪われた土地の補償をたえず 求めてきた。1840年から政府も彼らの悲惨な状態を認識し、二人の インディアン担当委員を任命し、ミクマク族を保護する予算もつけるように なった。 イギリスは手にいれたサンジャン島をセントジョンズ島と改名した(1763)。 1765 サミュエル・ホランドは島の地図をつくる。 1799 国王ジョージ三世の息子エドワード王子にちなんで、 プリンスエドワード島と名付けられた。 プリンスエドワード島には、60以上の異なった民族が存在している。 ミクマク族インディアンは約2000年前に到着し、17世紀初めになると フランスからの移住者がやってきてアルカディア人と呼ばれた。 その後イングランド、スコットランド、アイルランドからの移民が渡ってきた。 1861年までに島の人口は約8万人に増加していた。他の民族の多くは 第二次世界大戦後にプリンスエドワード島に移民してきた。 本土連絡橋 農業(輸送費低下)、漁業(環境面での悪影響)、観光(容易な来訪) の影響ゆえ激しい論争おこる。 ・よりよい明日を求める ・環境と島らしい生活を守る 「島という心理的な孤立性を失えば、島は不安定な将来とひきかえに そのアイデンティティも失ってしまう」 「われわれの低い所得と高い失業率は大西洋地域共通の問題だ。 われわれは北米の退屈で商業的な大衆文化にいささかの反証を提供している。 われわれには交通渋滞や公害に悩まされずに住める場所がある。」 (プリンスエドワード島大学のディヴィド・ウィール教授) この連絡橋は完成しました。設計から完成後の管理までの講演を 本学において、カルガリー大学のガリ教授にしていただいたことがあります。 こちらはその時の写真 こちらも ダグラ・ボールドウィン、木村和男訳:赤毛のアンの島 プリンスエドワード島の歴史河出書房新社
年譜 1894(0) ルーシー・モード・モンゴメリーはプリンスエドワード島クリフトン・コーナー で生まれる。父ヒュー・ジョン・モンゴメリー、母クララ・マクニール・モンゴメリー 1876(2) 母が結核で亡くなる。 母の両親(祖母)のアレクサンダー・マクニール とルーシー・ウェルナー・マクニール夫妻に預けられる。回りはおじ、おば、いとこ が大勢。 1880(6) キャベンディッシュの学校に入学。 1887(13) 父はメアリ・アン・マックレーと再婚する。妹ケイトが生まれる。 1890(16) 父方の祖父ドナルド・モンゴメリー上院議員とサスカチェワン州プリンス アルバートに住む父と義母のところに行く。ウィルとローラ・プリチャード兄弟と 強い友情で結ばれる。シャーロットタウンの「パトリオット」、モントリオールの 「ウィットネス」、プリンス・アルバートの「タイムズ」に初めて原稿が載る。 1891(17) プリンスエドワード島にもどる。 1892(18) パークコーナーのキャンベル家のいとこたちと過ごすこと多い。 キャベンディシュで子どもたちに音楽を教える。 1893(19) シャーロットタウンのプリンス・オブ・ウェールズ・カレッジの 教員養成コースで学ぶ。 1894(20) 1年でカレッジを修了し教員免許を得る。プリンスエドワード島 ビデフォードの教員になる。 1895(21) 文学の勉強をするためビデフォードの教員をやめる。秋にハリファックスの ダルハウジー大学に入学。 1896(22) フィラデルフィアの「ゴールデン・ディズ」とボストンの「ユース・ コンパニオン」から原稿料をもらう。1年間の大学生活を終えてキャベンディシュ に戻る。プリンスエドワード島ベルモントで教える。 1897(23) バプテスト派の神学生エドウィン・シンプソンとひそかに婚約する。 秋からロウアー・ベデックという村で教師となる。下宿先の息子の農夫ハーマン・ リアドと恋に落ちる。短編に「L・M・モンゴメリー」と署名する。 1898(24) ハーマン・リアドとの結婚は断念する。エドウィン・シンプソンに婚約解消 の手紙を書く。祖父の死により、一人になった祖母と同居するためキャベンディッシュに 戻る。 1899(25) 愛した農夫ハーマン・リアドが死ぬ。 1900(26) 父も死亡する。 1900年8月義和団事件で8カ国連合軍は円明園で略奪破壊をはたらく。 1901(27) 秋ハリファクスの「デイリー・エコー」新聞社で半年記者として働く。 1902(28) アルバータのイフレイム・ウィーバーと文通をはじめる。 1903(29) スコットランドのジョージ・マクミランと文通を始める。この時期の習作が のちの「アンの友だち」、「ストーリー・ガール」、「アンをめぐる人々」に使われる。 いとこのフリード・キャンベルとの友情強まる。キャベンディッシュ教会に長老派 ユーアン・マクドナルド牧師が赴任。 1904(30) 「赤毛のアン」を書き始める。 1906(32) ユーアンと婚約するが、いつ結婚できるかわからない。ユーアンは勉強のため グラスゴーに行く。 1907(33) ボストンのL・C・ページ社が送った原稿をもとに「赤毛のアン」の出版を 決定。続編を書く契約をする。この契約が著者に不利だったので後で訴訟原因になる。 1908(34) 春出版の「赤毛のアン」は5カ月で1万9千部売れる。マーク・トゥエイン をはじめファンレターが殺到。 1909(35) 「アンの青春」出版 1910(36) ユーアン・マクドナルド牧師はリースクデイルとゼファーの教会に任命され オンタリオ州に行く。モンゴメリーはシャーロットタウンでカナダ総督グレイ伯爵と 会見。ボストンにページを訪ねる。 1911(37) 祖母が87歳で死亡。「ストーリー・ガール」出版。 ユーアンと結婚。 スコットランドとイングランドに2カ月の新婚旅行。 オンタリオ州リースクデイルの牧師館に住む。 1912(38) 「アンの友だち」出版。長男チェスター生まれる。 1912年4月14日深夜ニューファンドランド沖でタイタニック号氷山に衝突 1914(40) 次男ヒュー・アレクサンダー死産。 1915(41) フリード・キャンベルがチフスで死にかける。「アンの愛情」出版。 三男ユーアン・スチュアート誕生。 1916(42) 詩集「夜警」出版。書評は好評だが売れ行きはよくない。 ページ社と離れ、トロントのマックレランド・アンド・スチュアート社から次作 を出版することにする。 1917(43) 「アンの夢の家」出版。自伝的エッセイ「険しい道」出版。 1918(44) ページの印税不払いと著者の承諾なしに初期の短編出版のため法廷闘争。 1919(45) いとこフリード死亡。 夫が鬱病になる。「虹の谷のアン」出版。 「赤毛のアン」映画化されるが、契約により4万ドルは著者でなくページ社に入る。 1920(46) 「アンをめぐる人々」が著者に無断で出版される。ページ社に訴訟。 1921(47) 「アンの娘リラ」出版 1922(48) 夫がゼファーのマーシャル・ピッカリングとの交通事故を起こし訴えられる。 1923(49) 米国法廷でページに勝訴。「可愛いエミリー」出版。英国王立芸術院会員になる。 1924(50) 長老派とメソジスト派の統合に反対投票するよう、リースクデイルとゼファー の教区員に働きかける。 1925(51) 「エミリーはのぼる」出版。 1926(52) ユーアンはオンタリオ州ノーヴァルへ転任承諾。 1927(53) 「エミリーの求めるもの」出版。ユーアンの病状不安定。トロントで 皇太子、ジョージ王子、英国首相に拝謁。 1928(54) 三男スチュアートもオーロラの全寮制学校へ進学。ペンパル、イフレイム・ ウィーバーに会う。ページとの長期裁判に勝訴。 1931(57) 長男チェスターがトロント大学工学部入学。 1932(58) チェスター1年生落第。教会の青年劇団指導。ノラ・ルフルジー・キャンベル と再会。 1933(59) スチュアートがトロント大学医学部入学。チェスター工学部退学し、教会長老 の娘ルエラ・リードと密かに結婚。 1934(60) ユーアンはグエルフ療養所で数ヶ月過ごす。投薬事故で死にかける。 初孫誕生。チェスターは法律を勉強する。 1935(61) 健康問題とノーヴァル教区員の誤解で、ユーアンは聖職辞職。トロント郊外 のハンバーサイドに転居。 大英帝国勲位を受ける。フランス芸術院会員になる。 1936(62) 「アンの幸福」出版。 チェスターの妻ルエラは実家でキャメロン出産。 カナダ政府は、グリーンゲイブルス、恋人の道その他の場所などキャベンディッシュ の一部を国立公園に制定。 1937(63) トロントを「丘の上のジェーン」の冒頭背景に使う。長男チェスターへの心労、 スチュアートの恋愛問題、ユーアンの鬱病が、モンゴメリー自身の精神状態をおびやかす。 1939(65) グロセット・アンド・ダンロップ社がモンゴメリー初期の全著作の再版に 着手。ブリンスエドワード島に最後の訪問。 第2次大戦始まり、いっそう鬱状態になる。「炉辺荘のアン」出版。 1940(66) チェスター兵役免除。スチュアートは医学部卒業まで兵役猶予。チェスター離婚。 アンの最後の物語「アンの村の日々」をまとめる。1974年出版。 1941(67) G・B・マクミランに最後の手紙。 1942(68) トロントで死亡。プリンスエドワード島のキャベンディッシュ墓地に埋葬。 1943(69) 夫ユーアン・マクドナルド死亡