フライブルクの駅
ここに初めて降りたときの感激は今も忘れない。
フライブルク駅
駅前にあったゲーテ・インスティテュート
この学校でドイツ語の研修を受けた。
ゲーテ・インスティテュートの門と庭
ゲーテ・インスティテュートの建物全景
ゲーテ・インスティテュートの入口
ゲーテ・インスティテュートの扉
この張り紙のドイツ語をまだ知らない学生のために各国の言葉で表示してある。
ゲーテ・インスティテュートの先生たち
最初に習った若い女の先生
最初の先生は途中で小学校の先生になるということで退職
校長先生の奥さん 博士なので、真面目に厳しく教えてくれた。
ゲーテ・インスティテュートの学友たち
ボローニアから来た女子学生とメキシコのお母さん
みんなで
立っているスペインの青年と白シャツのイタリアの若者 二人は自分の国の言葉を話しながら会話している。
みんなで
フライブルク大学の図書館
新しい図書館の窓から見た由緒ある大学の建物の標語(写真)
この標語の説明真理はおまえを自由にする。(説明文)
古い図書館し再利用するらしい。赤い岩石で建てられた建物
連絡橋のついた新しい図書館
階段を上って新しい図書館へ行きましょう。
図書館の中にあるカフェでくつろぐ日本人女性たち彼女たちもドイツに勉強に来ていた。
大学の食堂 メンザ
ドイツの大学の食堂はメンザ(ラテン語とか)という。貧乏学生のため
国の予算補助もあり、たしかに安い。フライブルクの大学のメンザでは、
それをねらって来る市民をチェックする意味で、学生証を提示しないと食券が
買えなかった。ドイツ人の中には、それでも学生に頼んで、その食券を
学生から買い取る者もいたようだった。また、食べ残したパンなどを学生から
「ペットに与えるから」と言って受け取り、持参の袋に入れている人もいた。
日本人学生など、あれは自分で食べるのではないかと言う人もいた。
記念に撮影したメンザの職員。 いちおう彼女たちに
撮影することを断ったが、「私はモデルよ」とにっこり笑ってくれた。
しかし、安いだけあって(当時1食150〜250円)、おせじにも美味しいと
言えたものではなかった。ある時はイタリア青年が一口食べたら、「もういらない」
と言って食べなかった。そして「家に帰って自分で作る」と言って本当に帰ってしまった。
私はこれを食べるのもドイツ体験だと思って、出されたものは全部食べてきた。
ある日の料理 たぶんタラの煮付け。 シチュー、
ジャガイモ、野菜サラダ(実は素朴な葉っぱだけ、これに塩をかける)
このトレー1枚に食材を盛りつける。このトレー方式は2001年宇宙の旅のパイロット
も同じだったので、ドイツでその映画を見たとき笑ってしまった。
最近テレビで見たアメリカの中学校の給食も同じトレー方式でしたね。
(環境ホルモン大丈夫?)
日本人と一緒の食事。この先生は真面目に勉強してミュンヘンに行った。
スパゲッティだったが、食事を少しでも美味しくするためワインを特別注文した。
ワインの値段は、この定食分に匹敵する。
フライブルクのミュンスター(大聖堂)
町の広場に、この町の自慢のミュンスターがある。
あまり高いので、全体の写真を1枚には撮れなかった。上の部分(塔) 下の部分(入口)
側塔 塔の上からの眺め
塔の上からの眺め
塔の先端(これをみんな石で積み上げたと思うか)
ゲーテ・インスティテュートの頃の学寮
私はドイツ人の家で部屋を借りていたのですが、たいていの日本人は安い学生寮にいました。
大学も夏休みで、部屋が空いていたので、それを利用していたようです。
学生寮の玄関
驚いたのは男子学生も女子学生も同じ寮でした。もっとも男女の棟は違っていましたが。
私は日本人の語学研修に来ていた仲間たちと毎週の週末に寮に集まり、
すき焼きパーティなど色々と日本料理を食べていたのです。
もっとも私はお金を出すだけで、一度も作りませんでしたが、音楽家の人は
美味しいものを食べて元気で歌わないといけないというわけで、毎日市内を歩いて
食材を探していました。
よく、ドイツの家を借りて日本料理をしている日本人が、ドイツ人大家から
台所を汚すとか、臭いがして困ると苦情を言われるようです。
そう言うときは、ドイツ人に美味しい日本料理を食べさせると理解してもらえる
と本に書いてありましたが。
私の見たところ、ドイツ人は料理が得意でないようです。いや、美味しいものを作る
時間があったら、もっと別の人生に有意義なことに時間をかけたいと思っているようでした。
(この料理軽視の特性はイギリス人にもアメリカ人にも受け継がれていると思うのですが)
寮でも、よくドイツ人などが我々のテーブルに寄ってきました。残りの料理を食べさせると、
たいてい旨いうまいと誉めてくれます。
南アメリカを旅行して帰ってきたドイツの学生。
向こうで買ってきたコートを着ている。
寝ているのは
2ヶ月の語学研修で疲れた日本人たち。
いつも一緒だったトルコの青年 このときはトルコ人の祭だったようだ。
切手の自動販売機(ポストも兼ねている)
ドイツの切手の自動販売機。ドイツのポストは黄色
公衆電話ボックス
国際電話もかけられる公衆電話ボックス。
当時はカード式はなく、5マルクのコインを用意したものだった。
都心は車の乗入禁止
フライブルクの町中は車の乗入禁止だった。車の乗入禁止の標識はとてもわかりやすい。
みんな、車から降りて、都心に入っていく。
町の中心部は、電車やバスなど公共交通機関のみ
なので安心して歩かれる。
自転車と歩行者
歩道を歩行者と自転車がすみわけする。標識はとてもわかりやすい。
こちらもその写真。
これは実際の通行風景です。
フライブルクの橋
フライブルクの町の中に橋はあんまりなかったが、駅の近くの橋は印象的だった。
遠くの教会が借景となりドイツならではの風景だった。
もう一つのコンクリートの橋吊床版橋を見た。
この橋の噴水時の風景。
この橋の構造。
この橋の近くにあった各国の国旗何か近くに国際的建物があったのだろうか。
フライブルクの城門
フライブルクは昔ローテンブルクのように城壁があったのだろう。
そのなごりの城門(Schwabentor)が残っている。 城門全体(Schwabentor)
これは城門をくぐりぬける電車。
フライブルクの電車
フライブルクの電車はカラフル。そして、コマーシャルでいっぱい。
地元のビールのコマーシャルの電車が走る。
これも地元のビールのコマーシャルの電車
これも地元のビールのコマーシャルの電車。ドイツの電車は3両連結。
フライブルクの墓地
墓はその民族の伝統であり慣習であり風俗であり文化であると思う私は、
なるべく墓を見てあるいたものだった。
フライブルクの共同墓地。行ってみると入口の門の彫刻もすばらしい。
彫刻の目立つ墓
誕生日は*(星)が、命日には+(十字架)が刻まれた墓。
どの墓も花が美しく咲いている。
ある墓には、○○日までに関係者は連絡せよ、連絡がないと墓の使用権利を没収すると
掲示板が立てられてあった。これなどは日本と同じ、無縁仏の処理になるのだろうか。
これを見てわかったことは、ドイツでは土葬で、1人の人間の必要な面積は畳1枚で
十分だということだった。
私は小学生の時読んだトルストイの人にはどれほどの土地が必要かを思い出した。
フライブルクの博物館
アイヌの衣装があったのには驚いた。
ゲーテ・インスティテュートの旅行
2ヶ月の語学研修の終わり頃、フライブルクの南のシュタウフェンに1日の
楽しい旅行をした。シュタウフェンにも小さいゲーテ・インスティトゥートがあって
そこで勉強してからフライブルクに来る人もいた。このシュタウフェンのゲーテ語学
学校も今は廃止されたと風の噂で聞いた。
我々は、シュタウフェンにあるシュナップス工場とワイン工場を見学したのだった。
シュタウフェンの町のレストランの壁画。これはファウスト博士と悪魔の絵という。