三蔵法師の仏教を求めてのシルクロードの旅は、日本人にもロマンをかきたてる話です。
そこで、この機会に資料を集めてみました。

紹介する内容は「長澤和俊訳:玄奘三蔵 大唐大慈恩寺三蔵法師伝、光風社出版」を参考にしました。
この伝記は玄奘三蔵の弟子2人によって書かれたもので、数多くの伝記の中で
最も正確な伝記とされています。

仏教をひととおり修めた三蔵法師であったが、仏教の経典の解釈に疑問を感じて
人に聞いても各自解釈が異なるので、直接インドへ行って原典を集め、
インドの高僧から解説してもらおうと思い、インドへ向かったのだった。

しかし、当時のシルクロードは危険なので、唐王朝は中国人が旅行することを許可しなかった。
そこで、三蔵法師は出国禁止の掟をやぶって、密かに玉門関を出て、砂漠を進んだ。
玉門関の先に烽(見張台)が5つあった。

伊吾国(ハミ地方)にたどりついて王のもてなしを受けていたとき、
高昌国(トルファン地方)の使者がそこに滞在していた。

この使者の報告を受けて、高昌国王は三蔵法師を招待した。
法師の学識に感激した高昌国王は、法師がその地に留まるよう乞うたが、
法師のインド行きの意志は固く、高昌国王は結局法師に旅費や通訳を用意して、
西突厥の統葉護可汗をはじめ西域諸国への紹介状も書いてくれた。

高昌国→コルラ→クチャ(亀茲)→アクス→ベダル峠→イシク・クル湖→トクマク(西突厥)
地図

一行は天山南路を進み、クチャ国で雪解けを待ってから、ベダル峠を越えて
西突厥(砕葉城 アク・ベシム遺跡)に着いた。
ここでも、法師はインドに行かないで留まるよう勧められたが、
インド行きの意志が固いので、統葉護可汗は通訳をつけて西トルキスタンへ送ってくれた。

ここから先を簡単に示すと次のようになる。
トクマク(西突厥)→タラス→タシュケント→サマルカンド→鉄門→テルメズ
地図
鉄門→テルメズ→クンドゥズ→バルフ(バクトラ)→バーミヤン
地図

玄奘たちがようやく着いた活国(クンドゥズ)には
高昌国王の妹が突厥の(統葉護可汗の息子)旦度設の王妃となっていたが
高昌国王の妹は幼い息子を残しすでに亡くなっていた。
彼女の夫旦度設も病の床にあり、その息子(高昌国王の妹の子の兄)は計略で
若い王妃を父に娶らせ若い王妃に父王を毒殺させた。
玄奘ははからずも王位簒奪の場面に立ち会うことになったのである。
新しい王の欲谷設は法師に道案内を用意して縛喝(バルフ)国(バクトラ)を経由して行くことを勧めた。
こうして、玄奘一行はバクトラに着くことができた。

なお、統葉護可汗の伯父の莫賀咄(バガテュル)は統葉護可汗を殺し、自ら大可汗となり、
莫賀咄侯屈利俟毘可汗と号した。
しかし、西突厥の国人たちはこれに従わず、統葉護可汗の子の咥力(てつりき)特勤(旦度設の弟)を迎え、
肆(し)葉護可汗とした。
肆葉護可汗は旧主の子ゆえ、部下たちから支持され、兵を興し莫賀咄可汗を撃ち、正式に大可汗となった。
肆葉護可汗は父ほど統率力はなく、疑り深いうえに讒言を信じやすく、部下の罠にはめられ
サマルカンドに逃れそこで命を落とした。
  前田耕作:玄奘三蔵、シルクロードを行く 岩波新書1243

* 三蔵法師の頃の地図と現代の地図を一緒にした地図はないので、まごつく。
 井上靖の本には、クンドゥズは今も都市だが、バルフやバーミヤンは遺跡のみと書いてある。
テルメズの南にマザール・シャリフがあり、その西近くにバルフがある。
マザール・シャリフやバルフの遙か南にバーミヤンがある。バーミヤンの南東にカーブルがある。

ここから先を簡単に示すと次のようになる。
バクトラ→バーミヤン→北インド

北インドに着いた法師は、ガンダーラ、ウッディヤーナ、タクシャシラー、カシュミーラ
を経て、インド各地の仏蹟を巡礼した。
それから、マガダ国のナーランダー寺院で、5年間の仏教研究をすることができた。

多くの仏像や経典をみやげに帰国の旅についた。ヒンドゥクシュを越え、
クンドゥズに着いた法師は、高昌国は唐に滅ぼされたことを聞いて、
パミールから南道を通ることにして、パミールを越え、カシュガルを経て
クスタナ国(ホータン地方)にたどり着き、ここから唐の皇帝に手紙を書いて、
唐の役人の迎えを得ることができた。

三蔵法師の歩いたシルクロードの地図       こちらもシルクロードの地図

帰国した法師は経典の翻訳につとめ、後に慈恩寺境内に建てられた大雁塔に
インドから持ち帰った経典や仏像を保存した。

この三蔵法師の持ち帰ったインドの教典はどんな文字で書かれていたのであろうか。梵字だろうか。

般若心経のこと 観世音と観自在 玄奘三蔵

日本にある玄奘三蔵の霊骨塔。