安西都護府

唐は高昌国を 640年に滅ぼし、安西都護府を設置した。
658年には安西都護府を亀茲(きじ)に移した。
亀茲とは、現在のクチャ(庫車)のことである。

亀茲にはアーリヤ人に属する民族が住み、インド・ヨーロッパ語系の言葉を用いていた。
豊富な鉱産・農産物があり、綿、毛織物も産出した。
当時の様子はキジル石窟等の石窟壁画にうかがえる。

658‐790年には亀茲に唐の安西都護府が設置された。
9世紀中ごろウイグルがトゥルファンに進出すると、その勢力はクチャに及び、
13世紀初めまでウイグル人の支配をうけた。
亀茲は4世紀ごろから北西インドの仏教中心地と関係が深くなり、
インド人の来住も多かった。そして、ここを通ってインドへ行く中国僧も増えた。
仏教遺跡はキジル石窟、クムトゥラ石窟などが有名である。