大学における情報処理教育のあり方

これは
東芝情報システム(株)の社内報に頼まれて書いた原稿です。
私のコンピュータ遍歴自伝を紹介しながら、情報処理教育
のあり方について、自分の考えをまとめました。
この原稿を書いたときは、橋の文化史の出版に際し
原著者に会うため渡独の準備で忙しいときでした。

この原稿を書いて、飛行機に乗りフランクフルトへ、そして開放された
ベルリンのブランデンブルク門をくぐり、ドイツの見学を終えて帰国したら、
ほどなく湾岸戦争が始まりました。スカッドミサイルを思い出す。

    大学における情報処理教育のあり方

         岩手大学工学部土木工学科
                          教授    宮本裕

 このテーマでいつか書いてみたいと思っていたので、
与えられたこの機会に自分の考えをまとめてみたい。

 私と電子計算機との出合は昭和40年の10月である。
大学の4年生の時に渡辺昇先生に講義を受け、連続桁
の曲げモーメントやたわみの影響線が自由自在に計算
できることを知って感心した(筆算の数週間分の仕事を
一度にやってしまう)。

 しかし、講座の予算の関係で私は使うことができなかった。
大学院に進学してやっと念願のコンピュータを自分で使う
ことができるようになった。

 その頃はまだパンチも計算もクローズ制で、自分のプロ
グラムをコーディングシートに書いてセンターに持って行
くと、キーパンチャーが紙テープにパンチしてくれ、それを
自分で確認し、オペレータに依頼して計算してもらうという
サイクルであり、プログラムを書いてから計算するまで、
途中何度も紙テープを修正をするので1週間後に正しい結果
が得られたら最高であった。

 夜間の運転は学生アルバイトのことが多く、コネを利用
して待ち行列の先に割り込ませてもらうすばしこい人も
いたようである。
  当時の計算センター

 今考えると、あの計算機よりも現在のノートパソコンの
方がずっと性能(容量、計算速度、多方面の利用法など)が
よいことになってしまったが、当時は大学に唯一の計算機と
いうことで大変高価なありがたい機械としてあつかわれて
いた。

 修士論文をまとめるのに計算機の容量が不足で、当時日本
に1つしかない東京大学の大型計算機を使うことを思いつい
て、渡辺先生に許可をもらって上京することになった。

 なにしろ札幌にいてパンチしたカードを速達で送っても、
1週間後に帰ってくる結果はわずか1文字の間違いでいっぱい
エラーメッセージがついてくるという能率的でない状態だった
ので、計算機のそばにいってできるだけチャレンジしようと
いうわけである。

 今まではキーパンチャーにまかせっきりだったが、上京する
と自分でパンチ機械をあつかわなくてはならないという話を聞
いてから自分で中指1本でパンチをしたものだった。
(現在でも私は右手の中指1本でカナ入力でワープロソフトを
使っている。)

 1人2時間という制限時間があってもカードパンチ機は地方
から出張のユーザに優先的に与えられた。東大のユーザが列を
作って並んでいても出張者でありさえすれば真っ先に使えた。

 しかし2時間という時間はあっというまにすぎてしまう。土
曜日の2時になると強制的にパンチ機の電源が切られてしまう
ことになっていた。

 しかしその土曜日は2時をすぎてもまだ使えるではないか。
よし1枚でも多くパンチしてやれと思って残って仕事をして
いたら、結局1時間オーバーして電源が切れた。

 後で聞くと係りの職員が野球をしに行ったためスイッチを
切るのをのばしたらしい。

 東大の前にはまだ都電が走っていた頃の話である。東大の
センターの地下のパンチ室は今はロッカー室になっている。

 やがてキーパンチャーの腱鞘炎という職業病の問題が起こる
とともに、ユーザの数も増えキーパンチャーに頼むより自分
でパンチしたほうが早くなったりして、いつの間にかどこの
大学にもキーパンチャーの姿は見えなくなった。

 私が岩手大学に赴任した頃は、大学の計算機はファコム
231というアルゴル向きの機械であった。それまではカード
で使っていた私にとってメディアは紙テープになるやら、
計算機の容量は足りないやら、たちまち何年か前の状態に引き
戻された(便利なものに慣れた人間は弱い)。

 この機械は当時は信州大学や室蘭工業大学にもあったが、
最後まで使っていたのは岩手大学だったといわれた。

 結局北大、東北大、東大の大型計算機センターをかわる
がわる使うような状態がしばらく続いた。しかも大型センター
の機種更新に伴い、ようやくシステムになれた頃にそのシステム
は新しいものに変わるという、私にとっては辛い状態が続いた。

 この経験はしかし後にドイツに留学したときに役に立った。
全く新しい計算機であったIBMのマシンだったのに、1日だけ
簡単な端末利用の説明を受けただけですぐ使えるようになった
からである。

 東大で慣れていたサブミットをつかうことはすぐ理解
できたし、エディターもラインエディターだったからである
(日本で最初の東北大学のTSS端末はディスプレーがなく
キーボードしかなかったのにくらべると、画面があっただけ
感心した。)。IBMに無断でまねをするといじめられる国産
のメーカに対して、日本電気の独自路線も結構であるが、
このときだけはIBM互換性のありがたかったことはない。

 ドイツで作ったプログラムとデータを日本に持ち帰るため、
カードにするかMTにするか迷ったが、結局確実なLP出力を
持ってきた。カードもMTも形式がいくつかあることを知って
いたし、何だか産業スパイめいていて出国の際にとがめられる
ことを恐れたのかもしれない。

 もっともこのプログラムを日本に持ち帰ることはドイツの
指導教授も認めてくれたのではあったが(帰国して研究室の
学生総動員で出力リストからカードにパンチして、プログラムと
計算結果を再現できた。)。

 日本に帰ってからNECから16ビットのパソコンが初めて
発売された。早速買ってBASICから勉強しだした(今でも
使っている無印のPC9801)。

 このパソコンでFORTRANができないか、当然そういう
ことに関心が集まった。そのときパソコンのOSはCPM−86
が主流であった。学生の青井君が「雑誌にIBMがパソコン用
OSとしてMS−DOSを採用したからこれからMS−DOS
が伸びる」といってくれた忠告を聞かないで。

 実際は私も迷った。他の大学の教授にも聞いた。そして専門
の教授の忠告にしたがって採用したCPM−86はソフトの
競争に負けしだいに姿を消していった。

 あのとき学生のいうことを聞いていれば30数万円を無駄に
しなかったのにと今でも言う。それくらいソフトの将来を予測
することはむずかしいのだろう。

 機械として特に優れていたわけではないのにNECのPC
98が売れに売れてユーザを広げていったのは、ソフトを
自社で作らずソフト会社に資料を教えてソフト会社の活路を
開いたからであろう。他のメーカーがあくまでも自社でソフト
開発もしようとして、時間ばかりかかって使いやすいソフトを
開発できなかったからだと思う。

 MS−DOSのFORTRANのプログラムを修正するのに
ワープロが使えるということと、それには当時発売の太郎がよい
ということを教えてくれた情報工学科の三輪助教授は偉い先生
である。

 松は使いやすいワープロソフトであったが、MS−DOSに
変換するのに自社のソフトをさらに売りつけるという商売で
あった。ジャストシステム社はそのソフトだけでMS−DOS
ファイルの読み書き編集可能という今ならあたりまえのことを
いとも容易に行い、その後何度もバージョンアップをしてくれた。

 太郎つまり今の一太郎をエディターとして使うという発想は
知っているものにとってはあたりまえのことであるが、それを
解説したソフトの雑誌は少なかった。

 今はたくさん普及したノートパソコンであるが、少し前まで
ユーザが求めているのは軽くてしかもPC98のソフトや
ファイルと完全互換であるということを主張した雑誌もなく、
私の要望に賛意を表した秋葉原のショップもないのには
がっかりした(NECの98LTは容量不足だからだめで、
重くても2HDが読めるラップトップを初めて発売した
エプソンは偉かった)。

 当時としてはメーカーのハードのレベルを考えたらしかた
のないことだが、ユーザの絶えざる要求につきあわねばなら
ない立場のメーカーは大変だと思う。

 なぜPC98だけが多く普及し、他のメーカのパソコンが
普及しなかったかという点では、ある程度PC98の利用者
の世界ができてくると、新しく買うユーザは教えてくれる仲間
のいるパソコンを選ぶのは当然である。

 不正コピーの問題もあるけれど使えるソフトが多いと何と
なく希望がでてくる。

 自分で使うすべてのソフトを買うべきではあるが、ある程度
使って長所も短所を知ってから買うほうが安全である。

 不正コピーの問題とともにプログラムの著作権も原則は
賛成であるが、多少弾力的な運用もよいのではないかと思って
いる。ある本に基本的なアルゴリズムが載っていて、その本
の内容を著者に無断で使用できないとなると、研究活動
さえ制限される恐れがある。他人が使いそうなものを先に手を
つけてしまえば自分の権利は守られるが、全体の創作活動は
手かせ足かせをはめられると思うが、いかがであろうか。

 著者が長々と自分の体験を述べてきたのは、自分の歴史が
そのまま日本における情報利用者の歴史に重なっている部分が
あると思うからである。

 著者の専門は土木構造物の解析をコンピュータを使って
数値計算することであるが、その解析の理論にしてもアルゴ
リズムにしても入出力のデータ形式にしてもメディアの種類
にしても技術の進歩とともにどんどん変わってきている。

 大学で学生をこれからの情報社会で十分な仕事のできる
ように教育するのには、大学教育をどう進めたらよいかという
テーマに日夜頭を悩ましているといっても言い過ぎではない。

 明治以来、日本の大学は西欧の科学技術を積極的に取り入れ
てきた。最初はアメリカやドイツの構造力学の本を翻訳して、
その中の理論と計算技術を身につけていれば最先端の技術者で
あったが、第2次世界大戦の後に一般に使われるようになって
きたコンピュータは構造計算の手法もすっかり変えてしまった。

 それまでは応力法と言われる未知数を力にとる計算方法が
主であったのに、コンピュータの利用により適した変位法(
未知数が変位であるからこう呼ばれる。)へとしだいに利用
方法が変わっていった。

 応力法は結局は手回し計算機を使って手で解くから、
方程式の元数の少なくなるよう構造系の解釈に工夫が
こらされた(そのため技術者の工夫とか個性が出しやす
かったのだが)。

 しかしコンピュータは連立方程式を解くのは得意である
から、方程式の大きさは問題にならず、むしろその方程式の
作り方が容易なほうがよろしい。

 古典的な応力法は構造系が変わると計算のアルゴリズムも
変わり、作られたプログラムも汎用性に乏しいのに対して、
変位法は総轄的で汎用的に理論をあつかえて、データさえ
作ってしまえばあとはコンピュータが自動的にやってくれる
という便利なものになってしまった。

 その結果設計解析業務は飛躍的に進歩した。同時に過去の
方法はかえりみられなくなっていった。若い技術者はすること
が増えた。勉強するべき理論も高度なものとなり、コン
ピュータの使用が前提であるからそのための利用教育も必然的
に増えた。コンピュータそのものが進歩するため数年で利用
技術も古くなり、技術者のみならず大学の教育研究の関係者も
たえず勉強しなくては新しいものに対応できない。

 著者の学位論文は当時は比較的新しかった斜張橋の地震応答
解析を数値計算により行うものであった。当時の北大の大型
計算機で1ジョブの計算料金が5000円くらいかかり、それ
で図の1点がプロットされる。グラフを描くには10点も
必要であり、入力データミスによりたちまた数万円の予算が
消費された。

 問題はその時全体の計算を2つに分けて、最初に静的構造
解析を行い、その後にその結果をもとにデータを作り、後半の
動的解析を行うという2度の作業であった。したがって
中間データの作成に時間がかかった。

 著者は岩手大学でこれらのプログラムを改良し、それまで
応力法で解析していたプログラムを変位法に改め、2つの
プログラムを1つにまとめたので、どんなものでも一貫して
最後まで解析できるようになった。その成果をまとめて
本を書いた。

 この中で著者はこれからの技術者は大学においても応力法
のみならず変位法もマスターすべきであり、そのための理論の
学習とコンピュータを補助的に使った演習も必要であると
考えて、変位法つまり剛性マトリックス法の計算方法を詳しく
述べた。

 実際に岩手大学の土木工学科は3年生においてトラス、
連続桁、ラーメンを例に剛性マトリックスを使って計算実習
を行っている。その際に自分の頭と手を使って1つ1つの
マトリックスの数値を確認している。

 これは10〜20元程度のマトリックス演算になるので
コンピュータの使用無しには不可能である(いつも手計算を
するのではなく、人生に1度だけコンピュータにまかせず
自分で計算過程をたどることは必要であろう)。

 現在、構造力学の演習書を作る機会を与えられたが、これ
までの経験も参考に古典的な応力法も力の釣合とか構造系の
物理的意味を理解する上で必要であると考え、しかも最近の
剛性マトリックスも必要であるので(なにしろコンサル
タントの設計計算書はすべて変位法利用であるから)、これら
をすべて網羅した演習書を作っている。

 学会においても、剛性マトリックス法だけで十分という
先生もいれば、大学は古典理論だけ教えればよい社会に出て
マトリックス構造解析を必要とする者は自分で学習せよという
先生もいる。著者たちは全部必要という立場で本を書いている。

  情報教育の学会発表を聞くと、何を情報教育として教育
すべきかということは学者の立場によって分かれている。
いいかえるとそれだけ多種多様な立場からの選択枝がある
ということになる。

 以下に、参考文献の鳴門教育大学の永野和男先生の講演に
ついて著者の理解の範囲で引用したものを紹介する。

 まず、コンピュータの処理対象として
 (1)情報を大量に蓄積できる
 (2)情報を加工できる
 (3)情報を瞬時に遠方へ蓄積できる
が考えられる。

 将来のコンピュータは電話やFAXやテレビと結合する。
その時に情報を扱う能力とは何か。情報科学者を育てるので
なく、一般社会人のための情報教育の必要性を強調したい。

 情報をどういうふうに整理すればほかの人に役立つか、自分
の必要な情報をどういうふうにアクセスすれば引き出せるか、
その利用技術を教える必要がある。

 業務の機械化(人間の仕事を機械にさせる)はプログラ
ミング化されれば、大学がすることではない。問題解決の
道具として考える(データの量よりもデータの質が複雑な
ために、コンピュータの助けを借りる)。

 コンピュータの支援が入っても最終的に人間が判断する。
人間は仕事から解放されず、仕事が増える。これだけは将来
も人間の仕事として残る。

 「コンピュータを情報処理の機械としてとらえ、自らの
問題解決の道具として活用できる能力」を育てることが
大事である。

 自動車は人間の移動距離という弱点を補ったが、補うこと
により人間の持っていた本来の能力は低下している。

 同様にれわれがコンピュータを道具として使って、記憶、
整理、編集、計算に便利な道具として使うと、逆にコンピュータ
を使えないときの、記憶力とか、計算力とかが弱くなってしまう。

 コンピュータは人間を補う道具である。大学教育の中で
積極的にコンピュータを必要とするような課題場面を作って
いくことが重要である。

 つまり以下の3つの項目とそのバランスが必要となる。
 (1)知識(あまり専門的にせず簡単に)
 (2)スキル(訓練によってトレーニングできる技術。
   ハウツーもの)
 (3)場面認知力(その技術を、どの瞬間に、どの場面で
   使ったらいいかを判断する力)

 技術を知識としてではなく技術として伝達する。実際に
させてみる。1回よりも複数回のほうがよい。問題を整理し
て、そのためのソフトウェアをデザインして渡してやる必要
がある。情報処理に関する知識を、人間がどう判断し、どういう
ふうに社会にかかわっているかということが重要である。

 (不正コピーをさせない、ウィルスを蔓延させない)これら
のことを知識ではなく、なぜそういうことが重要なのかという
ことを考えさせ、本当に倫理観がつくような教育をする。

 以上が永野先生の理論である。

 これに対して著者は、永野先生の考えは一種の理想論と思う。
その理想を実現するには話だけではなくうらづけの行為が
必要であるから環境も必要である(1人1台のパソコンや
ワークステーションなど)。

 OSだってUNIXばかりかOS/2もある。そして
MS−DOSを使っているユーザはまだ多い。スキルを
無視しては実習教育は行えない。トレーニングを通して場面
認知力の訓練をするのが望ましい。

 メディアが紙テープからカードそしてフロッピーへと
変わり、フロッピーも8インチから5インチ、3.5インチ
へと変わりつつある。昔のデータは読みとり機械がなければ
利用できなくなっている。

 学生教育のためには絶えず時代の先端の機器を導入しなく
てはいけないが、高価な機械を簡単には大量に揃えられない。

 しかし不十分な環境においても、少なくとも簡単なコン
ピュータさえあれば、機械語であろうとBASICであろうと、
それを使って何らかの問題解決に役立てる体験こそあれば、
卒業生は社会にでてから自己開発の努力により、より
たくましい技術者になっていくものであると考える。

 パソコンのワープロを使って卒論を書いたり、ワープロ
専用機の文書フロッピーを変換ユーティリティーによって
変換して自分のパソコンに読み込んだり、表計算ソフトを
使って統計資料をまとめたり説明の円グラフを描いたり、
データベースの簡単なソフトで住所録を作ったりと著者も
一緒になって生活の中にパソコンを取り入れている。

 たまにはゲームで頭を休めることも、パソコンに慣れ親しみ
良い生産を最後にあげるなら必要であろう。

 不十分な設備ではあったが何日も出力のリストとにらめっこ
をしてプログラムミスを見つけた卒業生が、その職場でも
初めての新しい言語を使って業務プログラムを作っていって、
すっかりまわりから期待され本人も自信を持って仕事をして
いる、そういう例をいくつも知っている著者はこれからも
できるだけ教育活動にたづさわる覚悟である。

 著者は土木工学科に属していながら、東北大学大型計算機
センターの運営委員であり、岩手大学情報処理センター長を
おおせつかっている。また岩手県が中心となったハイテク
ネットとうほく(新潟を加えた東北7県とつくば学園都市を
結ぶパソコン通信)の世話も陰ながらしている。

 決して情報の専門家ではないが、ユーザとして苦労してきた
体験は人に負けるものではないと思っている。

 これからもユーザの代弁者として情報処理産業のサービス
に期待したいと思う。

参考文献
平成元年度情報処理教育研究集会報告書(東北大学)

さて情報処理センター運営の当時を思い出して
千葉大学の倉田先生と(国立大学情報処理センター協議会)
東北中の情報処理センターを見学したので、会津短大にも行きました。
会津磐梯山
鶴ケ城   鶴ケ城

大昔のミニコン当時の写真が見つかったので紹介します。

情報処理の必要最小限の教育とは何かという私の持論を証明する人はいます。

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