ヨーロッパの窓から


ここでは、フランス留学の経験の長い、ヨーロッパ中世の 法制史の研究者
木村尚三郎先生の本から紹介します。
木村先生は東京大学教養学部の先生です。

スープはなぜ食べるというか

コンパニオンの語源

シンポジウムの語源

スクールの語源

明と暗、二進法の世界

ヨーロッパでは、空気が乾燥して湿気がないために、日の当たっている部分と
当たらない(陰の)部分は、はっきりした一線でするどく分かたれて、
光でも陰(影)でもない部分の存在をゆるさない。

物の形、輪郭がはっきりと認識でき、曖昧な妥協をみとめる余地はなく、
自然界すべてが明と暗、光と闇に峻別されるのである。

まさにコンピュータのディジタルの世界である。
コンピュータはオンとオフ、ゼロと1しか知らない機械であるからである。

ヨーロッパはディジタルの世界。
日本はあいまいなアナログ(あるいはファジー)の世界。
厳しい気候の砂漠で暮らす遊牧民族も、
その生活環境ゆえにディジタルな発想をするようになった。
だから、キリスト教もイスラム教も一神教となったのだろうか。

ドアの開き方

ヨーロッパでは、家は個々人にとって安全の砦、城であるから、
日本のご用聞きや荷物配達人のように、ゆるしもこわずにガラッと玄関や
裏木戸を開けて入ってくる、などという行為は決してゆるされない。
集合アパート(マンション)にも玄関に個々の部屋のインターフォンが
ついている。そこで郵便配達人が知らせると、部屋の住人が内部からボタンを押して
ドアが開く。
我々も友人のアパートを訪問するとき、やはり訪問先の部屋のボタンを
玄関先で押す。そうすると中から(ボタンを押して)開けてくれる。

もし夜間、家屋を不法侵入する者があれば、それを殺したり傷つけたりしても、
正当防衛として罪にはしないのが、フランス刑法329条である。
(たしかイギリスでは法律に明記していないで慣用法で処理していた)

家の中もまた、安全第一の考え方がつらぬかれている。
よくアメリカの刑事物のテレビや映画を見ると、犯人が閉じ込もっていると
思われる部屋に向かって、刑事がドーンと体当たりをくわせ、ドアをやぶって中に
押し入る場面が出てくる。

あれは、欧米の内開きになっているからこそできる芸当である。
これに対して、日本のドア、戸は、外開きになっている場合が多い。
実際トイレなどはスペースが狭いから、ドアが内開きではたいへん不便である。
つまりドアや戸が外開きであれば狭い室内が少しでも広く使えるし、暑い夏
など戸を全部外開きにすれば開放感も大きく味わえからであろう。

ところがヨーロッパ人にとっては、これほどおそろしく危険なことはない。
いざ敵がおそってきたとき、ドアが内開きであれば建物のなかに
立てこもって、ドアを内側から押さえたり、ドアのところに心張り棒を
閂(かんぬき)状に渡したり、重い家具を置いたりして、敵の侵入をふせぐ
ことができる。

しかしドアが外開きであれば、それこそ敵に「さあお入りください」と
いわんばかりで、どうしようもない。

ウィーンの劇場で火事になって、内開きドアのため大勢の観客が逃げられず
大きな被害があったという。外開きドアも場合によっては良いものだ。

<この文章を読んで気がついたのは、私の前いた研究室(6号館)は外開きドアだ>
<したがって急にドアを開けると、外に誰かいればドアにぶつかり危険>
<ところが新しい7号館の研究室は内開きドア(ヨーロッパ風)>
<内開きドアだと、廊下のことは気にしないで開けられる>
<そのかわり部屋の中のドア前空間はあけておかないといけない>

牛豚は食べてよいが鯨を食べていけないわけ

私たち日本人は一般に、生き物をもてあそんでころすことを残酷とし、
これに罪悪感をおぼえる。生きとし生ける物には、それこそ「一寸の虫
にも五分の魂」といわれるように魂があり、人間の遊びのために生き物の
命を断つなぞ、もってのほかと考えるのである。

もちろん私たちも生きるため、食べるために動物をころし、
鯨もとってきたが、それはやむをえずのことであり、
「許してくれよ」とわびる気持ちがつねにこめられているのである。
(あまりそれを意識していない人もいるようだが)

ところが欧米人はまったくあべこべに、狩りは伝統的に文化の一部として
しっかり保持しながら、日本の捕鯨は野蛮だ、残酷だと非難するのだ。

これに対して、欧米人だって食うために牛や豚・羊その他をころしている
のではないか、なぜ日本の捕鯨ばかりを野蛮だ、残酷だとよぶのかと、
私たちはいきり立ち、こちらは欧米人の「身勝手さ」を非難する。

ここには、彼我の文化の差、ちがいがはっきりと出ている。

欧米のキリスト教徒にとって、魂をもつのは人間だけである。動植物とか
虫とかは魂をもたない存在であり、したがって人間のように最後の審判
の結果、天国にいくとか地獄にいくとかいうことがありえない。
だから鳥や獣は、いってしまえば石ころと同じである。その飛んだり跳ねたり
する「石ころ」を弓とか、槍、鉄砲などで動かなくするのが狩りだと考えている。

つまりこれは貴族とかブルジョワとかが、心身の鍛錬のためにしてきた
スポーツないしレジャーであり、中世ではむしろ実戦以上の真剣な戦いであった。

森の中での狩りだから、獣を追いかけるのに夢中となって落馬して死ぬ
危険がきわめて大きく、また仲間の手もとがくるって、その矢とか槍で
傷つき、死ぬことも少なくなかった。

人間が食べるものは小麦でも肉でも人間が作るべきで、それができず
自然のものを食べているのは、野蛮人であるというのが、彼らの基本的な
考え方である。私たち日本人も、丹精こめて米を作っている人の傍に、
そういうことをせず雑草を取って食べてばかりいる人がいるとすれば、
その人を野蛮人だと思うではないか。

ヨーロッパ人はその気持ちを、肉にまで及ぼしているのである。

食べる肉は、牛であり羊・豚であれ、牧畜によって作って食べるべきで
ある。食べるために鯨をハンティングするのは、ちょうどアフリカの
キリンやシマウマを射殺して食べるのと同じく、最低・最悪の野蛮・残酷
な行為である、と彼らは考える。

だから、私たちが鯨をころして食べるのと、彼らが牛・羊・豚などをころして
食べるのとでは、ヨーロッパ人の眼からすると、明確な一線が引かれることになる。

狩猟民族の言い分

キリスト教徒は、魂をもつのは人間だけであり、動植物とか虫は魂をもたない
と考えていても、
ヒンズー教徒や仏教徒にしてみれば、輪廻思想がある。
すなわち輪廻思想によると、人間だって行いにより来世には
虫になったり動物になるかもしれない。
逆に動物から人間になることもありそう。

こうなったら文化の違いというか、まったくものの考え方の基準が違う。
大切なことは相手がどう考えているかを知ることだろう。

(木村尚三郎、ヨーロッパの窓から、講談社)

ヨーロッパの簡単な美術史