羽田浦地図

旋盤工出身の作家小関智弘が「羽田浦地図」という羽田空港や周辺の町の歴史を
書いたとき、養殖の海苔が流れてきてそれを拾って家計の足しにした貧しい話や
不作の時は娘の身売り話もあったことを土地の老婆は語ってくれた。
(流れてきた養殖の海苔を拾う話は彼の貧しかった母親の話であるが、それを話した
ことで相手から信頼される)

しかし、「戦争中に、あの花街に慰安所ができましたね。それもただの花街ではなく、
産業戦士用の特別慰安所という」と話をもっていくと今まで相手をしてくれた3人の
老人たちが口をつぐんでしまった。やがて一人の老人がぼそっと言ったという
「あれは、羽田の人間がやったことじゃない。州者の業者がやったそうだ。
わたしはちょうど兵隊にとられて日本にはいなかったから、くわしくは知らないが」

軍の特別慰安婦たちのような組織を、京浜工業地帯の男たちのために組織した業者が
いたのだが、土地の人たちはその事実から目をそらそうとする。
郷土史にも書かれていない。そこで働かなければならなかった女性たちは、
戦災、徴兵、徴用、強制疎開と当時の運命にもてあそばれた住民からさえも
抹殺されようとしているのであった。

結局、この作家はある老人から聞いた上海などの日本軍占領地の慰安所の記録や
羽田の花街につかの間に存在した産業戦士向けの特別慰安所に関するあいまいな表現で
記載されている警察署資料を参考にして書きあげたという。

「文學界」にのったものを話を聞かせてくれた老人たちに送ったところ、
ある老女から「あの女(ひと)のことならよく知っている、あの女のことが書きたかったら
そう言ってくれたらよかったのに」という電話をもらったという。あの人とは作者の作った
モデルであったのだが、電話の主は、その女が彼女の知っている実在の女性と
重ね合わせたのだろう。

つまり、人は真実を言いたいという気持ちと言いたくないという気持ちを両方もっている。
作者は自分の母親にも昔のことを遠慮して聞かないでいることがあったが、
そのうち母親が亡くなってしまった。
自分で話したくないことは、たとえ母親であっても無理に聞くべきではない。
そういう意味で、「サンダカン八番娼館」は山崎朋子の努力と彼女に昔をかたった
サキの勇気があってできた極めて希な作品といえるだろう。