建築学会東北支部の原稿です。

6月19日(金)に盛岡市の岩手県立大学で行われます。
原稿締切は3月12日です。
A4判原稿 50字41行
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ドイツと日本のアーチ橋について

  宮本 裕  岩崎正二  出戸秀明 on the Arch Bridges in Germany and in Japan MIYAMOTO Yutaka, IWASAKI Shoji and DETO Hideaki 2.構造−99.その他 橋梁技術史、アーチ橋、パウリ ランガー橋、ローゼ橋、レンズ形桁橋 1.まえがき  アーチ形式の橋梁には多くの種類がある。英米国では単にアーチ橋としてまとめられて いるようであるが、日本においてはアーチ橋の分類は製作者の名前をつけられたりしてこま かく分類されている。ドイツでも製作者の業績をたたえる意味で、なるべく個人名をつけられ ている。  しかし、日本にあるローゼ形式はドイツにはなく、ドイツではランガー橋もローゼ橋も まとめてランガー橋と呼んでいる。  ここでは、アーチ橋全体についてその歴史をまとめたいと思う。 2.世界と日本におけるアーチ橋の歴史  アーチは古くはメソポタミア地方において発生したと言われている。エトルリア人から アーチの技術を学んだローマ人は、多くの石アーチで道路橋や水道橋を造った。やがてアーチ の技術は石の教会建築に広く使われ、ロマネスク様式ゴシック様式などの教会としてヨー ロッパの町に多く残っている。一方、中国においても前漢代(BC150年頃)にすでに地下墳墓に アーチ天井が使われ、隋代(610年頃)には石アーチの安済橋が造られた。日本では、江戸時代 におそらく中国の技術移転により、木製アーチである錦帯橋と石アーチである長崎眼鏡橋が 造られた。当時の大工の技術では甲斐(今の山梨県)の猿橋の技術をもっていたから錦帯橋に 応用したのであろう。ただし、猿橋は「はね木橋」を使った片持ち梁形式の橋であり、木材を 繋いでアーチ部材として使ったところに錦帯橋の独自性があるのである。言い伝えによると 岩国藩主が考えたとのことであるが、この藩主は病気がちで、医学の知識のある中国人僧独立 の世話になっていた。その独立から中国の木造アーチの絵を見せられたのがヒントになった のではないかと言われている。その絵は北京故宮博物館収蔵の北宋の都の虹橋を中心にして 当時の民衆の生活を描いた「清明上河図(せいめいじょうがず)」のような絵ではないかと 推定される。長崎眼鏡橋は興福寺の中国人僧如定(にょじょう)によって造られたとされて いる。当時は中国との貿易が盛んで長崎に来る中国人が多く、それらの中国人のため中国式 寺院が建てられたのであった。まもなく、中国の王朝が明から清に変わって北方民族支配に 不安を感じた中国人たちが多数長崎に亡命してきた。やがて土地の人々に受け入れられ商売 にも成功してくると、それらの中国人たちが中国から技術者を迎え入れて眼鏡橋を架けさせた のではないかとも言われている。  日本に本格的なアーチ橋の架設と構造解析理論が入ってきたのは明治以降のことである。 3.日本におけるアーチ橋の分類  アーチの形状は弓形をしていて、通常は半円や放物線のものが多い。アーチが充腹の桁に なっている場合をソリッドリブアーチといい、トラスから構成されるものをブレーストアーチ と呼んでいる。  日本においては一般にアーチ橋は次のように分類されている。 (1)3ヒンジアーチ橋  通常は2個のヒンジ支承と頂部のアーチクラウンにヒンジをもつアーチで、静定構造と なっている。 (2)2ヒンジアーチ橋  両支点に2個のヒンジ支承をもつアーチなので、1次不静定構造である。 (3)固定アーチ橋  両支点はヒンジではなく固定支点となっているアーチであり、3次不静定構造である。 (4)タイドアーチ橋  アーチの両側を弓の弦のようにタイ(繋材)で結んだアーチである。こうするとアーチの 水平反力はタイによって釣り合うため結果的に支点に水平反力が発生しない。このことは地盤 などが弱く水平反力を受けるに十分でない場合に有利となる。ヨーロッパに行くと、古い石造 りの教会で、支持部分が水平反力を支えきれずにアーチが偏平になって開いて崩壊するおそれ のある場合に、アーチ天井の補強として鉄棒を横に張り渡してタイをかけているものを見かけ ることがある。 (5)ランガー橋  創始者オーストリア人Langerの名にちなんで日本やドイツではこう呼ばれる。桁(補剛 桁)をアーチで 補強した形式の橋である。細いアーチ材と吊材(軸力のみ負担する)と桁を 組み合わせた構造となっている。1次不静定構造である。 (6)ローゼ橋  太いアーチ材(軸力、せん断力、曲げモーメントを負担する)と細い吊材(軸力のみ負担 する)と桁を組み合わせた構造である。日本ではローゼ橋と呼ばれているが、ドイツでは日本 でいうローゼ橋もランガー橋もあわせて、たんにランガー橋と呼んでいる。 (7)フィレンディール橋  ローゼ橋の吊材を太くして軸力、せん断力、曲げモーメントを負担するとした橋で、創始 者フィレンディール(Vierendeel)の名にちなんでこう呼ばれている。これはアーチ材、吊材、 補剛桁を剛結した一種のラーメン構造ということができる。 (8)ニールセン橋  アーチ橋の吊材を細い斜めに張り渡したロープで置き換えた構造の橋で、創始者ニールセン (Nielsen)の名にちなんでこう呼ばれている。 (9)バランストアーチ橋  橋が長くて3径間におよぶ場合、中央径間のアーチ部を側径間に片持ち梁(時にはトラス) として延長して、そこに側径間の桁(時にはトラス)を載せると、中央径間の応力をおさえる 効果がある。これは側径間にヒンジをもつゲルバー橋(カンチレバー橋)において、中央径間 部をアーチに置き換えた形式ともいえる。 (10)スパンドレル・ブレーストアーチ橋  桁とアーチ材の間の部分をスパンドレルというが、ここにトラスを配置した形式の橋で、 これはトラスの一種である。 (11)トラストアーチ橋  アーチ材と桁の間にトラスの斜材を配置した形式の橋である。上路形式の場合、スパンド レル・ブレーストアーチとなる。下路形式の場合は、曲弦ワーレントラスの下弦材の剛性を 高めて桁とみなしたものとなる。 (12)レンズ形桁橋、魚体桁橋、パウリ桁橋  その形がレンズ形や魚の胴体をしている橋で、曲弦トラスやアーチの変形とみることが できる。この形式の橋は誰が創設者かを決めるのはむずかしく、ドイツ人パウリ(1802-1883) のイザール橋(1857)やイギリス人(1806-1859)のロイヤル・アルバート(別名ソールタッシュ) 橋(1859)が有名である。この形式の橋ができるまでの歴史については、著者が調べたことでは 以下のようである。まず1825年にジョージとロバートのスティーブンソン親子が、ストック トン・ダーリントン間の世界最初の鉄道に架けたガウンレス橋が、この形式の橋として記録に 残る最初のものである。このガウンレス橋は錬鉄と鋳鉄とからできていた。フランスの構造 力学者ナヴィエの著書にもこの橋についての記述がある。スティーブンソン親子、ナヴィエ、 ドイツの技術者ラーフェス(1788-1864)らがこの形式の橋梁を提案したのであるが、彼らは 斜材を考えなかった。後にラーフェスは斜材の意義を認め、彼の構造系のアイデアを世に広め るために 講演を行った。その結果、イギリスでラーフェスの講演を聞いたブルネルがロイ ヤル・アルバ ート橋を製作したと推定される。しかし、ラーフェスはこの橋の特許をとら なかった。パウリが1856年に特許をとった。  なお1868年から1872年にかけてローゼ(Lohse)がエルベ川に鉄道橋を架けた。この橋は レンズ形桁橋にさらに補剛桁をつけたものとみることができる。ドイツではローゼの橋とは この橋をさす。 日本では上にも書いたように、曲げを受けるアーチと補剛桁からなるアーチ 橋をローゼ橋と誰か紹介者が名付けたようであるが、ドイツでは日本のローゼ橋もランガー橋 の一種とみなされている。 アーチその1  アーチその2  アーチその3  アーチその4  アーチその5 3.技術史の意義  建築では各時代の建築様式を学ぶことは大切であるから、大学において建築史の講義が 必ず用意されているが、土木では必ずしも技術史の歴史は開講されているわけではない。 しかし、最近の土木学会の流れとしては、過去の遺産の上に現代の土木技術が成り立って いて、過去の歴史の中にあった成功や失敗の事例を研究することで、未来の技術もひらけて くるという立場にたって、土木史研究は盛んになりつつある。  この研究では、アーチ橋の中で特に、日本ではあまり紹介されていないレンズ形桁橋に ついて、 その歴史を整理した。また、日本でのみ使われているローゼ橋の名称について、 その形式を考えたと思われているドイツにおいて、ローゼ橋もランガー橋もまとめてランガー 橋と呼んでいる事実を述べて、新技術移転や文献紹介にまつわる、学問知識や認識のずれを 紹介したものである。  著者にいつも貴重な文献資料を提供してくださるのは、ドイツの歴史と権威のある専門誌 Stahlbauの編集委員であるKurre博士である。ドイツでは技術史の研究が盛んで、建設技術に 関する専門雑誌もいくつか発行されている。 4.あとがき  ドイツにおいては、技術史の研究が盛んである。ヨーロッパはもともと歴史的な資料が 豊富でその関連の研究にも長い伝統がある。日本においてはこれから盛んになると思われる。 著者はドイツの文献が手に入る環境にあるので、これからもこの研究を続けたいと考えている。 貴重な多くの資料を送っていただき、かつ有益な助言をいただいているベルリンのKurrer博士 にこの場を借りて感謝する。 参考文献 1)武部健一編訳(1987.5):中国名橋物語、技報堂出版 2)松村博(1998.8):日本百名橋、鹿島出版会 3)ベルト・ハインリッヒ、宮本・小林共訳(1991.6):橋の文化史、鹿島出版会 4)宮本裕他(1997.5):橋梁工学、技報堂出版