河原操子(みさこ) 後に実業家一宮鈴太郎の妻 清国の女子教育に従事したいとの希望があり 実践女学校を作った下田歌子に頼んで、中国大同学校の教師となる。 (1900−1902) その後上海の務本女学堂の日本人教師(1903) そして 蒙古のハルチン王府に創立される女学校の教育顧問となる(1903.12−1906.1)。 後を鳥居きみ子に頼み、自分は優秀な教え子3人を日本に留学させるため 同行して帰国。 日露戦争の時、横川省三、沖禎介の世話をする。二人を宮廷にかくまう。(1904.2.28) 日露戦争後、宮内省から勲六等を受けた。 ☆ ☆ 鳥居きみ子(徳島生まれ) 上野音楽学校在学中に鳥居龍蔵と結婚 鳥居龍蔵は人類学と考古学の世界的学者。 二人の学者が、蒙古の女学校で日本人教師を捜しているから 行ってくれないか頼みに来る。すぐ、行くという返事をする。 (あまり早い返事なので、二人の学者からよく考えてから再度返事するよう言われたそうな) 1906.3幼い長男を実家にあずけ、東大勤務の夫は後から来るため 単身赴任。後から来た夫と蒙古で生活しながら調査。 1年後に長女を産むため帰国。 きみ子がやめた後は、操子の教え子が日本での学業を終えて 母校の教師になったから、きみ子は帰国できた。 しかし、長女を産んでから再び蒙古に行き、夫のため 土俗学の資料収集につとめ、教え子から昔話やわらべ唄を 採集、その他生活習慣風俗などの調査をした。 のちに夫の学位論文「満蒙の有史以前」と彼女の図書 「土俗より観たる蒙古」 きみ子は蒙古の教育については操子のレールの上を走っただけ。 わずかに音楽教育は、きみ子のオリジナル。 鳥居記念博物館 鳥居記念博物館 韓国の女子教育界の重鎮黄信徳 山崎朋子サンダカンまで