シルクロード
西域 セイイキまたはサイイキ
この言葉は中国の『漢書』に出てくる。
漢書は中国の正史の一つで,紀元前202年から紀元25年までの
前漢王朝の歴史が記されている。
班固(はんこ)という後漢の歴史家が書いた。
その巻九十六西域伝に,
「西域は.....東西六千余里,南北千余里にわ
たっていた。東は漢に接しているが玉門関と陽関
とで塞がれ,西は葱嶺(そうれい)で限られていた」
とある。
玉門関と陽関は甘粛省の西端にあり,ここを過
ぎれば西域であった。
唐の詩人,王維はまた,
「君に勧む更に尽くせ一杯の酒
西のかた陽関を出づれば
故人無からん」と別離の杯を交わした。
西の葱嶺とはパミール高原のことで,中国の西端の山々である。
この漢書で規定する範囲はほとんど現在の
中国新疆ウイグル自治区の範囲と重なっている。
胡のつくもの
胡麻、胡瓜、胡弓、胡椒、胡桃
などは西域から伝えられたから、胡の字がついたとされる。
直木賞作家で経済評論家の邱永漢によれば、この胡の字のつくものは
多いという。
胡麻、胡瓜、胡椒、胡桃(くるみ)、胡菜(あぶらな)、胡蒜(ニンニク)、
胡豆(大豆)
この西域を通って往古から西方に通じていた道
が,今日でいうシルクロードである。
今から100年以上前,
19世紀後半にドイツの地理学者リヒトホーフェンが,
この地域を通る東西交易路をその著書の中で
「ザイデンシュトラッセン“Seidenstrassen”一 絹の道」
と書いたのが始まりで,これが英語のSilk Roadになり,
日本語のシルクロードになった。
中国語の「絲綢之路(しちゅうのみち)」(略して「絲路」)
は一番後で使われ始めたようだ。
ユーラシア大陸の地図
中央アジアとは、狭義には、東・西トルキスタンのオアシス定住地帯を指す。
トルキスタンとは遊牧トルコ系民族が多く住むからである。
この遊牧トルコ系民族の地域は、東から中国に、西からロシアに支配され、
現在にいたっている。
東トルキスタンは中国の新疆ウイグル自治区を指す。
西トルキスタンは、現在は、旧ソ連であった中央アジア5カ国すなわちカザフスタン、
キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタンの国となっている。
天山北路
天山南路
天山南路北道(西域北道)
天山南路南道(西域南道)
シルクロードの地図
新疆ウイグル自治区の地形は「三山,両盆を挾む」と形容される。
3本の山脈が2つの盆地を挟んでいる,の意である。
これは新疆の疆の字の右側の旁の形にも例えられる。
つまり,一番上と真ん中と一番下に横線がある。
これが3本の山脈,その間に田の字が二つ,これが二つの盆地である。
一番上,すなわち北側の山脈はアルタイ山脈といい,
モンゴルとの国境を形成している。その下がジュンガル盆地,
その下,いわばこの地域の真ん中に天山山脈が東西に伸びている。
その下が広大なタリム盆地,その大部分はタクラマカン砂漠で,
その東はゴビ砂漠が続いている。そして南の崑崙(こんろん)山脈が
チベットとの問に横たわっている。
東西の境は,『漢書』のいうように,東は玉門関,
陽関のある北山山脈で区切られ,西は天山山脈につながる
パミール高原(葱嶺)が屹立している。
カシュガルから先の道は,どこを通っても標高4,500 m
のむかし葱嶺(そうれい)と呼ばれたパミール高原を
越えなければならないので,幾つかの道を選んだ。
現在の地名でいうと,キルギス,タジキスタン,アフガニスン,
パキスタンの諸国に通じる道である。
いずれにしても,葱嶺を越えるのは古来きわめて難事であった。
その名は野生の葱(ねぎ)が生えていることによるものである。
中国での最初の西方への旅人,漢代の張騫(ちょうけん),
それに唐代の玄奘(げんじょう)三蔵が,
シルクロードの旅行者として有名である。
このルートを古代に通った人物として,東晋(とうしん)時
代(317〜420)の僧法顕(ほっけん)がいる。 399年,5人の同
学の友とともに長安からインドに旅立った。そのとき彼は
すでに齢64に達していた。敦煌から楼蘭までの砂漠の旅について,
法顕は有名な記述を残している。インドから海路で帰国した。
「沙河(砂漠のこと)中二多クノ悪鬼・熱風アリ。
遇(ア)ヘバ即チ皆(ミナ)死シテ,一トシテ全キ者無シ。
上二飛鳥ナク,下二走獣無シ。遍望極目,度(ワタ)ル処ヲ
求メント欲スレバ,即チ擬スル(推測する)所ヲ知ラズ。
唯死人ノ枯骨ヲ以テ,標識ト為スノミ」
このルートはこのように砂漠が厳しく,後に廃棄された。その後,
元代になってマルコポーロがこの道を西から東に進んでいる。
20世紀になって,探検が盛んになり,ヘディンが楼蘭の女王の
ミイラを発見したことで有名だ。ヘディンがここに到達したのが
1901年の3月,それから8年たった1909年の同じ3月に,
日本の大谷光瑞(こうずい)探検隊の一人,橘瑞超(たちばなずいちょう)が
ここに入り,貴重な古文書や仏教経典を発見している。
瑞超は当時,まだ若干19歳であった。
大谷探検隊
大谷探検隊の隊長は大谷光瑞(のち第22代浄土真宗本願寺派門主)
彼の妻は九条籌子(かずこ)、籌子夫人の妹は大正天皇の貞明皇后
第1次探検隊
1902(明治35)光瑞はヨーロッパからの帰国の途を利用して四人の青年たちと
ロンドン ベルリン モスクワ バクー カシュガル タシュクルガンまで一緒。
光瑞、本多恵隆、井上弘円 スリナガル経由でインドの仏跡調査
ガンダーラ ガンジス川周辺 サールナート(釈迦初説法) ブッダガヤ(釈迦成道)
(本願寺の天親菩薩:世親はガンダーラで生まれた。世親は倶舎論を書いた)
堀賢雄、渡辺哲信 ホータン クチャ トルファン ウルムチ
第2次探検隊
1908(明治41)橘瑞超と野村栄三郎
北京 ゴビ砂漠 ウルムチ トルファン
ロブノール 楼蘭 ホータン カシュガル インド
第3次探検隊
1910(明治43)橘瑞超と吉川小一郎
ウルムチ トルファン 楼蘭 カシュガル チベット 敦煌 トルファン
敦煌 トルファン クチャ カシュガル ホータン イリ ウルムチ
新疆ウイグルの13民族
・ウイグル(維吾爾)族
・漢族
・カザフ(哈薩克)族
・ホイ(回)族
・モンゴル(蒙古)族
・キルギス(柯爾克孜)族
・シボ(錫伯)族
清朝が新疆警備のため東北地方から移住させた。純正満州語を話す。 *コルコズ族
・タジク(塔吉克)族
・ウズベク(烏孜別克)族
・満州族
・タタール(塔塔爾)族
・ダウール(達斡爾)族
・オロス(俄羅斯)族
ロシア人のこと
言語的分類
インド・ヨーロッパ語系
・スラブ語派 オロス(俄羅斯)族
・イラン語派 タジク(塔吉克)族
アルタイ語系
・トルコ語派 ウイグル(維吾爾)族 カザフ(哈薩克)族 キルギス(柯爾克孜)族
ウズベク(烏孜別克)族 タタール(塔塔爾)族
・モンゴル語派 モンゴル(蒙古)族 ダウール(達斡爾)族
・ツングース語派 満州族 シボ(錫伯)族
シナ語系
・中国語派 漢族 ホイ(回)族
中央アジアの民族
ウイグル人
はじめモンゴル高原、のちトルキスタン方面に移住したトルコ系民族のひとつ
現在、中国の新疆ウイグル自治区と旧ソ連邦中央アジアに主に住んでいる。
唐との関係ではその冊封体制内にあったが、安史の乱の鎮圧に派兵したことから
唐より優位になった時もある。
840年、内乱とキルギス族の攻撃によって遊牧ウイグル国家は崩壊して、
多くのウイグル人がモンゴル高原を後にした。
主要部族は、モンゴル高原時代から東部天山一帯に入り、高昌(トルファン)などを
抑え、タリム盆地周辺のオアシス農耕都市を制して、西ウイグル王国を建設した。
ここに、タリム盆地の従来の伝統的アーリヤ系住民とその文化・言語は、
ウイグル化・トルコ化され、トルキスタン(トルコ人の住地)が成立したといわれる。
10世紀以降,彼らは西方から順次イスラム化していった。
カザフ人
元来遊牧民であるが、民族名が史上初めて登場するのは、15世紀中ごろである。
そのころ、ウズベク・ハーンに圧迫され、キプチャク・ハーン国に支配された遊牧民を
ウズベク・カザク、あるいはカザク (放浪者、冒険者)と呼ばれ、
キプチャク草原(カザフスタン)に勢力を拡大していった。
やがて、ジュンガル、それからジュンガルを倒した清に支配され、そして
中央アジアへの進出を狙っていた帝政ロシアに屈服した。
キルギス人
古くはシベリアのイェニセイ(エニセイ)川上流域のミヌシンスク地方にいて、
漢代にすでに堅昆、鬲昆などの名で知られ、唐代には黠戛斯(ハカス)とも表記された。
9世紀半ば、突厥を継いだモンゴル高原の遊牧国家ウイグル族に征服されながらも、
結局これを打倒した。
モンゴル系ジュンガルが乾隆帝ひきいる清に滅ぼされると、
キルギス族は遊牧しながらフェルガナとカシュガリア間の貿易路を抑えた。
フェルガナ方面のキルギス族は、帝政ロシアの支配を経て、現在のキルギスタン共和国にいたる。
キルギスの歴史
6世紀にシベリアのイェニセイ(エニセイ)川上流域にキルギス人の先祖が住む。
8世紀にウイグル帝国の支配を受ける。
13世紀にモンゴル(元)の支配を受ける。
19世紀に帝政ロシアの支配を受ける。
1918年にロシア共和国の一部になる。
1936年にソ連を構成する共和国になる。
1991年にキルギスタン共和国として独立する。
アラム語 アラム文字
キリストやマリアが日常話していたというアラム語
アラム語を話していたアラム人は、紀元前2千年頃に上部メソポタミア地方で
小国家群を形成したと推定される。
母国がアッシリアに滅ぼされた後も、アラム語は勢力を拡大し、前7世紀ころから
アッシリア王国、ついで新バビロニア王国で、前6世紀中葉以後はペルシア帝国の公用語
として用いられ、北はカスピ海沿岸から南はエジプトのナイル上流地点まで、
東はインド(前3世紀のアショーカ王碑文)から西は小アジアのエーゲ海岸に至る各地から
資料が見つかっている。
アラム文字はペルシアに伝わってパフレヴィー文字となり、さらにインドに入って
カロシュティー文字やプラフミー文字(梵字)となったと言われる。
アショカ王が仏教遺跡に建立した石柱や磨崖碑の刻文はたいていがカロシュティー文字
である。
ヒンディ文字をはじめ、現在インドやスリランカで使われている文字、チベット文字、
ビルマ文字、タイ文字などは、すべてプラフミー文字から生まれたとされている。
一方、アラム文字は中央アジアに伝わってソグド文字となり、さらにウイグル文字
となった。このウイグル文字を母体としてモンゴル文字が生まれ、このモンゴル文字
から満州文字が作られた。
アラム文字→ソグド文字→ウイグル文字→モンゴル文字→満州文字
中央アジアで下痢にならない7カ条
・生水は飲むな。
・のどが渇いたら塩水のうがいで我慢しろ。
・果物を食べた後は、たとえ飲料水でも水を飲むな。
・ミネラルウォーター、ジュースなど室温のものはだめ。
・熱い茶かブラック・コーヒーがよい。
・日中長い時間、ことに帽子なしで日に当たってはいけない。
・外から帰ったら、その都度シャワーを浴びること。
熱い茶、ホテルで売っているミネラルウォーターを飲んで大丈夫だった。
疲れたら時々休んだのもよかった。
帽子や日傘は必需品だった。
風神・雷神
シルクロードは東西文化の交流の場
絹は東から西に伝わったが
西から東に伝わったものもあるはず。
鉄 乗馬 アーチ 龍 小麦