ベルリンの壁がとりこわされるまで

まず引用文です。この文章を書いたのはオランダ在住のある日本人です。
ベルリンの壁崩壊の時、ドイツにいたので貴重な歴史の瞬間に立ち会ったわけです。
(引用については了解を得てあります)

>東西の雪解けの象徴として、1989年の11月9日のベルリンの壁開放は
>誰でも知っている事件です。
>1988年からドイツに来た私は、丁度よいタイミングでその歴史的瞬間を体験
>できました。 

>しかし、実際には、ベルリンの壁が開放される前に、長いやり取りがあったのです。 

>ドイツに来て、しばらく慣れて、ドイツ語の新聞やニュースが分かるようになった
>1988年だったと思います。東独のLeipzigで、民主化を求める人達の大規模な
>デモがあったという記事を読みました。 

>へぇ、こんなデモが許されるようになったのかという感想を持ったんですが、
>それほど大きな扱いではありませんでした。まだその頃は大騒ぎしてなかったんです。 

>しばらくして、ハンガリーがオーストリアとの国境を分断していた鉄条網を
>撤去するという電撃的なニュースが伝えられました。 

>最初はその意味がよく分からなかったのですが、要するに、鉄のカーテンの間に
>隙間が出来たということです。ということは、東独の人は自由に行き来できる
>ハンガリーを使って、永世中立国オーストリアを目指せば、西ドイツに亡命できる
>可能性が出てきたのです。
>それ以来、連日このルートを目指して亡命希望者が殺到しました。
>チェコスロバキアの西ドイツ大使館にも亡命希望者が、つめかけました。 

>西ドイツ基本法の規定により、亡命希望すれば東独国民は簡単に国籍、市民権を
>取得できた上に、支度金として西ドイツ政府から100マルクが支給されました。 

>こうなったら、人の流れを止めるのは不可能です。体制を維持しようと試みた
>東独政府は国民に完全にそっぽを向かれ、最後には11月9日にベルリンの壁の
>自由通行を許可し、あっと言う間に国家主権も形骸化して、ドイツ統一を迎えました。 

>その日、私は帰宅してTVをつけました。 
>すると、ニュースでアナウンサーが興奮して「信じられないような事件です。
>ベルリンの壁が開放されました」と伝えていました。 

>ただ、突然の事だったので、カメラ中継は間に合わなかったようで、
>何がどうなっているのかアナウンサー自身もわかっていないようでした。

>翌日の朝のニュースで、壁の上に人がよじ登って立っている、有名な光景が
>映し出され、このニュースが真実であることを、私もようやく確信しました。 

この日本人はそれから車をとばして、ベルリンの壁まで見物に行くわけです。

東西ドイツの統一については
ソ連とその回りの共産圏の経済体制の崩壊が大きな原因でしたが、
直接の理由を作ったのは、引用文にあるようにハンガリーの
対オーストリア国境開放政策
でした。

ロシア人の支配下におかれるよりは、オーストリア・ハンガリー帝国時代の
栄光のときを憧れたのかもしれません。
ハンガリーにしてみれば、昔の帝国の時のように、オーストリアとの国境を
開放したにすぎないのに、その影響は大きく
東ドイツから、ハンガリー、オーストリア経由で西ドイツに移動できるように
なったのですから。

  厳しかった東欧圏の国境

  ドイツ統一直後の旧東独事情

  私の見てきたベルリンの壁(壁のあった頃)

  東西ドイツの国境がなくなったころ(そのとき私は)