壁が崩壊した日 89年11月9日の証言

「ただいまから東ドイツ市民は、ドイツ民主共和国とドイツ連邦共和国
の間のすべての国境検問所を越えて出国できます」
西ドイツの通信社dpaは89年11月9日19時4分、緊急ニュースとして
こう伝えた。 21時25分、東ドイツ市民の第1陣が国境を越えて西ベルリンに
入った。人々の動きは、もはや止めることができなかった。
11月9日から10日にかけての夜を、世界はどう体験したか。時代の
証人となった人々の声を紹介する。(Deutschland No.5/99)

ヘルムート・コール
当時ドイツ連邦共和国首相(1982−98年在任)
私はたまたまポーランドを公式訪問中で、この日の夜、マゾビエツキー首相
が催した歓迎晩餐会の席上で、ベルリンの壁が崩壊したという噂を耳にしました。
時間が経つにつれ、ベルリンで劇的な出来事が起きていることが確認されました。
私たちはボンの首相府から刻々に新しい情報を知らされ、西側諸国の首都からの
ニュースも聞きました。これは疑いもなく現代史の最もドラマチックな瞬間
でした。それなのに私たちはその瞬間、この出来事の外にいたわけで、
言ってみれば他の惑星上にいるような感じを味わいました。

ミハエル・ゴルバチョフ
当時ソ連共産党書記長
この夜、クレムリンには夜勤の者以外、誰もいませんでした。私は10時に
仕事を終え、モスクワ郊外の別荘に戻り床につきました。何が起こったか
知らされたのは、翌朝のことです。しかし私は、それ以前の成り行きから
こうした事熊が起こりうることを予想していました。もちろん私は、
ドイツ民主共和国の友人たちがどう対応したか、問い合わせました。
彼らはこう答えました。「私たちは国民の意思に反した行動をとるのではなく、
彼らの意志を受け入れるのが正しいと考えた」。これに対して私は
「あなた方の考えは正しい」と言いました。本当に私はそう言ったのです。
それだけでした。それが11月10日の朝のことでした。

ウベール・ペドリーヌ
当時ミッテラン大統領のスポークスマン、現在フランス外相
私は多くの責任ある地位にいる人々と同様、この出来事をリアルタイムで
知らされたと思います。この日ミッテラン大統領はコペンハーゲンに
いましたが、大統領は心の動揺を上手にコントロールできるひとでした。
この時もミッテラン大統領は、感情的な、あるいは衝動的な反応をほとんど
見せませんでした。私は、ミッテラン大統領の頭の中では、こうした出来事は
すでに起こっていたのだろうと思います。

ジョージ・ブッシュ
当時アメリカ合衆国大統領(1989−1993年在位)
私が大統領執務室でベルリンの出来事について最初に知ったのは、
アメリカでは11月9日午後3時のことでした。この瞬間まで、
「ベルリンの壁が崩壊するだろう」と予測した報道は、まったくありません
でした。この瞬間にすべてが変わるだろうと予想した秘密情報機関の報告も
まったくありませんでした。上下両院の議長は私に、ただちにベルリンに行き、
壁の上で踊り、自由を喜びあう若者たちと共に現地で祝うよう、提案しました。
私には、この提案はアメリカの大統領に対するもっとも馬鹿げた提案だと
思えました。というのも、アメリカのちょっとした誤った対応もソ連を挑発し、
軍事行動を取らせないとも限らなかったからです。支援の姿勢を強調するだけで、
そのほかはひかえ目な態度を保つ方が良いという状況があるものです。
私たちはこの時もそう判断して、ひかえ目な態度をとりました。

ワルター・モンパー(社会民主党)
当時西ベルリン市長(1989−1991年在任)
東西ベルリンの国境検問所に近づくと、すでに人の流れがインヴァリーデン通り
に向かっているのが、はっきり分かりました。大勢のひとが押すな押すなと
同じ方向に向かっていたので、前へ進むのも難しい状況でした。
検問所の前には、黒山の人だかりかりができていました。
私は、撃ち合いが起こり流血の惨事になるのではないかと心配しました。
私が白線を越えたとき、同行していた警察官が「ああ大変だ!またやっかいな
ことになる」と言いました。このときは、彼の言うことが正しいように思え
ました。そこで私は西側からメガホンを持ってこさせました。
人々を境界線のこちら側に呼び戻さなければならないと考えたからです。
境界線のあたりは人波が溢れていました。もし前方で鎧戸が閉まり、
後ろから人民警察が押し寄せたら、大変な惨事になるという思いで、
私の頭はいっぱいでした。そこで私は、境界線を越えようとする年全生活者
たちが、いつも取り調べのために持ち物を並べさせられる机の上によじのぼって、
スピーチをしました。しかし私の呼びかけの言葉は、人々の喜びの声に
かき消されました。多くのひとは、すでにたっぷりアルコールを飲んでいました。
私が何をしゃべろうが、そんなことにはお構いなく人々は歓声を上げ、笑い、
喜び合い、抱擁しあっていたのです

エゴン・バール(社会民主党)
ドイツ連邦議会議員(1972−1990年)
それは木曜日でした。連邦議会のその日の議事日程が私にはあまり興味のない
項目になったので、後はさぼることに決め、家に帰りました。
テレビをつけると、壁の上で喜び合う人々の信じがたい映像が私を驚かせました。
その後、世界中で知られるようになった、あの映像です。
真っ先に私は、なぜいま自分はベルリンにいないのか、と考えました。
次に考えたのは、これはドイツ民主共和国の終焉の始まりだ、ということでした。
しばらくして、ヴィリー・ブラントが電話をかけてきました。
「君もびっくりしているんだろうね、こんなことになるとは思わなかっただろう?」。
私が「その通りだ」と答えると、彼は続けてこう言いました。
「(ベルリン市長の)モンパーがいま電話をかけてきて、あした
ベルリン・シェーネベルクの市庁舎で行う記念集会に、われわれふたりも
参加するよう招いてくれたんだ」。ベルリンに向かう飛行機の中でブラントは
演説の構想を練り、箇条書きのメモを取っていました。
「いまこそ、もともとひとつだったものが、再びひとつに融合するのだ」。
後に有名になったこのフレーズも、そのメモのなかにあったのです。

レギーネ・ヒルデブラント
旧東ドイツの反体制運動家、現在ブランデンブルク州政府労働大臣
夜の10時半ごろ電話が鳴りました。知人からでベルリン中心部のショセー通り
とボルンホルム通りの検問所が開いたと聞いたので、うちの娘を西側につれて
いきたいという電話でした。夫は信じようとはしないで、「娘はもう寝ています」
と、その申し出を断りました。私は台所にいて、そのやりとりに耳をそばだてました。
もし本当に壁がどこかで開いたのなら、私もその場にいたいと思ったのです。
すぐに決心して息子や娘を揺り起こし、同居している親戚の者にも知らせました。
こうして夫の兄、夫、3人のハイ・ティーンの子供たちと私の6人が1台の
ヴァルトブルクに乗り込み、アレキサンダー広場からボルンホルム通りに
向かいました。定員オーバーで、交通規則に違反していることは承知の上でした。
道幅が非常に広くて長いボルンホルム通りは、もう車でいっぱいで
少しも前へ進めず、私たちは車をパークするためにまず反対方向に走らなければ
なりませんでした。こどもたちはとても待ってはいられず、
「とにかくのぞいてくる」と、走って行ってしまいました。
大勢の人でごった返していたので私たちは彼らを見失い、この夜ついに
子供たちと会うことはできませんでした。ひとと車が押し合いへし合い、
一歩一歩、あるいは1メートルずつ、東から西へ進むという具合でした。
何のコントロールもありませんでした。その間にも、われわれ大人3人は
子供たちを探しました。子供たちがあらわれるのを期待して時々立ち止まり、
あたりを見回しましたが無駄でした。もう「あちら側に」行ってしまった
のです。というわけで、私たちは大人だけで西ベルリンのヴェディング地区に
たどり着きました。そこへほかの東ドイツ人たちがやってきて、
私たちに「クーダムはいったいどこなの」と聞きました。

ギョルギ・コンラート
ハンガリーの作家。現在、芸術アカデミー学長。
89年8月19日、ハンガリーでは各地で式典が催され、祝辞が述べられました。
私は、ソプロン近郊の式典に招かれスピーチをしましたが、ここには
すぐ近くのオーストリアのブルゲンラントからも何百人という人が詰め掛けて
来ていました。鉄のカーテンが断ち切られた記念に、参会者の手にはなたで
断ち割った鉄条網のかけらがひとつずつ渡され、ワインやビール、
焼きソーセージやスープの匂いが辺りに満ちていました。
この年の8月から11月にかけて、私たちはまさに、めまぐるしく変転する
時代の生き証人でした。つい先日開放されたばかりのオーストリアとの
国境であるこの緑の草地には、少しばかりはしゃいだ、うきうきした気分と、
肉入り煮込みスープの匂いが渾然と交じり合っていたのです。
これは、あとで東ベルリンでブランデンブルク門が平和のうちに開かれる
先触れともいえるものでした。開かれた門の先にあったのはパラダイスではなく
現実です。私たちは、現実との付き合い方を学び、現実と共に成長して
いかなければならないのです。

  厳しかった東欧圏の国境

  ドイツ統一直後の旧東独事情

  私の見てきたベルリンの壁(壁のあった頃)

  ドイツ統一記念切手

  東西ドイツの国境がなくなったころ(そのとき私は)