可愛いエミリー
Emily of New Moon

ざっと読んだ印象では、エミリーは赤毛のアンの焼き直し。
いや、エミリーの本の役柄の配置などは、アンのシリーズよりは、作者の自伝に近い。
実際の彼女は、孤児院からもらわれてきたのではなく、父から離れて叔母や叔父の
誰かに育てられねばならなかった。
小さい少女が自分の好き嫌いに関わらず、くじ引きで引き取り手が決められる
という筋書きも、アンの話よりは実際体験に近いのだろう。

物語の筋をおうよりも、空想にふけり、形容詞の多い文章を書く少女のことを
書きたいだけ書いているという、一種のナルシスト的な印象であった。

おそらく、作者はアンのシリーズが日常のことを書くあまり散文すぎて、
自分の書きたい想像の世界をもっと書きたいという飢えを感じて、
この作品を書いたのであろう。

小説の後半で、亡き父に毎晩手紙を書くというスタイルをとっているのも、
作者の父にたいする憧れを満たすためにしたと思われる。

父が死んだとき、そんなふうに思うのは悪いと考えながらも、ほっとしたのを、
エリザベスは思いだした。
彼はどうどうとした身体の持ち主で、片いじで、がんこな老人だった。
鉄の鞭で家族をこき使い、5年間の病気に苦しんだのちその生涯を閉じたが、
そのあいだニュー・ムーンの生活はお話にならないほど悲惨なものだった。
マレー家の遺族たちは文句の言いようのないほど、りっぱにふるまい、もっとも
らしい顔をして泣き、お世辞たらたらの長い過去帳を印刷した。しかし、彼の死を
本当にかなしんだ者が、一人だってあっただろうか。
エリザベスはその思いでがきらいだったので、エミリーがそれを思いださせた
ことをおこった。

(ちびまる子の作者も実の祖父のことを評価せず、悪口をたくさん書いている。
そして、祖父の葬儀のときの家族の様子を冷静に描写している)

ゆうべ、彼女は第2回目の友情を埋葬して、その墓場で泣き明かしたばかり
ではないか。こんなにすばやい復活はまるで予期していなかったのだ。
ところが、イルゼの方は、まるでけんかなんかなかったみたいなのだった。
エミリーは遠まわしに昨日のけんかにふれた。イルゼの考えでは、昨日と今日は
まるでちがったことなのだった。エミリーはその考え方をうけ入れた。
そうしないわけにはいかなかった。イルゼという子はときどきかんしゃくを起こ
さないではいられないが、また陽気にはしゃいでエミリーと仲よくしないでも
いられないたちなのだということを、エミリーはさとった。エミリーが驚いたのは、
彼女ならばいろんな事がかなり長い間、心に食い込んでいるのに、イルゼはけんかが
すんだ瞬間に、もうそれを忘れてしまうらしいことだった。いましがた悪口を言わ
れたかと思うと、こんどは仲よしになってだきしめられたりするのには、時がたって
それになれるまでは、なかなか面食らわせられるものだった。

(こんな人はいる。いつまでも過去のことにこだわり過ぎるのが作者。だから、
自分の経験したこと聞いたことなどを、しっかり頭の中に整理して、後で小説に書ける。
その反対に昨日あんなに喧嘩したことも、今日はすっかり忘れて仲くなれるイルゼ
という少女もユニークなキャラクター。そんな性格の人間は政治家になれそう)

(エミリーが密かに亡き父宛に毎晩書いていた手紙を、あるときエリザベス叔母が
読んでしまう。叔母としては子どもを管理しているから、手紙を読むのは問題が
ないと考えていたらしい。さあ大変。激突の後に二人とも反省する)
「エミリー、あんたの手紙を読む権利が、わたしにはなかったよ。わたしは自分が
悪かったことをみとめます。ゆるしてくれるね」
「ああ、エリザベス叔母さん、すみません、すみません、あんなことは書くべきじゃ
なかったんです。でも、あたしは悲しいときに、あれを書いたんです。本気でそう
思ってるわけじゃないんです。ほんとに、ちっともあんなふうに考えてないんです。
ねえ、エリザベス叔母さん。あたしの言うこと、信じてくださるでしょう」
「わたしはそれを信じたいよ。エミリー」
(二人は抱き合って、心から仲直りをした)
けれども、まはっきりしておかなければならないことがあった。
「エリザベス叔母さん、あたし、あの手紙はやけませんの。だって、あれはお父さん
のものなんですもの。でも、そのかわり、こうしようと思います。もう一度すっかり
読みかえして、叔母さんのことを書いてあるところに星印をつけて、それから、
そこに、あたしの考えのまちがっていたという説明の注をつけます」

エミリーはその後の数日間の暇な時間を、説明の注を書くのについやしたが、
そのため、彼女の良心はやわらいだ。けれども、彼女がもう1度父あての手紙を
書こうとしたとき、彼女はもうそれが彼女にとって何の意味もないことに気がついた。
子供時代が少女時代へとうつるにつれて、たぶん、彼女はそういう段階をしだいに
ぬけだしていたのかもしれないが、また、エリザベス叔母との苦しいあらそいの
ために、手紙を書くことの意味がすっかり消えてしまったのかもしれない。
が、説明はどうであろうと、あのような手紙はもう書くことができなかった。
エミリーはそのことをとても残念に思ったが、2度とそれに帰っていくことは
できなかった。

(大いなる心境の変化。たぶん、叔母とのわだかまりが消えて、もう父に秘密の
手紙を書く必要がなくなったからだろう。路傍の石の作者の山本有三も、戦後に
検閲もなくなり、自由な時代になったのに、続きを書けなくなったという。
書く自由がなく、おさえつけられた世の中だったからこそ、書きたいと願う気持ちを
止められなかったのだろう。逆に、何でも書ける世の中になってみると、もはや
書きたいという意欲はなくなってしまったのだ)

この本のあとがきで、訳者村岡花子は「東京・大森の夫亡き淋しい家で」と書いている。
寂しさの中で、なおも彼女の翻訳の仕事は続けられる。

(エミリーはのぼる)どこか赤毛のアンの中の文章に似ている。
仏教にもいい点があると言った牧師さん。○○おばさんは、その牧師さんの神学は
健康でないという。やはり、キリスト教徒の本音がちらり。

私は本日、良い行いを2つした。1つはソーシー・ソルがゆきほおじろを
つかまえたのを放してやった。もう1つは、わなにかかったねずみの顔を見ると
目に浮かぶ表情がたまらなくなり、逃がしてやった。ねずみはすばしこく走り去った。

忘れ物を取りに戻ったエミリーが教会に閉じこめられ、嵐の夜中に、
きちがいのおじいさんにせまられたとき、偶然テディが助けに来てくれた。
とそのとき、彼の母親が突然現れて、「やっぱり、あなたはわたしから息子を
ぬすもうとしているのですね。わたしにはこの子だけしかいないのに」
エミリーは彼に対してその気はないと母親にきっぱり言う。母親の拍子抜け。

この場面は現実的な描写というよりは、半分は想像の世界みたいに思われる。
恋人をめぐりその母親との葛藤などは、やはり彼女の個人的な体験がもとになっているのだろう。
そして、このようなロマン的な場面がしばしば偶然のように登場するのは夢想的
である。実はこういう書き方こそ彼女が求めた書き方で、それは出版社には
受け入れられなかったと思われる。不自然な印象を受けるから。

「君の明日のことを聞くのは嫌だ。君の明日は僕の明日ではないから」
そういうディーンを見て、エミリーは彼はエミリーの成長することを好まない
らしいと思う。どんなものでも、特に友情を、彼女が他の人と(世間と)
共有することに嫉妬を感じる彼。エミリーが作家になろうとするのを認めようと
しないディーンに彼女は失望する。

このディーンのモデルは、彼女が一時期愛した農夫ハーマン・リアドのことだろうか。
あるいは頭の良い婚約者の神学生エドウィン・シンプソンのことだろうか。
たぶん、彼らと他の彼女の知っている男性を合わせて作った人物なのだろう。

7歳の男の子がいなくなって大人たちは大騒ぎをして探すが、子どもは見つからない。
エミリーとイルザは、その話を聞いて心配するが、どうすることもできない。
目的地に向かって急ぐ二人の前に現れたのは、丘のクローバー畑の中に立っている
屋根が灰色の古い白塗りの家。
それを見たエミリーは、ふたたび嵐がくるおそれがあったのに、わずかの時間で
その家のスケッチをする。翌朝、その絵を思い出して取り出すと、彼女の書いた
覚えがないのに、玄関の上の小さな窓に黒い十字の印がつけられ、彼女の字で
「その子はここにいる」と書いてあった。
気になった彼女は、行方不明の子どもをあきらめかけた人々に、その鍵のかかった
家の中を探すように言う。はたして子どもはそこで発見された。
なんという彼女の霊感。

この不思議な出来事は、モンゴメリーの作品にはたまに見られる。そして、
この霊感は次の「エミリーの求めるもの」においても、また出てくるのである。

(エミリーの求めるもの)これでエミリーのシリーズは終わり
新潮文庫のエミリーのシリーズ3巻の最後でした。これで3冊とも読破
村岡花子の最後の仕事。 1968年10月 脳血栓で死去 この本は1969年4月発売

結局、若い娘の愛と恋 結婚にこぎつけるまでの揺れ動く心。
その意味では(結婚前の男性は特に)読む価値があると思うけど。
赤毛のアンのシリーズ あれはシリーズとして完成度が高いと思うが
エミリーのシリーズは作者が書きたいように書いた本。

だから、編集者の注文を聞いて何度も直すのは嫌だと、はっきり書いている。
(アラレちゃんの中で、作者は注文の多い編集者をおちょくり、
Dr.マシリトとしてイジワルしていたことがあったっけ)
画家のように書きたい物を書いて、それが受け入れなくてもよい。
自分の納得できるものを自分自身のために書くのだ。評論家のためには書かない。
それが彼女の主張でした。

私の考えでは、自分のために書くとしても、やはり世に残るには、後世の読者が
認めるものを書くべきだと思います。今の批評家ではなく、後の世の批評家。
その判断はむずかしいけど。 だから批評家よりも自分の内心の声に従うのだ。
そうモンゴメリーは言うかもしれない。

エミリーが夢の中で突然、ロンドンの駅でリバプール行きの切符を買おうとする
テディの姿を見る。ああ切符を買ってはいけない。彼は彼女を追ってくるのだが、
人混みに消えて二人は会えない。

数日後、氷山と衝突した船のことを知る。ああ彼はその船に乗って死んでしまった
のではないか。絶望しながら、彼の母親に聞いたら、彼は船に乗らなかったという。
それから数日して、彼女の前に姿を現したテディは、そこにいるはずのない彼女が
ロンドンの駅で切符を買おうとする彼に声をかけたという。驚いて彼女の姿を追うが、
人混みの中に彼女を発見できなかった。そして、リバプール行きの切符を買えな
かったテディは、結果的に船に乗れず、氷山事故にあわなくてすむ。
一種の超現象。実は先の本にも、他にも行方不明の子どもが空き家で泣いているのを
彼女が夢の中で見て、人々に子どもが発見されるという話も書かれてある。

おやおや、タイタニック号のことが小説に取り入れられています。ということは、
やはり大事件だったのでしょう。
宮沢賢治も銀河鉄道の夜に取り入れているけど。
あと、ジェーン・エアを意識した部分があると思いました。 離れた相手を夢の中で
見るという超現象はジェーン・エアにもあったと思う。

本筋には関係ないが、世界の出来事をちゃんと取り入れている。義和団の獲物
夏の王宮にあったという「黄金の竜が巻き付いている急須」。どうして手に入れたか
わからないが、ディーンの持ち物になっていた。(ディーンは彼女の理解者では
あるが、結婚にはいたらなかった年上の男性)

(義和団は北京に入城して公使館区域を包囲したため、1900年8月中旬に
8ヵ国(イギリス、アメリカ、ドイツ、フランス、ロシア、日本、イタリア、オーストリア)連合軍
は義和団を倒した。夏の王宮というのは北京郊外の円明園のこと。
この円明園は1860年(第2次アロー号事件)には英仏連合軍に破壊略奪され、
さらに1900年(義和団事件)には上記8カ国連合軍によって略奪破壊され、今もそのまま
になっている。この時略奪されたのが「黄金の竜が巻き付いている急須」なのであろうか)

後に日本人にも読まれることを知っていたのか、この本の中で、エミリーが日本の
王子からプロポーズされるエピソードも入れている。彼は用事ができ日本に戻って
しまうが。この作品が書かれたころ、日本も第一次世界大戦の戦勝国として、
ぼつぼつ世界に顔をだしていたからなのであろうか。

最後の盛り上げ、そこに作者の苦労を感じました。人には善意であたれ。
人に悪意を持って陥れようとすれば、自分も不幸になる。善意の行動をとり続けて
いれば、きっと神様は望みを叶えてくれる。そういう彼女の倫理観はやはり
キリスト教からきているのでしょうか。
迷いの末やっと自分の気持ちが自分でもつかめ、
ヒロインが結婚したい相手は、その母が反対しているし、何より本人がもはや
彼女と結婚する気はなくなった。と思われていたのに、彼からの最後の確認の手紙
を預かった彼の母親が、意識的に彼女に手渡さず。だから待っていても届かない
彼女からの返事。そして、エミリーからの返事がもらえなかった彼は、もはや彼女の
気持ちは手の届かないところにあると思い失望して、とうとう別の女性(なんとあの
活発ユニークな美人のイルゼのことだった)と結婚することになる。
ヒロインの頼みから偶然、彼の母親が別れた夫からの手紙を見つけ数十年ぶり読んで、
癒された心になり、自分がヒロインに対して悪意の行動をとったことを白状し、
ぜひ彼と結婚してくれるように頼んで死んでしまう。この後はちょっとした事件が
あって、ハッピーエンドとなる。

アンのシリーズといい、このエミリーの本といい、作者の体験はある程度反映されて
いるが、しかし事実そのままではない。
読者としては、作品と作者の現実生活とを重ね合わせたいのでしょうけど。
プライバシーもある。
さくらもも子だってそう言いそう。(読者のみなさん、もも子の家族を見に行かないで)

モンゴメリが自伝的な作品「赤毛のアン」と「可愛いエミリー」を残したが
この二つの作品は対照的である。
ある調査では、女子大生100人にアンケートをすると、アンを読んだことのある
女子学生は90人としたら、エミリーを読んだのは10人程度になるという。
アンは人気のある作品なのに、エミリーはとっつきにくい。
端的に言えば、アンには葛藤がない(から読みやすいのである)。
あっても、すぐトラブルは解決してヒロインは明るく過ごすことができる。
マリラとマシューは夫婦ではなく姉弟である。しかも、マシューは男性的と
いうよりは女性的で、姉をリーダーとして認めている。
当時の一般の家庭に比べると、女に有利なそれゆえ平等に近い関係にあった。
通常の男女関係のいきいきした生々して関係ではない。
そこには性を感じさせない。
アンの話は目にこころよい。(読者の期待を裏切らないという点では
黄門シリーズに似ている)
だが、作者はアンを世に出してから、もっと自伝的なものが書きたかった。
あまりにも子どもの心を認めないで、伝統的な躾をふりかざす祖母に
非常にこだわっていたから、エミリーの話を書きたかったのであろう。
アンにはたえず味方をする人間がいて一人で困るようなことはない
(あってもすぐ誰が助けてくれる)。
しかし、エミリーは飢えには困らなかったけれども、
子どもの自主性を認めてもらえず、日記も人に読まれてしまう生活だった。
作者の本当の生い立ちはエミリーに近かった。
せめて作品の中に自分の夢の実現を書いたのがアンの話だったかもしれない。
逃避者向きのアンの話。
しかし、女性も自己主張できるようになると、
もうアンの話は必要としなくなるから読まなくなる。
横川氏の本はなかなか鋭い分析があって啓発されることろが少なくない。
横川寿美子:「赤毛のアン」の挑戦、宝島社(1994)

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