やさしい数学

数学はうそをつかないから比較的好きだった。
しかし、大学で数学を学ぶうちに、とても奥が深くて私は力不足と思うようになりました。

ここでは、数学者のエピソードなどを紹介したいと思います。

「ラプラス変換」を作った人々
ラプラス変換を実用的なものとして提案したのは英国の電気工学者ヘビサイド(1850-1925)
である。彼は便利な演算子を提案した。これを使うと微分方程式が簡単に解ける。
技術者だから、誰でも簡単に解けるということに価値を見いだした彼。

しかし、数学者の学会は冷たかった。証明が不完全である。
たまたま答があっただけでないか。無視され続けたヘビサイド。
だが、捨てる神あれば拾う神あり。
勇気と才能のある、ある数学者が証明してくれた。

がぜん認知されたこの演算子を使う手法は、人気のまととなった。
そうすると学問のオリンピック。今でも新しい発見を自国の学者が最初にしたのだ
と国どうしの対抗が見られる。 (エイズ発見もそうだった)
フランスの学者は、この方法はラプラスがすでに考えたものと同じだと言い出した。

こうして、英国のヘビサイドの提案した微分方程式を解く方法は
ラプラス変換と呼ばれるようになった。

ラプラス(1749-1827)は、ノルマンディーの寒村生まれ。数学者ダランベールを頼って
パリに出てきた。数学の天才として世に認められ、エコール・ノルマール
(エコール・ノルマル・シュペリウール高等師範学校)の教官にもなった。

ついにナポレオン皇帝は彼を内相にした(行政能力のないのがわかり6週間後に解任)。
ナポレオンが失墜したとき、議会でラプラスは、かつての英雄追放の票を入れたそうである。
ナポレオン没落後の王政復古においても巧みな政治的手腕で侯爵となり、
裕福な生活をおくった。

このように、彼は政治的節操を欠いた人間ではあったが、数学や天文学にすぐれた
業績を残した。
彼の「ラプラスの星雲説」も有名である。

彼は確率の本も書いたが、彼の考えによれば、確率論が必要となるのは人知が
不十分であからであるとした。「ある瞬間に宇宙のすべての原子の位置と速さとを
知ることができるならば、未来永遠にわたって宇宙がどうなるかは、解析学の力によって
知ることができるであろう」と述べた。

皇帝の友「フーリエ」
モンジュと同様にナポレオンの信頼のあつかったフーリエ(1769-1830)は、
フランスの仕立屋の子に生まれた。8歳の時孤児となり、オクーゼルの司教にあずけられ、
ベネディクト派の士官学校に入った。

1789年のフランス革命の時、パリに出て師範学校、高等理工科学校
で教育にたずさわった。

1798年モンジュとともにナポレオンのエジプト遠征に従軍する。

1801年行政的才能を認められナポレオンからイゼール県知事に任命された。
グルノーブルで知事職につきながら、1807年に「熱の解析的理論」を書いた。

ナポレオン失脚後一時失職するが、結局アカデミー会員となる。
熱伝導論の研究に関連してフーリエ級数やフーリエ積分を考えついた。
それがのちに解析学のまったく新しい分野に発展した。
彼は純粋数学者に対抗して、応用数学としての物理数学の先駆者であった。

「三次方程式の真の解法者」
三次方程式を最初に解いたのは、16世紀のイタリアのボローニア大学のフェロだった。
彼は特別のタイプの三次方程式の解法を発見して、弟子フロリダスに伝えた。
しかし、公表しなかった。

一般的な三次方程式の解法はフォンタナによって発見された。彼は貧しい農民層の
出身で、独学で数学を勉強し、苦心の末解法にたどりついたのだった。

当時は数学の公開試合がはやっていた。フォンタナはフェロに試合を申し込んだ。
公開試合では、互いに相手に30題の問題を出し合って解くものだった。
フォンタナはフェロの問題を2時間で全部解いたが、フェロはフォンタナの問題を
1問も解けなかったという。

そして、フォンタナも当時の風習にしたがって、彼が考えた解法を公表しなかった。

ミラノのカルダノは、フォンタナの一般的三次方程式の解法に興味をいだき、
言葉巧みにフォンタナに近づき、絶対に他人にもらさないという約束で、その解法を
聞き出すことに成功した。

ところが、こともあろうに、カルダノは約束を破って、彼の著書「アルス・マグナ」
で、一般的な三次方程式の解法を公表してしまった。

怒ったフォンタナはカルダノに公開試合を申し込んだ。カルダノの弟子フェラリ
と公開試合で戦ったフォンタナは不運にも負けてしまう。

なお、四次方程式の解法は、このフェラリが与えた。

約束を破って自分の本で公開したため、数学史上に自分の名がついた解法が残った
カルダノであった。小説家なら、彼の不実を、世のため人のため(迷った末)発表
したのだと書くかもしれない。あるいは、恋人か愛人にそそのかされて、
ついつい他人の手柄をよこどりしてしまったと書くかもしれない。

別な本には、こう書いてある。
カルダノはそのころ(1539)数学の本を出版しようとしていたので、できたら
その本に三次方程式の解法を載せたかったらしい。
フォンタナ(吃音のためタルターリャというあだ名)はカルダノが熱心に頼み、
さらに文芸のパトロンとして有名なロンバルディアのバスト侯爵を紹介する労をとろう
としてくれたので、フォンタナは公表しないという条件で、カルダノに簡便な解法を教えた。

1539年に出た本にはフォンタナから教えてもらった解法は載っていなかったから、
フォンタナはひと安心した。

フォンタナの教えてくれた解法には証明はなかったので、カルダノは何年も考えてついに
一般的な三次方程式の解法を考え出して、それを1545年に「アルス・マグナ」で
公表してしまった。

その前に1543年にカルダノは弟子フェラリを伴ってボローニャに旅行したとき、
デッラ・ナーヴェから養父故ダル・フェッロの論文を見せてもらい、ダル・フェッロは
フォンタナの作ったという公式をすでに知っていたことに気がついた。
だから、カルダノはデッラ・ナーヴェから、ダル・フェッロのその解法を教えて
もらえることを知っていたのなら、あれほど熱心にフォンタナに頼まなかったろう。

今日ではダル・フェッロがその公式を発見したこと、弟子フィオルにそれを秘伝したこと、
そしてフォンタナはフィオルがそれをもっていたことを知っていて、それを再発見した
ということはほとんど定説となっている。

「三角関数の生い立ち」
sin (弦)とは、ギリシアのヒッパルコスが円の中心角に対する弦の長さを
表にまとめたものであった。
この弦の表はインドに伝わり、510年頃アリアバタが中心角2θの半分のθに
対して、弦の半分の長さを計算し、より正確な表を作成した。これが我々の使う
正弦(sin)にあたる。正弦を、バラモンの言葉でjiva(弦)と呼んだ。
これがアラビア人に引き継がれ、発音の近いjaib(入り江)となり、ヨーロッパ
に伝わり、入り江の意味であるラテン語sinusとなった。こうしてsinとなった。
なお円の弦から離れて、現代の直角三角形で定義されるようにしたのは
ドイツのラエティクスである。

余弦はインドではコチジバアと呼ばれていたが、ドイツのレギオモンタヌスに
よってヨーロッパに紹介された。そして、彼によって sinus complementi
(補足の正弦)というようになり、これを短くして co-sinus というようになった。
そして、16世紀にイギリスのグンデルがcosを使った。

多産な数学者「オイラー」
レオナルド(ドイツ語読みではレオンハルト)・オイラー(1707-1783)は、スイスのバーゼルに
牧師の子として生まれ、バーゼル大学でヨハン・ベルヌーイ教授に数学の能力を認められた。

18世紀、第一線の科学者は絶対主義王権のもとで科学アカデミーに所属して
研究活動に専念するのがつねであった。
オイラーもペテルブルグおよびベルリンの科学アカデミーで活躍した。

ペテルブルグでは科学アカデミーを作ったエカテリーナ1世(在位1725-1727)の後継者たちの世話になった。
1727年に、オイラーはサンクト・ペテルブルグのアカデミーで物理学教授に就任して、
ヨハン・ベルヌーイの息子ダニエル・ベルヌーイの同僚となった。
ダニエルは同アカデミーの数学教授であったが、1733年に病気を理由にオイラーを後任に推薦してバーゼルに帰った。

1741年、オイラーはベルリンではフリードリヒ大王により科学アカデミーに招聘された。
その後1766年エカテリーナ(2世)女帝(在位1762-1796)に迎えられペテルブルグに戻った。  

1735年に片方の眼を失い,さらに66年には全盲になったが、
計算力は人並みはずれて、その後も研究意欲は衰えることがなかった。

1744年刊の「与えられた性質を有する極大・極小曲線を見いだす方法」は、
変分法の本であり、いわゆるオイラーの方程式が導きだされている。

1748年の名著「無限解析序論」は、簡明な記号を用いて代数学、微分積分学、
三角法を記述し、ラグランジュ、ラプラス、ガウスらに大きな影響を与えた。
有名なオイラーの公式 ix=cosx+ sinx   こちら証明
  あるいは cosx=(eix+e−ix )/2   sinx=(eix−e−ix )/2i      こちら証明

「貧困の天才」
ノルウェーの数学者アーベル(1802-1829)。貧困と結核とにより、26歳で死んだ。
1823年に、5次以上の方程式は代数的には解けない(四則演算とべき根をとる演算
で根を表すことができない)ことを証明した。

彼のすばらしい論文は当時の大学者ガウスに届けられたのにもかかわらず、読まずに
捨てられてしまった(もしガウスがその時読んでアーベルを認めてやれば、
アーベルの運命も変わったのに。後でガウスは彼の業績を認めたが遅かった)。

しかし、ベルリンでクレレと知り合い、数学雑誌"Journal fuer reine undangewandte
Mathematik"の創刊に協力し、多くの論文をこの雑誌に発表した。

クレレは土木技師であった。ドイツの鉄道建設で財産をなし、数学愛好者の立場で、
数学研究者たちに活動の場を与えたのであった。

その後パリに行き、ここで楕円関数に関する論文を書き、当時コーシーが審査委員を
していたアカデミー・デ・シアンスに提出したが、認められなかった。

アーベルが死んだ2日後に、クレレの努力で、アーベルがベルリン大学教授に指名
されるであろうことを書いた手紙が届いた。

「狂気の天才」
アーベルは貧乏で死んだが、フランスの天才ガロア(1811-1832)は愚行で死んだ。

彼の数学はあまりにもぬきんでていたため、当時の数学者には認めらなかった。
また父親がそのリベラルな思想のゆえに迫害を受けて自殺したことなどから、
反政府活動に走った。もっとも、これは彼でなくてもいつの世も若者の傾向であるが。

彼も、一般に方程式に解法が存在することの意味を研究した。
その研究結果をパリ科学アカデミーに提出したが、紛失されたり突き返されたり
して、アーベルと同じように報われなかった。

ガロアは、恋愛問題で決闘をするはめになり、ピストルで腹を撃たれて若い命をおとしたのだった。
その決闘の前日にも、すばらしい論文をまとめていた。

アーベルとガロアの二人の若い天才数学者により、5次以上の方程式は代数的には
解けないことが示されたのだった
この二人の若い死を考えたとき、薄倖の詩人石川啄木(1886-1912)を思い出してしまう。

人間は何年生きられるか。
ネズミの寿命は数年、ゾウの寿命は100年
哺乳類の一生の間に打つ鼓動の数はおよそ20億回
人間の心電図の周期を見ると約1秒(振動数1ヘルツ)、人生約70年とすると
60*60*24*365*70= 22.0752*108
人間の一生の間に打つ鼓動の数はおよそ22億回で似たようなもの。
             ゾウの時間ネズミの時間

 数学者も俗的な世間から逃れられなかった?
正義が必ず勝つともいえない。努力が成功にストレートに結びつかないところに、人生のおもしろさがある。

数学に使われるドイツのヒゲ文字
なんと微分方程式の解法のところでヒゲ文字発見
これは虚数部、実数部をさす Im, Re の文字でしょう。

英語で数式はどう読むか

   川久保勝夫:数学者のしくみ、日本実業出版社

   E・T・ベル、田中・銀林訳:数学をつくった人びと(上)、(下)、東京図書

   木暮陽三:なっとくするフーリエ変換、講談社

   ギンディキン:ガウスが切り開いた道、シュプリンガー・フェアラーク東京

   佐藤敏明:[図解雑学] 三角関数、ナツメ社

      測量の数学       大事なのに忘れる公式