からゆきさん、なんといってもこのテーマは山崎朋子の「サンダカン八番娼館」を読まないと。
やっと「サンダカン八番娼館」が手に入った。
山崎朋子は底辺女性史の研究家と自称する。
底辺で苦労してきた、今も差別の最下層にいる人が、誰だかわからぬ人に
自分のことを話すはずがない。まして男の研究者には絶対できないこと。
彼女はしかし、彼女なりの努力をしたと書いてある。
ムカデの這う腐った畳の上に勧められるままにあがり、その元からゆきさんの作った
食事を二人で一緒に食べて数週間暮らした。(誰にもできることではない)
そういう生活をしてはじめて相手は心を許したのだろう。
この作品が、彼女たちの身の上に同情し、経済力とか権力をもつ者を厳しく批判する
立場で書かれていることと無関係ではないと思う。作者の気持ちは相手に伝わった。
唯一女性でからゆきさんのことを書いた森崎和江さんを福岡県中間市に訪ね
彼女からアドバイスを受け、熊本県水俣から天草下島の牛深までの船に乗って2時間の船旅を
これまた森崎さんが紹介してくれた油絵描きの豊原さんという女性と一緒にする。
船の中でみんなと話が弾むうちに、豊原さんが気を利かして、目につく老婦人や
漁師らしい中年の男に「むかしからゆきさんだった女の人を知りませんか」と聞くと
みな態度がよそよそしくなり黙ってしまう。
こうして天草へ渡る船のうちで早くもからゆきさんの調査はむずかしいことを
思い知らされる。
バスで牛深から亀浦へ向かい、亀浦から崎津へ小さな船で渡り、崎津で昼食のため食堂を見つけ
二人が入ったとき、先客の老婆がいた。それが神様が彼女に与えた唯一のチャンスだった。
そして老婆と連れだって彼女のひどく荒れた家にたどり着き、そこからこの話は始まる。
サンダカン八番娼館
無知な私は、この娼館がシンガポールにあったと思ったのです。
しかし、サンダカン八番娼館はボルネオ島の湊町サンダカンにあったのです。
もちろんシンガポールの方が大きかったから、大勢の船や人が出入りしたので
シンガポールの方がからゆきさんたちは多かった。(だから、あの日本人墓地に
墓がたくさんあった)
この本の主人公の元からゆきさん、おサキさんは、騙されて三番娼館で働いていた。
しかし、経営者が変わったのをきっかけに、女親分とからゆきさん達から慕われていた
おクニ経営する八番娼館に頼んで働かせてもらうようになった。
サンダカン八番娼館は天国で、サンダカン三番娼館は地獄だった。
山崎朋子が後にボルネオのサンガタン島に渡り、サンダカン八番娼館だった跡に立って
ここが彼女らの青春が踏みにじられた場所なのだと思ったと書いてあるが、
よく考えるとそれはサンダカン三番娼館で別の場所であったのだ。
もちろん、からゆきさんの苦労した場所を代表するものとして、サンダカン八番娼館
の名前をあてていたのであるが。
サンダカン八番娼館とはからゆきさんの不幸な場所の代表名であったが、ほんものの
サンダカン八番娼館は他とくらべたら天国であったのだ。
しかし、娼館には違いがないから、山崎朋子は偶然おクニの娘に天草で会うことが
できた時に、おクニの遺族は(娼館と言わず)カフェを経営していたと
山崎朋子に語ったのだ。木下クニの娘サクは娘ミネオ夫妻の家で健在だった。
山崎朋子が本の中で、日本人娼館の悪徳経営者や娼婦を身請けして結婚しながら
結局女を捨てた男の身勝手さを強く非難している。
そして、八番娼館経営者のおクニやからゆきさんを二号さんにした親切なイギリス人
や中国人のことを肯定的に評価して書いている。
人間的には立派な人やそうでない人は、いつの世もどこにもいるものだろう。
山崎朋子がからゆきさんを騙して連れていった男たちや黙認した当時の政府や
からゆきさんを商品として扱った日本の男たちを批判しているが、
おクニやからゆきさんを二号さんにした男たちは批判していないということは、
かたておちな気がする。
なぜなら彼らも公娼制度を黙認して、その上に自分の利益を得ていたのだから。
彼らがからゆきさんに比較的親切であったというだけで、彼らをある程度評価して
いるということは、山崎朋子も暗黙のうちにやはり公娼制度を認めていたと
いうことになるのではなかろうか。
まああの時代に公娼制度を全面的になくすことは社会そのものを変えないと無理な
ことだから、公娼制度を批判した上で、親切な人を選別したのもやむをえないけど。
主人公サキは北川サキであり、彼女の系図はこの本に載っている。
彼女はその後イギリス人の妾となって現地で暮らしたが、おクニと死別してから
心の病にかかり、故郷の天草に引き上げてしばらく一人で生活した。
その後、回りに勧められ村の男性と結婚した。しかし、その結婚に破れ彼女は
新天地満州に行く。そこで知り合った男性と結ばれ長男を生む。
.戦後引き上げてきて、京都で暮らすが、夫が死亡する。
成人して働く息子から勧められ、彼女だけ再び天草の地に戻る。
京都で暮らす長男から少ない仕送りを受けて、彼女は一人で余生をおくっていた。
そこに山崎朋子が現れ、彼女の身上話を本にしたというわけである。
他のからゆきさんに比べ、サキはまだ幸せな方であろう。しかし、彼女は
幼いとき教育を受けていないから文盲であり、一人で料理もできない。
おサキさんが働いていた三番娼館には、親切にしてくれた先輩のおフミさんが
いた。彼女は南洋で成功した安谷喜代治の子を産む。その男の子が松男であった。
おフミは松男を同僚のおシモに預け、戦後日本に引き揚げる。
山崎朋子とサキはおフミを訪ねるが、そこには3年前におフミを送った息子松男
の家族しか住んでいなかった。しかし、そこで山崎朋子は松男から貴重な写真を
いくつか譲り受けることができた。それは本に載せる貴重な資料となった。
作者山崎朋子は、松男を連れて日本に引き上げてきたおシモの消息を尋ねて、
ついに当時のことを知る人から、松男をおシモから引き取りに来たおフミに
断った場面を聞いたり、その後生活の苦労でおシモは自殺して、母の遺言で松男は
実母おフミのもとに行ったことを聞く。そして、おシモの墓参りもする。
育ての親おシモと暮らした後に、実母おフミと暮らし実母を最後まで世話した松男
彼らはみんな苦労してきたのだ。
やっと探し当てたおシモの墓、その墓に3日にあげず墓参りに来て花をあげていく
人のことを聞いた作者は、当時の辛い生活でおシモを死に追いやった親戚が
罪の償いの気持ちで墓参りをしていると推定する。当時みんな苦労してきたのだ。
山崎朋子は続編にあたる「サンダカンの墓」で、この本が縁で発見された日本人墓地
を見に行って、八番娼館経営者のおクニや松男の父安谷喜代治の墓を確認した
ことを書いている。
なんと墓は日本に背を向けて建てられていた。一時は故郷に帰った彼女たちが
肉親の家も安住の地ではないことを悟り、心から憩えるのは日本ではなく、
サンダカンであると思い、丘の上からサンダカン湾を見下ろすように建てられていたのだ。
「サンダカン八番娼館」の中で、今読むと数字の矛盾が見られる。
たとえば、おフミは息子によれば昭和40(1965)年に65歳でなくなったという。
しかし、昭和43(1968)年当時おサキは72歳であったが、おフミはおサキより
3〜4歳年上ということなのだから、昭和43年まで生きていたら息子のいう年齢なら
昭和43年に68歳となり、おサキより年下になってしまう。
おフミが息子を育てるように頼んだおシモは昭和21(1946)年に60歳で死んだ
のだが、もしおフミと同じ昭和40年まで生きたとしたら約80歳になり、65歳で
死んだおフミが14歳も年下になり、そんな年下の仲間に頼むだろうか、もっと
近い年代の仲間に頼むのではないかと思ってしまう。
もっとも作者が「サンダカンの墓」で書いてあるが、おサキの戸籍が数え年10歳の時
兄によって届けられたように、戸籍の記載が必ずしも真実ではないが、上記の例では
それぞれの記憶に問題がありそうで、しかし作者は自分の聞いたままを記録したのであろう。