あるゲルマニストの国境体験報告
K大学に潜む国際的犯罪者
こういう題で、郁文堂(東大正門前にある)から毎月送られてくる小冊子に
文章が載っていたので紹介しましょう。
まだ旧東ドイツが存在した頃、ライプツィヒ大学(当時はカール・マルクス大学
といっていた)に留学した日本人が、美しいポーランドの女性留学生と一緒に学んだ
縁で、それまで親しくつきあっていたから、彼女が帰国したとき、ぜひ一度
ポーランドに来てほしいといわれたのです。
彼は東ドイツからチェコスロバキア(この国も現在名前を変えた)のプラハに寄り
古都観光をして、それから彼女に電報を打ち、
プラハからワルシャワへ飛行機で飛び立ったという。
列車を利用しなかったのは、早く彼女に会いたかったのと、ビザ取得や諸々の検査に、
いいかげんうんざりしていたからであった。
再会の二人はワルシャワ、クラコフを見て楽しいひとときをすごした。
彼は彼女と別れを惜しみながら、ハンガリーの首都ブタペスト行きの夜行列車に
乗り込んだ。
注)ポーランド(ワルシャワ、クラコフ)→チェコスロバキア→ハンガリー
真夜中に国境を越え、チェコスロバキアを縦断してハンガリーに入っていく列車である。
彼がこの列車を選んだのは、ヨーロッパ旅行に来る学生達と、ブタペストで合流する
ことにしていたからだ。
国境で停車し、3人組の係官が座席のソファをすべて持ち上げて調べ、車外では
自動小銃を肩にしてシェパードを連れた3人グループがあちこちに見られる。
目をこらしてよく見れば、彼らの背後に高い鉄の網が張りめぐらされ、
さらにその向こうは鉄条網を敷いた土手になっているので、逃亡者が逃げおおせる
確率はゼロである。
このような厳重な警戒態勢の中で、パスポートとビザの検査、更に所持金と持ち物の
検査が行われる。
乗車前に領事館で電話で問い合わせて、ビザの取得は国境でできることを確かめて
あるので、係官にパスポートと所持金申告用紙だけを差し出したら、
「現金の所持金額は、本当にこれだけなのか」と聞かれて、「はい」と返事をしたら
列車からすぐ降りるように命じられた。
国境警察室で、ビザを取得するのに現金が足りず、旅行小切手や日本円の現金による
支払は認めないとのこと。
鉄格子のなかで、このままこの地で処刑されるかもしれないと思うと生きた心地が
しない、数時間後鉄のドアが開けられ、「クラコフへの強制送還」との知らせ。
助かった。
係官はクラコフ近くにある領事館事で、20ドルを支払ってビザを取得してくる
ように助言してくれた。
しかしその日は土曜日で、領事館は休み、
しかたなく前日宿泊したホテルのフロントへ行き、しつこく頼み、土曜・日曜は
外貨を出してはいけないところを1時間以上粘って、やっと旅行小切手から
20ドルを換金してもらう。
前日と同じ時刻にブタペスト行きの列車に乗り、深夜に同じ国境でまたも煩わしい
検査を受けなければならなかった。
再び、係官にパスポートと所持金申告用紙とビザ代金20ドルを差し出したら、
「現金の所持金額は、これだけなのか」と聞かれて、「はい」と返事をすると、
またもや列車からすぐ降りるように命じられた。
国境警察室で、領事館で前もってビザを取得するのなら20ドルですむが、
国境でそれを買い取るときは50ドル必要だと、告げられる。
馬鹿な。相手側の理不尽な主張に対して、命のかかっている彼は、まるで機関銃の
ように外国語を放った。昨夜の係官はそのような説明をしてくれなかった。
従って非はそちらにもあるのだから、日本円の現金による支払いを認めよと。
彼の要求は電話によって、少尉、中尉、大尉へと連絡され、1時間後にやっと許可が
降りた。それから更に50ドルを円に換算するのに20分を要した。
3人の係官はいずれもかけ算が苦手とみえて、足し算のみ行ったから。
数秒間で計算した日本人の正しい金額は、被疑者ゆえとりあげられなかった。
やっと通過ビザが作られ釈放されたのは、午前3時頃。
たった1人の日本人のために列車は発車できず、数百人の乗客は待ちぼうけを
食わされたので、彼らは取調室を取り囲んで抗議していた。
彼は恥ずかしさと申し訳なさに、脱兎のごとく駆け出して、誰もいない車室に
飛び込み、コートを頭からすっぽりとかぶって、狸ねいりをきめこんだ。
ブタペストに1日遅れで到着したため、合流する約束をしていた学生たちに会え
なかったのはもちろんである。
不法入国罪、数百人の外国人乗客に多大な心配と迷惑をかけたこと、そして学生達
との約束を外国で破ったこと、これらの罪を心に深くいだきながら
この文章を書いた先生はK大学でドイツ語を教えているという。
結果論としては往復飛行機を使えばよいという、いかにも金持ち優遇の道はあった
のだが、語学教師として、現地の問題を体験しておくことは意味の無いことではない。
大なり小なり似たようなことは社会主義の国ではあるであろう。
社会主義国が変貌しつつある今日では、もうこのような体験はできないであろう、
と筆者は述べているが、
このような水ももらさぬ鉄壁の国境を越えて、ハンガリーに押し寄せた旧東ドイツ人
たちが、昔のハンガリー・オーストリア帝国のよしみでハンガリーからオーストリアへ
大量亡命し、オーストリアはその難民の受け入れを認めたから(東ドイツの人は
オーストリア経由で西ドイツへ移動した)、ベルリンの壁は破られたのであった。
日本人の立場でなく外国人の立場になったなら、現在の日本の法務省の入国管理局
で、多数の外国人たちが長時間並んで、ビザを取得するするのに苦労している。
彼らの苦労は理解できるが、不法就労や犯罪のことを考えると、我々は法務省によって
守られているのである。