これは
平成6年に北東北産業技術遺産学会から依頼されて書いた原稿です。
八戸の地元の新聞に掲載されました。
1年半に渡る連載記事は1冊の本にまとめられ
平成13年3月に、みちのく「ふるさとの産業遺産」として出版されました。
南部鉄瓶と二重橋 南部鉄瓶 鋳物と鋼 宮本 裕 南部鉄は出雲鉄と並び、古来、有名である。岩手県水沢駅のプラットホームや 駅前には、でかい鉄瓶が飾られている。八戸の近くの軽米町には鉄瓶の鋳型が 残っていることからも、鉄瓶が作られていたことがわかる。 さて、南部鉄瓶は名僧・方長老(ほうちょうろう)の影響で、盛岡に生まれた 茶の湯の作法からできたものであるといわれる。 対馬の名僧方長老は寛永十二年(一六三五)朝鮮通信使(将軍の代替わりのとき 朝鮮国が日本へ派遣した使者)をめぐる国書改作の罪で、南部藩に身柄預かりと なった、当時、有名な知識人である。 方長老はその二年前に黒田騒動でやはり南部藩に御預けの身となった栗山大膳と 共通するものがあり、二人親しく行き来して詩を作ったり茶会を催したりしていた。 盛岡城内でも茶会が催され、御釜師が召し抱えられることになった。 茶湯釜は盛岡の殿様が参勤交代で江戸へ行く時、諸国の大名への土産として 使われたと言われる。 こうした茶湯釜とは別に、いわゆる注口とつるを持つ鉄瓶の製作は、 十九世紀初めごろの文化年間に始まったとされている。そして、江戸末期から 一般に広く使用されてきた。 この南部鉄瓶と皇居二重橋(鉄橋)は実は、大いに関係がある。なお、通常 二重橋と言われている石橋の奥に見えるのが、本当の二重橋である。 南部鉄瓶の技術改良を目的とした「南部鋳金研究所」で働いていた盛岡の若者が、 東京芸大教授の勧めを受けて芸大に学び、やがて芸大教授となる。岩手県庁前に 噴水彫刻を残した内藤春治である。 彼が芸大教授を退官する時、ちょうど二重橋が再建されることになった。 明治に造られたドイツ製の橋は、昭和二十九年の新年参賀のときの事故で 強度が心配になり、国産で鉄橋の架けかえをすることになった。 この時、内藤春治は高欄の設計と橋桁の龍の模様をデザインした。 ご存じのように、西洋の龍は邪悪のシンボルとされているが、東洋では、 龍は中国を見ればわかるように神のシンボル、皇帝のシンボルであった 直木賞作家である高橋克彦氏も、東洋と西洋の龍の意味の違いを指摘している。 したがって、ドイツ製の二重橋の龍は我々日本人には、なじみのないデザイン となっていた。そこで、橋の架け替えに当たって、内藤春治は東洋の伝統に もとづいて、皇居にふさわしい龍をデザインしたのだ。 ドイツ製の龍はアーチの外側を向いて、橋台の直前に頭を置いている。 それでは龍は苦しそうだと考えた内藤春治は、龍の向きを変え、龍頭を橋の中央に 向けた。これが現在の二重橋である。 ところで、方長老は他にも盛岡にすぐれた文化を残して去ったという。 胃腸等に有効な漢方薬「黄精」と同種の野草アマドコロから、黄精と同様の 成分を取り出して広めたとされている。 このように、地域の伝統産業の上に、外部からの文化人の影響でてきた南部鉄瓶 の技術は、さらにみがかれて、日本のシンボルとも言える二重橋にまで その伝統が見えるのである。へんろさん提供の アマドコロの写真
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軍師官兵衛の兜(もりおか歴史文化館) 軍師官兵衛の兜 官兵衛の兜オリジナル これも
本当の二重橋:鉄橋(この写真を撮るため警察のはからいでできるだけ近くに行けた。
今はフェンスが設けられなかなかそこまで行かれない)
二重橋図面 江戸城図面二重橋が見える 江戸時代の二重橋 二重橋 二重橋 二重橋
水を吐く龍 その2 その3 その4 その5 その6 龍吐水 龍吐水 龍吐水
明治20(1887)年獅子頭共用栓 説明文 獅子頭共用栓(横浜山手資料館)
明治39(1906)年馬水槽 馬水槽 馬水槽 馬水槽 馬水槽 馬水槽 馬水槽
義湘と善妙(華厳宗祖師絵伝、高山寺)