ここでは、キリスト教とイスラム教のことを勉強します。
この2つの宗教の特徴を知ると、日本人とか日本人の宗教観を自覚することが
できると思います。この記事の参考文献「キリスト教とイスラム教」(新潮選書)
の著者ひろさちや氏もそういうことをあとがきで書いています。
宗教を宣伝したり、逆に誹謗するものではありません。
「施し」 両宗教とも、貧しい人や生活に困っている人々への「施し」を、基本的には宗教的な 義務と考えている。 なかでも、その「義務」をより明確にしているのは、イスラム教のほうである。 イスラム教の考え方では、自分の財産というものは、すべてアッラーの神の恩寵 (おんちょう)によって得られたものとされている。 したがってそれを、生活に困っている人に施すのが、神の恩寵に応えた「善行」に なる。 しかし、施しにはそのような「善行」としての施しだけではなく、「義務」化 された施しがある。イスラム教ではそれを「喜捨(きしゃ)」と呼んでいる。 「喜捨」を表わすことばが2つある。 1つは、「ザカート」で、これはイスラム教の信仰を支える5行(柱)―― 信仰告白・礼拝・喜捨・断食・巡礼―― の1つとされている。 これは強制的に義務化された喜捨で、後世になるとザカートは国家によって徴収される ようになった。一種の税金(財産税、救貧税)である。 もう1つは「サダカ」で、こちらは自発的な義務の喜捨である。 自発的な義務―― といった表現はいささかおかしいが、「善行」としての施しは 自分のためにする施しであって、サダカのほうは貧しい人々のためにする施し だと考えればよいだろう。 わたしのパキスタン(パキスタンはイスラム教の国)での体験では、こんなことが あった。わたしは胸ポケットに2本のボールペンをさしていたのだが、見知らぬ男が やって来て、1本を寄こせと言う。 「なぜか?」と問い返すと、 「おまえは2本も持っている。1本は俺が使ってやる」 と答える。 わたしが「ノー」を言うと、相手は、 「おまえには宗教心がない」 と言って去って行った。 イスラム教の世界では、 ―― 持っている者は、持っていない者に施す義務がある。 ―― 持っていない者は、持っている者から施しを受ける権利 がある。 と考えられている。 この考えにもとづいて、パキスタン人はわたしにサダカを要求したのだが、 わたしはサダカを拒み、義務を果たさなかったことになる。 相手から要求される前に施しをするのが、「善行」の施しとなる。 イスラム教のこの考え方からすれば、キリスト教では「善行」としての施しだけが 言われていて、「義務」化された施しはないことになる。『新約聖書』は、施しを 「富を天に積む」ことだと言っている。 「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、 尽きることのない富を天に積みなさい」(「ルカによる福音書」12) キリスト教が「義務」化された施しを説かないのは、表面的な行為よりも、 内面的な心のほうを重視したからであろう。と同時に、イスラム教はどちらかといえば 共同体(イスラム教では、「ウンマ」と呼ぶ)の宗教であるが、キリスト教は 個人の宗教である。 そのため、イスラム教においては「ウンマ」における相互扶助を重く見て、 それを「義務」とするのに対して、キリスト教のほうでは個人の自発性に重点を置く。 そこのところが、両宗教の根本的な差であろう。
エルサレム パレスチナの中心都市であるエルサレムは、本来はユダヤ教の聖地であった。 ユダヤ人はここに、ヤーウェ神礼拝のための神殿(エルサレム神殿)を3度建てた。 紀元前10世紀と前6世紀、前1世紀であるが、3度とも破壊された。 前1世紀の最後の神殿は、後70年にローマ軍の攻撃によって崩壊した。 キリスト教の開祖であるイエス・キリストが処刑され、そして復活したのも このエルサレムである。したがって、キリスト教徒にとっても、エルサレムは重要な 聖地なのである。 さらに、イスラム教もここを聖地としている。その理由については、あとで述べる。 そんなわけで、エルサレムは、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の3宗教共通の 聖地である。となると、この聖地をどの宗教が支配下に置くかは、大問題となる。 11世紀から13世紀にかけては、イスラム教徒の支配下にあったエルサレムを 奪還するために、キリスト教徒が十字軍戦争を起こした。しかし、1260年、 エルサレムはモンゴル軍の侵入により完全に破壊されてしまった。 1517年以降、エルサレムはオスマン帝国の統治下に置かれ、それが1918年の 第一次世界大戦の終了まで続いた。第一次世界大戦の終了後は、エルサレムは イギリスの委任統治下に置かれていたが、1948年にイギリスが撤退すると、 ユダヤ人がテル・アビブでイスラエル共和国の独立宣言を行い、 これを認めない局辺のアラブ諸国と戦闘になった。 しかし、翌1949年に停戦となり、イスラエル共和国が事実上成立する。 そして、エルサレムは分割され、東エルサレムはヨルダン領、西エルサレムは イスラエル領になった。 けれども、アラブとイスラエルとの対立はその後もつづき、その結果、1967年6月 の第3次中東戦争で、イスラエルは東エルサレムを含めてヨルダン川以西を 占領下に置いた。現在は、エルサレムの地は全部、イスラエルの統治下にある。 イスラム教には、3つの聖地がある。 まず第1は、イスラム教の開祖のマホメットの生誕の地であるメッカで、 なんといってもここがイスラム教最高の聖地である。 メッカ(アラビア語でマッカ)は現在、サウジ・アラビア王国のメッカ州の州都 になっている。 メッカにはカーバ神殿があり、このカーバ神殿への巡礼がイスラム教徒終生の 願望である。イスラム教徒が1日5回行なう礼拝は、メッカの方向に向かってなされる。 第2の聖地はメディナ(アラビア語ではマディーナ)である。ここも現在は、 サウジ・アラビア王国のメディナ州の州都である。 マホメットは生れ故郷のメッカでイスラム教を説きはじめたが、メッカの市民たちは イスラム教を受け容れようとせず、マホメットを迫害する。そこで622年、 マホメットはメッカからメディナ(当時はヤスリブと呼ばた)に聖遷(ヒジュラ) した。それ以後、ここがイスラム教にとっての重要な拠点となった。 メディナにはマホメットの墓廟があり、まだ生前にマホメットが住居兼モスクと していた位置に、「預言者のモスク」と呼ばれる、イスラム教最初のモスクが 建っている。 そして、第三の聖地がエルサレムである。エルサレムのことを、アラビア語では ”クドス”と呼ぶ。 エルサレムがイスラム教の聖地とされたのは、マホメットが自分の宗教(イスラム教) をユダヤ教の伝統をうけついだものと考えていたからである。 のちにはマホメットはユダヤ教徒と対立したが、初期のころはユダヤ教に親近感を もっていた。礼拝の方向(キブラ)も、624年以降はメッカの方角とされたが、 それ以前はエルサレムに向かってなされていた。 現実にはマホメットは一度もエルサレムを訪れたことはないが、イスラム教の伝承に よると、彼は天使ガブリエルに連れられて、翼のある天馬(プラーク)に乗り、 エルサレムに夜の旅をしたとされている。 そんなわけで、マホメットの在世のころから、エルサレムはイスラム教の聖地と されていた。 マホメットの死後、すぐにエルサレムはイスラム教徒が征服し、7世紀の終りには、 かつてエルサレム神殿のあった跡に、金箔の屋根をもつ壮麗な「岩のドーム」が 建立され、これがイスラム教の聖地のシンボルとなった。 また、「岩のドーム」に隣接して、アクサー・モスクが建てられている。 このモスクは「岩のドーム」と同時期に建立されたが、現在のものは14世紀に 再建されたものである。
結婚制度 キリスト教は一夫一婦婚を原則としている。しかし、一夫一婦婚にはちょっとした 問題がある。それは、夫婦間に子どもができないときの問題である。 結婚の大きな目的の1つは、子どもを持ち子孫を残したいという本能的欲求を 満たすためである。 この願いがかなえられないときは、どうすればよいのだろうか……? 一夫多妻制は、この目的を達成するためには非常に有効な制度だったのである。 道徳的見地にだけ立って、一夫多妻制を非難の目で見る態度は ―― そのような態度を、 われわれ日本人はキリスト教の強いインパクト(衝撃)によって身につけてしまった ようであるが ――、わたし(ひろさちや)は狭量だと思う。 自分とはちがった文化や習俗を、自分が持っている尺度だけで批判してはいけない と思う。他の文化や習俗を、あたたかく理解する必要がある。 事実、古代のユダヤ人社会は、必ずしも一夫一婦制ではなかった。 しかし、イエス・キリストが出現したころのユダヤ社会は、だいたいにおいて 一夫一婦制に近づいていた。 そのようななかで、キリストは、一夫一婦制こそが結婚の理想の形態だとしたのである。 そして、結婚は神が結びつけられたものであるとして、その絶対的性格と不解消性とを 強調した。 イスラム教の「4人妻」は、『コーラン』の次の規定が根拠になっている。 「もしおまえたちが孤児を公正にあつかいかねることを心配するなら、 気に入った女を2人なり3人なり、あるいは4人なり娶れ。 もし妻を公平にあつかいかねることを心配するなら、1人だけを、 あるいは自分の右手が所有するもの(=女奴隷)を娶っておけ」(4章3節) なぜこのような規定があるのか、いろいろと議論のあるところであるが、 この規定はおおよそ孤児の救済が目的であつたとされている。 というのは、625年、メディナの北にあるウフド山において、マホメットは メッカ軍と2度目の本格的な戦いをした。この戦争はイスラム側の敗北に終わり、 大量の未亡人と孤児が生まれた。そこでその孤児の生活を保護するために、 『コーラン』は未亡人との結婚をすすめたというのである。 4人妻の発想は決して男性本位の制度ではなかったわけなのである。 それに、『コーラン』は、複数の妻を「公平に扱う」ことを条件づけている。 妻に財物をプレゼントするときも、性生活だって公平でなければならないのである。 男にとって、なかなかむずかしいことである。 そのためもあってか、現実には、イスラム教徒でも4人妻を持っている人は少ない ようだ。たいていは1人、せいぜいが2人である。 なお、「4人」についても、必ずしも上限の数ではないという説もある。 公平に扱えるのであれば、何人の妻でもかまわないというのである。 マホメット自身は、少なくとも14人の正妻を持っていたから、あるいはそうかも しれない。
女性観 イスラム教の聖典『コーラン』は、こう書いてある。 「また、女子の信者にはこう言え、『目を伏せて隠し所を守り、露出している部分の ほかは、わが身の飾りとなるところをあらわしてはならない。顔おおいを胸もとまで 垂らせ。自分の夫、親、夫の親、自分の子、夫の子、自分のきょうだい、兄弟の子、 姉妹の子、身内の女、あるいは自分の右手が所有するもの〔=奴隷〕、あるいは欲望を もたない男の従者〔=去勢者〕、あるいは女の隠し所について知識のない幼児、 以上の者を除いて、わが身の飾りとなるところをあらわしてはならない』」(24章31節) これだけでは、「露出している部分」がどこか、正確にわかりかねるが、 イスラム社会においては、女性の身体は手首から先と顔以外はアウラ(恥部)と されている。 そして、アウラを自分の夫や親以外の成人男性に見せてはならないのである。 「恥部」についての解釈はちがうが、「恥部」を他人の男に見せてはならないというのは、 どこの国でも同じであって、イスラム社会だけが例外ではない。 したがって、アウラ(恥部)を他人の男性に見せてはならない――という規定の故を もって、女性蔑視と言うのはおかしいと思う。 むしろそれより、女性の肌を大いに露出させて、それを男性が楽しもうとする キリスト教的文明(?)のほうが、イスラム教徒に言わせれば、ひどい女性差別 だとなるだろう。 それから、イスラム女性は戸外では、眼だけを残してヴェールをつけ、他人には顔を 見せない。家の中でも、身内以外の男性が入ってくると、あわててヴェールを下ろして 顔を隠す。 『コーラン』では顔はアウラとされていないから、本来はヴェールをつける必要は ない。この風習は、イスラム教以前のものだといわれる。となれば、このヴェールで 顔を隠す風習を指して、イスラム教の女性差別として攻撃するのはお門違いということ になる。 それより、イスラム教には4人妻の制度がある。また、イスラム法では、女性の 遺産相続額は男性の2分の1、女性の証人としての効力は男性の半分とされている。 こちらのほうが、大きな問題であろう。 4人妻については、すでに書いたが、遺産相続問題について、いささかイスラム教を弁護 すれば、イスラム社会では夫婦の生活費は、全額夫の負担となる。男性のほうが金を 多く必要とするので、このような遺産分配率になっているとも思われる。 証人の効力についても、イスラム法では通常、証人は男性2人が必要とされている。 女性が証人になる場合は、女性だけなら4人、男性1人が加わると女性は2人が必要 となる。 なぜこのような制度が出来たのであろうか。おそらく砂漠における犯罪が、 なかなか女性の正視に耐えぬものが少なくないからではないだろうか。むごたらしい 犯罪の裁判に、なるべく女性を証人に喚問しないようにしようという、そんな配慮も はたらいているように思われる。 伝えられるところによると、マホメットはフェミニスト(女性擁護論者)であった ようである。イスラム教の女性観は、基本的には男女平等だと思われる。 もちろん、その男女平等は、どこかの国の女権論者とは違って、男性と女性の役割分担 を認めた上でのものであることはいうまでもないが。 女性は、母親として尊敬されるというのが、イスラム教の女性観をいちばんよく 表わしているだろう。 キリスト教の女性観も、基本的には男女平等であって、女性を蔑視することはない。 しかし、カトリックとプロテスタントでは、その女性観にいささか差がある。 プロテスタントでは、男と女はそれぞれ独立して完全な人間であり、平等だと 考えている。 ところが、カトリックのほうでは、男と女はともに不完全な人間としている。 男も半人前であり、女も半人前。そのような男と女が結びついて、はじめて2人は 完全な人間になると考えられている。 カトリックのほうは、イスラム教と同じく役割分担の考え方をしている。 女性の主たる仕事は出産であり、子どもを産むことによって女性は母となる。 女性は「母」として尊敬されるというのが、伝統的なカトリックの女性観である。 一方、プロテスタントの考え方は、役割分担ではなく、女性の独立を前提にした 男女平等である。つまり、女性は「母」である前に、「女」として尊敬されるのである。 キリスト教といっても、カトリックとプロテスタントでは、「母」と「女」の差が あるわけである。
安息日 ユダヤ教には、「安息日」というのがある。ヘブライ語で”シャバット”という。 この安息日の起源は、『旧約聖書』の「創世記」にある天地創造物語にもとづくと されている。すなわち、神は6日にわたって創造の仕事(労働)をされ、 7日目に休息された。だからわれわれも、この日には仕事を休み、神の礼拝に 参加するのである。 有名な「モーゼの十誠」には、 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。6日の間働いて、何で あれあなたの仕事をし、7日目は、あなたの神、主の安息日で あるから、いかなる仕事もしてはならない。(中略)6日の間に 主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、7日目に休 まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(「出エジプト記」20) と、安息日の遵守が義務づけられている。 ただ、ここでちょっと注意してほしいのは、ユダヤ教でいう安息日は、 日本人の感覚での「休日」ではない。 日本人の考える休日は、仕事をしなくてよい日であるが、ユダヤ教徒のいう安息日は 仕事をしてはいけない日なのである。それは「聖別」された日であって、 神に献げられた日である。 したがって、この日は俗事をしてはならないのである。 厳格に安息日を守っているユダヤ教徒の家庭では、安息日はいっさい労働をしない。 食事の調理もしないし(前日につくっておく)、電灯の点灯・消灯もしない。 点灯・消灯は、かつては異教徒のアルバイトを雇ってしてもらっていたようであるが、 現在では自動的に点灯・消灯するようオートメ化されている。 また、トイレットペーパーをちぎるのも労働になるとされている。 したがって、安息日には前もって、便所のロール紙をちぎって積上げておくそうである。 なお、ユダヤ教の安息日は、金曜日の日没に始まり土曜日の日没で終わる。 したがって、ユダヤ教の安息日は土曜日ということになる。 問題は、キリスト教の「休日」である。キリスト教においても、基本的にはそれは 「休日」ではなく「安息日」である。つまり、この日は神を礼拝する日なのである。 けれども、キリスト教国もだいぶ世俗化されているので、これを「休日」と意識する 人も多くなったようである。 キリスト教の安息日は、日曜日である。イエスの復活を記念して、復活第一日目の 「主の日」を安息日にしたのである。しかし、伝統を重んじるプロテスタント諸派の うちには、ユダヤ教と同じく土曜日を安息日にしているところもある。 イスラム教には、厳格な意味での安息日はない。しかし、イスラム教徒は、普段の日は 家庭や職場においてめいめいが礼拝するが、金曜日の正午過ぎの礼拝には、 地域の住民が大モスクに集合して一斉に礼拝するのがよいとされている。 これは絶対的な義務ではないが、義務に準ずる行為である。 したがって、イスラム教徒の多い国々では、この一斉礼拝に参加するために、 金曜日が「宗教的休日」とされている。
両宗教の祭日 クリスマスは、キリスト教の教会において行なわれている重要な宗教行事である。 ほかにも、信仰にもとづくいくつかの行事がある。そのうちの重要なものを解説する。 l クリスマス(キリスト降誕祭)……”クリスマス”は「キリストのミサ」の意味で、 イエス・キリストの降誕を祝う日である。現在は12月25日をキリスト降誕日と している。なお、欧米でクリスマス休暇というのは、12月24日のクリスマス・イブ から1月6日までである。 2 レント(大斎節(たいさいせつ)、四旬節、受難節)……レントは、復活祭前日まで の6週間半をいう。 復活祭は、毎年、日が変わる。復活祭は日曜日なので、その前日の土曜日までの 6週間半といえば、水曜日にはじまって46日間になる。ここから6回の日曜日を 除くと40日間になり、この40日間がレントと呼ばれる宗教行事の期間である。 これが、レントを「四旬節」と訳される理由である。 レントは水曜日にはじまるが、この初日を「灰の水曜日」と呼ぶ。 「40」という数は、イエス・キリストが荒野で断食をした日数である。 キリスト教徒はとくにイエスの断食にちなんで、レントの期間中、断食をする。 昔はわりと厳しい断食をしたが、現在ではほとんど簡略化され、イギリスなどでは 肉食を避ける程度になっている。 3 受難週……レントの最後の1週間を「受難週」という。まず、日曜日は 「棕梠(しゅろ)の主日」と呼ばれ、この日にキリストはエルサレムに入った。 木曜日は「洗足木曜日」といい、最後の晩餐のとき、キリストが弟子たちの足を 洗った日である。そして、金曜日は「受難日」で、キリストが十字架にかけられた。 全人類の罪の「あがない」のために十字架にかけられたイエス・キリストをしのんで、 敬虔な気持ちで過ごす1週間である。 4 イースター(復活祭)……春分の後の最初の満月の次の日曜日が「復活祭」で、 十字架の上で死んだイエス・キリストが復活したことを記念する日である。 美しく色づけをした卵を、互いに贈物として交換するが、この卵「イースター・エッグ」 は、レントの期間は卵を食べることが禁じられていたので、こんな風習が出来た のだと言われている。 5 ペンテコステ(聖霊降臨祭、五旬節)……イースターから50日目の日曜日が、 聖霊降臨祭である。この日、イエス・キリストの弟子たちに聖霊が降臨し、それまで 人目を避けていた彼らが、キリスト復活の証人として立ち上がり、伝道を開始した。 ペンテコステは、キリスト教会の誕生日というべき日であろう。 イスラム教には、”イード”と呼ばれる二大祭がある。マホメットの在世のころ、メッカ の人々がお祭り騒ぎに浮かれることが多かったので、マホメットはイスラム教徒に、 年に2回の「祭事」だけを許したという。それがイードである。 I 断食明けの祭(小祭礼)……イスラム暦第9月(ラマダーン月)の30日の断食 が終わった翌日、第10月(シャッワール月)1日に行なわれる祭礼。 人々は町のモスクに集合して礼拝し、親戚知友が互いに訪問しあい、贈物の交換を する。家でご馳走を食べる。 2 犠牲祭(大祭礼)……イスラム暦第12月(巡礼月、ズー・アルヒッジャ月)の 7日から10日にかけて、4日間続く祭礼。各家庭で羊1頭(あるいは7軒で らくだ1頭)を犠牲にして屠り、3分の1を自分たちの家で食べ、残りの3分の2を 贈物や施しにする。断食明けの祭りと同様、礼拝をし、互いに訪問しあったり、 贈物の交換をする。 この二大祭はマホメットが定めたものであるが、ほかにマホメットの生涯にちなむ 祭りがある。 a ヒジュラ暦の元日(イスラム暦第1月1日)……マホメットがメッカからメディナ ヘ聖遷(移住)したのを祝う。 b マホメットの生誕祭(イスラム暦第3月12日) c 力の夜(イスラム暦第9月の下旬)……この夜に、マホメットに『コーラン』が 下されたのを祝福する。第9月の下旬のどの夜が「力の夜」か特定できないが、 27日にしている国もある。 d 夜の旅と預言者昇天の記念の夜(イスラム暦第7月27日の前夜)……マホメット はこの夜、天使ガブリエルに連れられて、翼のある天馬(ブラーク)に乗り、 エルサレムに旅し、そして昇天して神の御座にひれ伏した。その奇蹟を記念して、 『コーラン』を読み、礼拝をして「聖夜」を祝う。 なお、イスラム暦第1月10日に行なわれる「フサイン殉教哀悼祭」は、 シーア派最大の行事である。
キリスト教とイスラム教の暦 われわれが使っている、いわゆる「西暦」と呼ばれる暦は、キリスト教の暦である。 西暦は、キリスト生誕の年を紀元元年とする西洋紀年法で、525年にローマの ディオニシウス・エクシグウスが定めたといわれている。 紀元後を表示する”AD”は、ラテン語の。"anno Domini" に由来し、 「わが主の年」といった意味である。 紀元前の略号”BC”は、英語の "before Christ"(キリスト以前)に由来する。 もっとも、キリスト生誕の年を紀元元年としておきながら、そのキリストの実際の 誕生の年は、ちょっとちがったらしい。正確な年は不明だが、学者たちはキリストの 誕生は紀元前7年から紀元前4年のあいだと推定している。 わたしたちは、この西暦を世界の標準的な暦だと思っているが、じつはこれは キリスト教徒の私的な暦なのである。ただ、西欧キリスト教文明が優勢なものだから、 それが大手を振って世界に通用しているまでである。そのことを忘れてはいけない。 イスラム教徒は、独自の暦を持っている。彼らは、キリスト教徒のいう(つまり西暦) 622年7月16日を紀元元年1月1日とする暦をつくっている。 この622年は、預言者=マホメットがメッカからメディナヘヒジュラ(聖遷)をした 年である。当時のアラビア暦では、その年の1月1日が、ちょうど西暦の7月16日 だったのである。 イスラム暦(別名「ヒジュラ暦」)の特色は、純粋な太陰暦であることだ。 太陽の運行にはおかまいなく、月の運行だけで暦をつくるから、1年は354日しか ない(ただし、閏年が30年に11回設けられていて、閏年は355日になる)。 したがって、太陽暦と比較するとイスラム暦は、毎年約11日ずつずれて行く。 その結果、イスラム暦のたとえば9月(ラマダーン月)は、太陽暦の1月になったり、 2月になったり、6月になったり、10月になったり、一定しない。 太陽暦によっているわれわれからすれば、まことに変な暦ということになる。 イスラム教徒は、これまでずっとこのイスラム暦を使ってきたが、キリスト教文明が 支配的になった今日では、西暦を完全に無視するわけには行かない。 現在では、イスラム教国の新聞などには、イスラム暦と並べて西暦の表示がある。 また、イラン人は、イスラム暦のほかに春分を1月1日とするジャラーリー暦 (太陽暦)をもっているから、イランの新聞などはイスラム暦、ジャラーリー暦、 西暦の3つを表示している。 ちなみに、西暦1988年8月14日がイスラム暦(ヒジュラ暦)1409年1月1日 になり、西暦1989年8月4日がイスラム暦1410年1月1日になる。 なお、ユダヤ教にも独自のユダヤ暦がある。ユダヤ教では、天地の創造を紀元前 3761年10月7日とし、この日を紀元元年1月1日としている。 ユダヤ教は太陰暦で、新年は9月か10月になる。
食物についてのタブー イスラム教徒は豚肉を食べない。食べてはいけないものは、豚肉だけではない。 『コーラン』は、次のような肉を食べることを禁じている。 「死体、血、豚肉、神以外の名によって犠牲にされたもの、絞め殺されたもの、 打ち殺されたもの、墜死したもの、突き殺されたもの、野獣に食い殺されたもの、 ただし、おまえたちが屠(ほふ)ったものは別であるが、 そして偶像の前で屠られたもの、これらはおまえたちに禁じられている。 また、おまえたちが賭矢(かけや)で分配することも禁じられている」(5章3節) つまり、豚肉は特別だが、豚肉以外でも正しい屠殺法によって殺された動物の肉以外は 食べられないのである。 正しい屠殺法とは、 「ビスミルラヒール、ラフマーニ、ラヒームー(慈悲深く慈悲あまねきアッラーの 御名においてと唱えつつ、鋭利な刃物で頸動脈と喉笛を一気に切開するのである。 これが、動物に最も苦痛を与えない屠殺法だとされている。 このように、正しい屠殺法が制定されているのは、中東の厳しい自然条件の下では、 食肉の入手方法に細心の注意を払わねばならなかったからであろう。 野獣が喰い残した肉を食べて伝染病にでもなれば、それは本人の落ち度ですまず、 共同体の構成員に迷惑を及ぼす。 伝染病でなくても、数人の人間が死ねば、共同体の戦闘力が弱まり、共同体が 他の共同体に滅ぼされることもある。 そのようなことを考えて、『コーラン』は食肉の掟を厳格にしたのであろう。 豚肉に関しては、『コーラン』は別の箇所(6章145節)でも、 「これは穢(けが)れである」として強く禁じている。だから、たとえば エジプトからドイツに行くために乗るルフトハンザの機内食にも、エジプト人の 乗客が多いから、豚肉が使われていない。中国でも多数のイスラム教徒がいるが、 イスラム教徒向けの料理屋は、「清真館」と明記し、一般の店と区別している。 キリスト教には、食物に関するタブーはない。 キリスト教の母体となったユダヤ教では、食物に関する煩瑣(はんさ)な掟があった。 その規定の細かさは、とても先程引用した『コーラン』の比ではない。 『コーラン』は、食べてはいけない獣の名前としてはただ豚を挙げているだけだが、 ユダヤ教では豚はもちろん、らくだ、岩たぬき、野うさぎも食べてはいけないと されている。鳥の肉にしても、はげわし、ふくろう、ペリカン、こうもり……等々、 細々と名前を列記して、食べることを禁じている。 しかし、キリスト教は、これらの禁止規定を全部取っ払い、まったく自由に してしまったのである。 たとえば、『コーラン』は「偶像の前で屠られたもの」を食べることを禁じているが、 キリスト教では「偶像に供えられた肉」ですら食べてもよいとしている (「コリントの信徒への手紙・1」8)。
飲酒と喫煙について イスラム教では、飲酒は悪とされ、全面的に禁じられている。 「信ずる人々よ、酒、賭矢、偶像、矢占いは、どれもいとうべきものであり、 サタンのわざである。それゆえ、これを避けよ。 そうすれば、おまえたちはおそらく栄えるであろう。 サタンは、酒や賭矢などで、おまえたちのあいだに敵意と憎しみを投じ、 おまえたちが神を念じ礼拝を守るのをさまたげようとしているのである。 それゆえ、おまえたちはやめられるか」 『コーラン』(5章90〜91節)はこう述べている。 イスラム教では原則として飲酒を禁じ、酒類の製造・販売も禁止している。 これを犯すと、鞭打ちの刑に処せられる。この禁酒を外国の旅行者にまで強制している 国も少なくない。 しかし、それはあくまでもタテマエであって、現実は必ずしもそうではない。 たとえば、サウジ・アラビアでは禁酒は厳格に守られ、犯した者は鞭打ちに 処せられる。 これがイラクとなると、店頭に公然と輸入ウィスキーが並んでいる。 11世紀のペルシアの詩人オマール・ハイヤームの詩を読むと、 ペルシアがイスラム教化されたのちも巷には酒場が多数あったことがわかる。 トルコ人の酒好きは有名である。 酒を大目に見る側の言い分は、「神を念じ礼拝を守る」のを忘れるほどの大酒を 飲まなければいいのだ、ということである。 いささか勝手な理窟だという印象を与える。 キリスト教では、別段、飲酒を禁じていない。キリスト教の教会においては、 ぶどう酒を象徴的にキリストの血と考え、好んで飲む。 しかし、そこはやはり程度問題であって、『新約聖書』には次のような戒めがある。 「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。 日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酪酎、淫乱と好色、 争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」 (「ローマの信徒への手紙」13) じつは、この個所は、初期キリスト教最大の教父であったアウグスティヌスが若き日、 これを読んで回心を経験したところである。聖者といわれたアウグスティヌスも、 若いころは乱れた生活をしていた「問題児」であった。 ところがあるとき、不思議な導きにより『新約聖書』を開いて、このことばを読む。 彼は感動し、そして回心をしたのであった。やはり飲酒という行為は、キリスト教徒の 生活にふさわしいものとはいえないのであろう。 そんなところから、19世紀になると、アメリカではプロテスタント教会の主導の もとに宗教的色彩の強い禁酒運動団体がつくられる。それがやがて、1919年の アメリカの「禁酒法」になるのである。 しかし、この法律は悪法だった。なぜなら、この法律が出来てから、かえって 酒の消費が増え、密造・密売が横行し、法の尊厳が傷つけられたからである。 イスラム教の場合もそうだが、あまりに禁欲的になるのは考えものだと思われる。 コロンブスによつて新大陸から持ち込まれたタバコが、ヨーロッパの各地に 広まったのは16世紀のことになる。 キリスト教の『新約聖書』やイスラム教の『コーラン』が、喫煙については ノー・コメントなのも致し方がない。 現在でも、喫煙の是非については、議論が分かれるところである。 イスラム教のだいたいの考え方は、喫煙は健康の上から好ましくないし、 財産の浪費にもなるからよくないというものである。 それ故、イスラム社会では、女性の喫煙者はほとんどない。男性に関しては、 必要悪と見られているのだろう。 キリスト教のほうも、公式には見解はないが、近年においては喫煙を礼讃する人は 少ないと思われる。
利子について アラビア語で「利子」は”リバー”という。”リバー”は本来、「増殖」の意味だが、 転じて「(資本主の)不当増殖」「高利」「利子」の意味になった。 イスラム教では、 利子……すなわち、貸付金から生じる剰余利得。 利潤……すなわち、投下資本から得られる利益。 を厳密に区別する。 その上で、利潤は容認するが、利子(リバー)は禁止するのである。 どうやらマホメットは、ユダヤ教徒の高利貸し行為を非難して、 利子の禁止に踏み切ったらしい。 だが、利子が禁止されると、商業活動は困難になる。そこで、後世のイスラム法学者の あいだで、利子の禁止の解釈をめぐって議論が沸騰する。 1つの意見は、『コーラン』が禁止している利子は、負債者の生活を破滅させる ような高利の利子であって、低利の利子ならかまわないというものである。 それに対して、いつさいの利子(利息)が禁止されているとする意見もあり、 これによると、金銭や品物を貸した者は、貸したものと同額の金銭や品物しか 受け取れないことになる。 そして、どうやら後者の解釈が一般的となったようである。 つまり、高利であろうと低利であろうとを問わず、イスラム法ではいっさいの 利子が認められない。 しかしながら、たといいっさいの利子が禁じられても、実際にはうまい方法がある。 1つの方法は、偽装売買によるものである。たとえば、AがBに百万円を貸して、 1年後に25パーセントの利息を得たいのであれば、形式的にAがBにある品物 (たとえば金塊500グラム)を125万円で売る。 そして、1年後に125万円を支払う約束をする。 そのあとただちに、こんどはBがAに金塊500グラムを100万円で売りつけ、 AはBに100万円を支払う。 こうすれば、結果的に、25万円の利子がちゃんと支払われたことになる。 もう1つの方法は、100万円を借りたとき、BはAに自分の所有物を預ける。 たとえば畑とする。 Aはその畑から25万円の収穫を得る。 それがAにとって、事実上の利子になるわけである。 こんなやり方で、イスラム教徒は『コーラン』の利子の禁止をみごとに克服してしまった。 しかし、いくらうまい方法を考案しても、結果的にはイスラム教徒は商業の面で 大きく立ち遅れてしまった。そして、ユダヤ教徒に、金融業の独占をさせることに なってしまった。 なお、最近、「無利子」のイスラム銀行設立の動きがあるそうである。 キリスト教においても、基本的には利子は禁止されている。 なぜなら、『旧約聖書』が利子を禁じているからである。 「もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、 彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取つてはならない」 (「出エジプト記」22) 「同胞には利子を付けて貸してはならない。銀の利子も、食物の利子も、その他 利子が付くいかなるものの利子も付けてはならない。外国人には利子を付けて 貸してもよいが、同胞には利子を付けて貸してはならない」(「申命記」23) しかし、ここでは、外国人(異教徒)には利子をとってもよいとされている。 ユダヤ教徒は、したがって、キリスト教徒には公然と利子を要求した。 キリスト教の場合は、この『旧約聖書』の規定のほかに、古代ギリシアの哲学者の アリストテレスが関係してくる。というのは、アリストテレスは、 「貨幣が貨幣を生むことは自然に反している」(『政治学』) と言ったからである。 かくて13世紀のヨーロッパの「教会法」では、利子は全面的に禁じられていた。 もっとも、「教会法」は利子を禁じても、現実には利子は必要である。 そこで、イスラム教と同じように、偽装売買によったり、土地を担保として取り、 地代(レント)の形で利子を支払うことが行なわれた。 キリスト教において、利子取得が公然と認められたのは、宗教改革以後のことである。 16世紀のフランスの宗教改革者のカルヴァンが利子を公認し、イギリスでは ヘンリー8世が1545年に、年10パーセント以内の利子取得を認める法令を 発布した。 ただし、カトリック教会が利子を容認したのは、19世紀になってのことである。
労働観について いま、日本人はワーカーホリック(仕事中毒)になっていると言われている。 どうも日本人は仕事をするのが大好きで、退職して仕事がなくなると、 とたんに老け込んでしまうようだ。 けれどもこれは、日本人特有の現象であって、ほかの民族はそうではない。 イギリス人などは、退職できる日を指折り数えて待っているようである。 よく日本人は、「お忙しいところをすみませんが……」と言うが、 これは日本では、社会的地位の高い人ほど忙しいのだという社会通念があっての ことである。 しかし、欧米人にはこのことばは通じない。英語の”リッチ”(豊かな)は、 金銭的な豊かさもさることながら、むしろ自由に使える時間をふんだんにもっている 人がリッチな人なのである。 「忙しい」ということはリッチではなく、あなたは忙しく働かねば食えないほど 貧しいのだと言ったことになる。 そもそもキリスト教の労働観は、 「われわれは働きたくない。ところが、われわれは働かねばならない。 なぜ、働かねばならないのだろうか……」 といった問題意識から出発する。 そして、この疑問を説明したのが、『旧約聖書』の「創世記」である。 それによると、最初の人類であるアダムとエバは、神の楽園であるエデンの園に 幸福に生きていた。彼らは神の祝福をうけていて、ちっとも働く必要はなかった。 ところが、彼らは神の命令にそむいて、禁断の木の実を食べた。そこで神は、 彼らに罰を与えられたのである。 その罰は、女に対しては「はらみの苦しみ」であり、男に対しては「額に汗を流して パンを得る苦しみ」である。人間は神にそむいたが故に、神から下された罰として 「労働」をせねばならなくなったのである。 したがって、キリスト教の労働観は、一口に言えば、 ――労働懲罰説 である。 ほんとうは、労働はしたくない。また神は、われわれが労働しないですむように 配慮されていた。しかし、われわれが罪を犯したので、働かねばならなくなったのだ。 キリスト教徒はそういうふうに考えているようである。 もっとも、キリスト教が各地に伝播すると、キリスト教の考え方もだいぶ変わってきた。 また、時代によっても変化がある。 カトリックとプロテスタントでは、だいぶ考え方が違う。総じてプロテスタントの ほうが「勤勉」を美徳とする。勤勉を美徳としたから、プロテスタント諸国が 工業化に成功し、工業化社会においてますます勤勉が美徳とされた――。 そういったことになるだろう。 しかし、キリスト教の根底には、「労働懲罰説」があることは否定できない。 イスラム教の労働観は、中東のイスラム教国のほとんどが、かつて遊牧民族で あったことと無関係ではない。 遊牧民族のあいだには、 「強い者が遊牧し、弱い者が耕す」 といった格言がある。 遊牧民族は農耕を軽蔑していたのである。したがって、もともと遊牧民族の宗教で あったイスラム教には、「勤勉」を美徳とする思想は稀薄であった。 なぜなら、農業にあってこそ、勤勉は美徳となる。農業では、働けば働くほど、 原則として収入がふえるから。 しかし、遊牧民族の場合、いくらあくせく働いても羊やらくだの出産回数がふえは しないし、羊やらくだが2倍も3倍も草を食ってくれるわけでもない。 遊牧民族には、「勤勉」や「努力」が美徳になりようもなかったという面がある。 このような風土に生まれたイスラム教の労働観は、むしろ、 ――労働蔑視 に近いのではないだろうか。 日本人は、 「今日なし得る事を明日まで延ばすな」 という格言が大好きだ(もっとも、これは英語の格言の翻訳らしいが……)。 ところが、イスラム教国のトルコには、 「明日できる仕事を今日やるな……」 という格言があるそうである。 ここらあたりに、イスラム教の労働観がよくあらわれていると思われる。
土葬と火葬 イスラム教徒は、絶対に火葬にしない。 イスラム教では、マホメットの言葉として「遺体の骨を折るのは、その者が生きて いた時に折るのと同じだ」という伝承がある。それゆえ、火葬も、生者を火灸り にするのと同じことになる。 また、火葬は、地獄に堕ちた者に対して、神が下される処罰だと考えられてもいる。 したがって、いがなる理由があろうと、遺体を火葬にすることはない。 かつて、トルコ共和国の初代大統領のケマル・アタテュルクが、土葬は不衛生だから 火葬にすべしと言ったことがあるが、こればかりは国民の猛反対にあって、 引っ込めざるを得なかったといわれる。 近年話題になっている臓器移植なども、イスラム教国では、当分のあいだは無理で あろう。 さて、土葬であるが、イスラム教国がおおむね暑い所にあるためであろうか、 葬儀は全般に急テンポで行なわれる。日本などでは、葬列は静々と進んで行くが、 イスラム教の葬列は、走るほどではないが、かなり速いスピードで進む。 埋葬に際しては、遺体は右脇腹を下にして横に寝かされ、顔をメッカの方向に向ける。 その上に平らな墓石が置かれ、ときに頭部に石碑が立てられることがある。 ただし、墓石を置かず、土を盛るだけにする派もある。 初期のイスラム教では、墓参りは、原則として禁じられていた。しかしのちに、 聖者の墓には呪力が宿っており、聖者の墓に触れると呪力が移って病気が治り、 また災いを免れることができるといった聖廟崇拝がおこった。 キリスト教でも、原則は土葬であって、火葬はずっと避けられてきた。 これは、身体の甦(よみがえ)りの信仰と結びついている。 しかし、教会墓地への埋葬が限界に達した19世紀ごろから、キリスト教各国で 火葬が少しずつ増えてきたようである。 初期のキリスト教会では、葬儀はむしろ復活と希望に満ちたものと考えられていた。 『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」(11)には、 「イエスは言われた。『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、 死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない』」 とある。 キリスト教徒は、「死」をこのように捉えている。 葬儀は、一般には死者が属していた教会で行なわれる。 いま引用した「聖書」のことばは、このときに唱えられる。葬儀のあとすぐに、 棺が火葬場に運ばれる。土葬の場合も、すぐに棺は教会墓地に運ばれ、埋葬される。
イスラム文化 別の学者の本を読んだメモ イスラム文化のユニークな点