モンゴメリ書簡集1
 G.B.マクミランへの手紙

1903  マクミランはモンゴメリに手紙を出す。 彼は22歳 彼女は29歳(なんと26歳と彼への手紙に書く) 彼女は、自分が初心者に助言を与える経験者の立場にあると思った。 彼女は彼に原稿を受け入れてくれるカナダとアメリカの新聞雑誌名、それらの 新聞雑誌が好む原稿、支払い額を知らせている。 彼女は数ヶ月おきに、あるいは忙しいときは、数年あけて彼に手紙を書いた。 彼も彼女にずっと手紙を書き続けた。二人の努力が39年もの間文通を続けることになる。 彼女は彼に書く手紙の中で、マクドナルドとの婚約(1906)や家庭生活での苦労を はっきりとは知らせていない。 長年の苦労の本当の姿をほのめかしたのは1941年 の最後の手紙だった。1941.12.23 そして4ヶ月後の1942.4.24 彼女は死ぬ。 1905.6.5 彼女は先祖のロマンスを手紙に語る。 150年以上も前のプリンス・エドワード島はうっそうとした森林におおわれていた。 ドナルド・モンゴメリとデイヴィッド・マリは友人であったが、美しいナンシー・ ペンマンをめぐってライバルになってしまった。ある朝ドナルドの家に寄ったデイヴィッド から、彼がナンシーに結婚の申し込みをしに行くと聞いたドナルドは、デイヴィッド にウィスキーを飲ませ彼が眠るのを見届けてから、ドナルドはデイヴィッドの馬そりに 乗って湾の向こうのペンマン家にたどりつき、ナンシーから良い返事を受け取った。 その夜は嵐のため、デイヴィッドは追いかけて来られなかった。翌朝早くドナルドの 子馬に乗ったデイヴィッドが駆けつけたときは、ドナルドとナンシーが結婚式を あげるためデイヴィッドの馬そりで出発した後だった。 怒ったデイヴィッドの前に、ナンシーの妹のベッツィが現れて、彼女は長い間 デイヴィッドに好意を寄せていたから「私はナンシーと同じくらいきれいな娘だわ。 あなたにプロポーズする気があるなら、私は受けるつもりよ」と言ったという。 デイヴィッドもその気があったので二人は結婚し、モンゴメリが聞いた話では 二人はとても幸福だったという。 そして、ベッツィとデイヴィッドの娘アン・マリは、そのいとこナンシーとドナルド の息子と結婚した。そしてその若い二人に生まれた息子が、モンゴメリの父なのである。 だから、ベッツィもナンシーもモンゴメリの曾祖母ということになる。 (ストーリー・ガールにこの話は載っている) 1905.12.3 彼女は彼に自分の生い立ちについて語る。 ひとりぼっちだった。幼いとき母がなくなった。祖父母に育てられた。 物質的な面では祖父母はとてもよくしてくれた。その点では二人に感謝している。 でも、自分に対する扱いには不満であった。自分はあらゆる社交生活から 締め出されていた。他の子どもたちの仲間に入ることも、青春期のはじめの頃に 他の若者たちと付き合うことも禁じられていた。だから楽しみといえば 読書と野や林を来きまわることだけだった。 1907.4.1 友情には似ていることが当然必要である。しかし恋愛には 似ていないことがぜひとも必要である。知っているケースで最も幸福な結婚をしている 何組かのカップルはお互いに全然似ていない。非常によく似た者同士の カップルの中には不幸な結婚生活をしている人たちがいる。 似ている二人は友情関係ではとてもウマが合うことに気がついて、結婚してみると 物の見方が似ているため、結婚という親密な関係に入ると、お互いに しっくりいくかわりに、衝突してしまう。 「愛というものは、愛する相手の美点に対する賞賛の念が決定的な要素となると 思いますか」というあなたの質問に対して、いいえと申し上げます。 かつてひとりの男性を愛した。仮にAとしよう。彼との恋は命をかけた恋だった。 しかし、私は彼を尊敬していなかった。彼を確かに愛したのに。どんなことが あっても、彼とは結婚しなかったろう。彼はあらゆる点で自分より劣っていた。 でも、彼を愛していた。彼は死んでしまったので幸いだった。 もし彼が生きていたら、おそらく結婚しないではいられなかったでしょう。 そしてそんなことになったらほとんどあらゆる点で悲惨きわまりないことに なったでしょう。 Aに出会う前にひとりの男性と出会いました。仮にBとしましょう。 この人は、自分が賞賛する男性の特徴をすべて備えていました。 ハンサムで、才気あふれ、教養があり、人生に成功していました。 この人の爪のあかを煎じてAに飲ませてやりたいくらいでした。 私は若かったから、Bを好いていて、感嘆していたことを、恋愛と取り違えたのです。 やがて彼と婚約して、そのとたんすっかり彼が嫌いになった自分に気がつきました。 彼からキスされてゾッと寒気がしました。彼とは決して結婚できないと分かりました。 1年間我慢しました。とうとう彼に本当の気持ちをうちあけて婚約は破棄しました。 ところが自由の身になるやいなや、彼が好きになったのです。 ○あらゆる点で立派な男性を愛することができなかった。もしBと結婚していたら  私は一生不幸だったでしょう。 ○Aと結婚していたら、きっとしあわせだったと思いますが、あらゆる点で  堕落しただろうと思います。テニスンの言葉のように、彼の水準に程度を下げて  いたでしょう。 1907.9.11 女性同士、男性同士の間では、似ていることが引かれる原因であり、 男性と女性の間では似ていないことがその原因になる。 「10人のうち9人の男は初恋の相手とは結婚しない。(初恋をする男は若く、経済的な 点で結婚できなかったり、大学を卒業するまでできなかったり。結婚できるときには 最初の恋煩いから回復している) 10人目の男は初恋の相手と結婚したことを 一生後悔する」 「男というものは、常に、自分が恋人の初恋の相手であることを求め、 女は相手の男の最後の恋人になることを願う」 彼女の紹介するこれらのことわざは面白い。 1908.8.31 アンの第二作の原稿を書いて、タイプ清書するところ。これは 自信はない。疲れた。読者から、この島に来て作者に会いたいと手紙が来る。 しかし私は会いたくない。 1909.5.21 忙しくなかなか手紙が書けないいことのいわけ。アンについての書評を 送ってくれたことに対する感謝。畏れ多いスペクテイター紙の書評は少なからず 彼女を喜ばせた。それは彼女に自信を与えたようだ。 1910.9.1 ストリート・ガールを書いたことの知らせ。自分ではよく書けた。 しかし、アンほどの人気をよぶかどうかは疑問。 1911.5.4 祖母の亡くなったことを知らせる。マクドナルド牧師との結婚 を知らせる。新婚旅行にイギリスに行き、彼と会うことを提案する。 1911.7 モンゴメリはマクトセナルドと結婚する。イギリスに新婚旅行に行き 生涯で1度だけマクミランに会う。 1913.9.13 3冊目のアンの本を書こうとしている。 この本に取りかかるのはとても気が重い。アンの世界に戻るのは、 とても難しい気がする。何年も前に着た洋服を着るようなもので、 その洋服がどんなに美しいとしても、その後自分が成長しているので、 もう小さくなって着られないばかりか、流行遅れになっているのが わかるような代物である。 読者のために、一般読者が私の文体だと思い込んでいる文体を否応なしに 保持していかなければならないだろう。読者は変化を大目に見てくれないから。 でも、いつか違ったタイプの本を書いてみたい。 1924.9.3 1923年冬、英国王立芸術院が私を会員に選んだということを もう知らせたでしょうか。カナダの女性では最初なのです。次男スチャアートの 言葉「もしぼくがもう一度生まれてくるとしたら、お母さんがやっぱりぼくの お母さんになるのだったらいいな」を紹介して 本当にかわいいことを言ってくれたものと書く。 1926.8.29 (ほとんど2年ぶりの手紙) ずいぶんご無沙汰しましたと言い訳が続く。 反省して、もっと頻繁に、もっと短い手紙を交換しようと書いている。 時間がたちすぎると「色あせてしまう」 そのとき重要と思われ文通相手が興味をひいたかもしれないことでも 2,3ヶ月たってみるとまるで取るに足らないささいなことになって とても時間をかけて書く気にならないものである。 あるいは新しい、より大きな出来事が起こって、 前のテーマは意識外においやられることもある。 1928.2.6 キャヴェンディッシュは巡礼の地になった。 押し寄せる観光客のために荒らされ、悪用され、だいなしにされた。 旧友たちは、アンが歩いた場所を見たいというよそ者たちの車の群のために、 すっかり生活を乱されている。 そんな中にジャーナリストがいて、自分の印象をもちかえって自社の新聞に載せる。 中には全く誤りの印象もあって、友人たちもひどく困惑している。 ある夕暮れ時、友人のひとりが、スカンクが近くをうろつきまわっていて 鶏がねらわれそうで心配だとこぼしていた。それで思い出した嘆かわしい話。 6年ほど前 赤毛のアンの映画を見たとき ある場面でアンがピクニックに出かける途中 スカンクを捕らえるところが出てきて うんざりした。 スカンクなんて、その当時、プリンス・エドワード島には 全くいなかったのに。 2,3年前 プリンス・エドワード島でキツネが猛烈に繁殖したとき ある人がスカンク農場をはじめることを思いつき、スカンクがもちこまれた。 この事業は失敗したが、スカンクはそれ以後あたりに住みつき 政府はスカンクの保護法案を決めた。 1929.2.10 長かったペイジ社との裁判も完全勝利を知らせる。1920年3月に 彼女が訴訟を起こしてから約9年。 「アンをめぐる人々」は作者に無断で出版社が出版してしまった。 怒った彼女は裁判でついに、その本の差止命令を手に入れる。 1939.3.12  およそ200年前の1770年、モンゴメリ家の三兄弟とその妻たち がスコットランドを出帆しケベックに向かった。ヒュー・モンゴメリの妻メアリ・ マックシャノンは船酔いがひどく、セント・ローレンス湾内に入ったとき 船が水不足となり、船長はボートをプリンス・エドワード島に出すことにした。 ウィスキーで船長を買収したメアリ・モンゴメリはボートで上陸できた。 いったん上陸した彼女は、絶対にここから動かないと言った。やむを得ず 夫ヒューは家財道具一切を携えて上陸し以後その島に住むことになった。 (この話は可愛いエミリーの中に使われている) 彼ら夫婦は16人の子どもを産み、プリンス・エドワード島のモンゴメリ一族の 初代となった。このヒューこそはルーシー・モード・モンゴメリーの曾祖父の父である。 彼女は講演の際には、必ずこの話をした。 やがて、トロント郊外のパーティで、英国国教会の教区司祭夫人コルクラフから 「あの後ケベックに行った二人はリチャードとアレグザンダーで、私の母は リチャードの孫の孫にあたる」と名乗られたのだった。アレグザンダーはカナダが 気に入らずスコットランドに戻ってしまったが、リチャードの方はケベックから オンタリオに南下し、トロント市になるはずの地域の近くに落ち着き、彼の子孫が 多くそのあたりにいることがわかった。 モンゴメリ家はもとをたどるとエグリントン伯爵家の子孫であるとの言い伝えを 彼女は願望がそんな伝説を生んだと思っていたが、コルクラフ夫人から本当である と聞かされて、信ずるようになったことをマクミランに書いている。 1941.12.23 具合は良くない。この1年間は絶え間ない打撃の連続だった。 長男は生活をめちゃくちゃにし、そして妻は彼のもとを去った。 夫の神経の状態は私よりもっとひどい。私は夫の発作がどういう性質のものか 20年以上もあなたに知らせないできた。でもとうとう私は押しつぶされてしまった。 皮下注射をしてもらわなかったら、この手紙を書くことさえ無理だったのだ。 あれやこれやのことに加えて、戦況がこうでは命が縮んでしまう。もうすぐ次男は 兵隊にとられるだろう。私は元気になろうという努力をあきらめた。 生きる目的が全くなくなるのだから。 (おそらくこの手紙が最後のものとなるだろう)

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