ドイツ統一直後の旧東独事情
こういう題で、郁文堂(東大正門前にある)から毎月送られてくる小冊子に
文章が載っていたので紹介しましょう。
最近ドイツに関するニュースが多い。
ドイツの経済不振、政情不安、特に旧東独地区の不況は深刻で失業者は旧西独地区
の4倍以上、住民の不満はうっ積して社会不安を加速し、ネオナチの活動も活発だ
など暗いニュースが続いている。
フランクフルトでレンタカーを借り、シュヴァルツヴァルト、スイス、
オーストリア、ベルリンへと、1日300〜400キロを突っ走る。
最初に気づいたことは、眠ったようなスイスやオーストリアにくらべてドイツは活気
があり、さすがにEC最大の経済大国の底力を感じさせたことだ。
16年前にくらべアウトバーンはさらに拡張整備され、どの都市もビルや橋梁や道路
の建設が盛んで経済の不振などどこにあるのかと思ったくらいだ。
問題は東独地区だ。私はホーフからドレスデンへ向かったのだが、アウトバーンを
走ると、いつ旧東独地区に入ったのか気づかない。
かつて畠や丘陵を分断して長く続いていた国境の鉄柵や東独国境警備兵の監視塔も
もちろんなくなっている
(私もブラウンシュバイク経由で旧東独に列車で入っていったが、国境の鉄条網が
なくなった緩衝地帯の跡が残っていて、そこだけ林がきれており、ああここは
国境地帯だった、と判別できる)。
だが注意して見ると、ああここは旧東独領なんだなと、はっきりわかる。それは
アウトバーンの舗装が途端に悪くなり、自動車の揺れが激しくなるからだ。
片側3車線から2車線あるいは1車線と道幅が急に狭くなるところがあるのも
かつての東独をしのばせる。
(12年前の私の経験でも、東独の高速道路はゲルバー桁だとか単純構造が多く、
西独のような不静定構造は珍しかった)
一番はっきりしているのはパーキングエリアのトイレだ。西独領のトイレは、
いかにもドイツらしいコンクリート造りの倉庫のように無骨で頑丈な建物だが、
旧東独にはトイレなど無いところも多く、またあっても建設現場で見かける
簡便トイレ、つまりプラスチック製の、電話ボックスよりひと回り小さい箱のような
しろもので、それが1箱か2箱チョコンと立っている。
しかしそのアウトバーンは今突貫工事で拡張工事が行われている。至るところ
ショベルカーやクレーンがうなり、労働者が働いている。
早急に旧東独地区を西独の経済レベルに引き上げて、ドイツ全体の繁栄を確保する
ためにはまず、大動脈としてのアウトバーン整備が急務だが、トイレまではまだ手が
回らない、というのが実状らしい。
旧東独地区の経済は沈滞しているとニュースは伝えるが、ドレスデンやマクデブルク
や旧東ベルリンなどの都会を見る限り、少し事情は違うようだ。
これらの都市ではいたるところで道路や橋やビルの建設工事が活発で、冷戦時代
東独領内を旅行したときの不自由で暗い印象は全くない。
(3年前にベルリンの壁の開放を見に行ったとき、確かにベルリンは建設ラッシュで、
当分建設業者の仕事はつづくなあ、と思った)
低迷しているとはいえ、西独地区や外国からの資本投下は徐々に増え、旧東独は
今着実に復興への道を進んでいるというのが私の印象だ。
話は変わるが、ミュンヘンで交通違反をした。駐車場がなくも市内を30〜40分も
回ったあげく、やっとオスト(東)駅近くの道路ぎわにスペースを見つけて自動車を
乗り入れた。
車を降りて気づいたのだが、道路のはずれに「1時間以上の駐車は禁止」の標識が
立っていた。
人通りの少ない裏通りだからかまうものかと、遊び回って自動車に戻ったら、
フロントガラスに違反切符がはさんである。
驚いたことに、何時から何時まで4時間オーバーしていると正確な時間が記入して
あり、1週間以内に罰金100マルクを支払わなければ裁判にかける、と書いてある。
誰がどこかで見張っていたのかはいまだに謎だが、とにかくミュンヘンの警察組織は
すばらしいなと感心しながら銀行に行って金を振り込んだ。
(たぶん警察が見張っていなくても、アルバイトに委託された年寄りなどが
目立たない場所で見張っているのでは?)
ところがそれから数日後、旧東独地区で同じような駐車違反をしたのである。
ブロッケン山に近いハルツの山中で道に迷い、通りすがりの小さな村で
百年から2百年はたっていると思われる見事なFachwerkhaus (ドイツによく見られる
木組の家)の家並みを見ていたらたまらなくなり、駐車場を探したがそれがない。
広場の隅の教会のわきにスペースがあって、駐車禁止の標識があったが、
短時間なら大丈夫であろうと思ってでかけて、1時間ほどで戻ったが、違反切符も
なければ誰もいない。
私の知っている東独は警察国家でやたらと警官が多かった。自動車を停めるとすぐ
何をしているのかと警官が寄って来たし、ホテルに泊まれば深夜正体不明の電話が
かかってきたりした。
そんな不気味な過去の印象が残っているので、私はちょっと狐につままれたような
感じだった。
その後も、試したい好奇心にかられて、旧東独地区のあちこちの町でわざと
同じ様な駐車違反をしてみたが、何の反応もなかった。
壁崩壊後幹部の追放と大幅な人事の入れ替え、組織替えなどでほとんど解体されたも
同然の東独の警察機構は解体されたままで、まだ再建が完成していないのだろうと
いうのが私見だか、どうだろうか。
(ベルリンの中央駅、ただしまだ旧東ベルリンのなごりをひきづって古い建物で
あったが、3年前そこから寝台車に乗るため待っていたが、
旧東西ドイツの警官の違う服装のままの警官が混在して駅警備にあたっていて、
おやと思う光景だった。統一された制服を用意するまで使える服は使えという
方針だったのだろう)
私のブランデンブルク門見学は1991.1だから、この文章は1993頃のものだろう。
この旅行で特に印象深かったのは東ベルリンとポツダムで、壁のなくなった
ブランデンブルク門の下を大勢の男女や子供が談笑しながら往来している。
ウンター・デン・リンデンも立派な通りに生まれ変わった。
迷路のように曲折する車止めのブロック塀の間を抜け、車体の下に鏡まで
差し込む厳しい検問を受け、緊張に身体をこわばらせて東ベルリンへ入ったあの
チャーリー検問所も今はない。
わずかに検問所の痕跡を示す看板とだんだら模様の遮断機1本を残すだけで、
あとは見渡すばかりの広場になっている。
(私も西ベルリンから地下鉄でフリードリッヒシュトラーセの駅に降りて検問を
受けた。あの地下鉄は東ベルリンの駅は、それ以外の駅は通過したのだが、
3年前地下鉄に乗ったとき、決して降りられなかった駅に初めて降りてみた。
なんのへんてつのない駅だったが、当時は誰もここで地下鉄をとめられなかったし、
降りられなかった。長い間使われていなかった駅なので、壁などはいたんでいた)
東ベルリンの市街も変わった。かっての人の出入りの激しかった広壮な旧共産党
本部ビルは人影もなくひっそりとして、その背後のアレキサンダー広場に近いビルの
屋根には「トーシバ」とか「カシオ」などの巨大な看板が空に突き立っていた。
ショックにも似た感慨に胸打たれて、私はしばらく立ったままだった。
ポツダムの市街で、かって多く見られたロシア語の案内板や標識はなくなり、
旧西ベルリンにくらべると町中は多少陰鬱な感じだが、歩いている人々の顔は明るい。
これに反してサンスーシーで出会ったロシア兵は気の毒なくらい影が薄かった。
偶然かもしれないが私の見たロシア兵はほとんど小柄で、彼らは肩をすぼめ何となく
遠慮するようなかっこうで歩き回っていた。
近寄って来て、安くするからソ連製の双眼鏡を買わないかと、明かな軍用品をそっと
差し出すソ連将校には、歴史の変遷を感じないわけにはいかなかった。
ニュースはとかく一面的でセンセーショナルになりがちだ。
たとえば日本のテレビが放映するネオナチのニュースを見ていると、ドイツの
いたるところでネオナチが荒れ狂っているような印象を受けるが、そんなことはない。
たしかにドイツが抱える問題は多いが、彼らがその一つ一つを解決しながら粘り強く
着実に前進していることも事実だ。
(BRUNNEN Nr.354)