これは
川田テクノシステム(株)の社内報に頼まれて書いた原稿です。
ちょうど、橋の文化史の出版のために
渡独して原著者と会っていくつかの質問に教えてもらいました。
原著者との打ち合わせも無事すみ、センター試験があるから
1月10日前に帰国しました。
帰国してほどなく湾岸戦争が始まりました。
私はアメリカ対フセインの戦いを横目に見ながら、この原稿を
書いたのです。
そのときは構造工学の基礎と応用の校正作業もあり、死ぬほど
忙しかったのです。
忙しいときは仕事が集中するものですね。
KTS・Communications, Essay & Review ドイツ漫遊記 私は、ミュンヘンのドイツ博物館の編集した、 教師のための科学技術史シリーズの中の 「橋の文化史」を翻訳し、この度鹿島出版会から 出版することになり、そのために著者との 打合わせで昨年の12月15日から今年の1月 10日まで渡独しました。 8年前にフンボルト財団研究員としてダルム シュタット工科大学で1年間研究したこともあり、 その後のベルリンなどにも興味があって、できる だけドイツ国内を見て歩きました。 この機会を利用して私のドイツの印象を報告 したいと思います。 「橋の文化史」の原本は、絵や写真のたくさん 入った250頁ほどの素人でも楽しく読める本です。 この本は技術史だけをただ解説したものではなく、 技術がその時代の背景となる政治・経済的な要求に 対してどう発展し期待にこたえていったかという 社会的な観点がしっかりと取り入れられています。 その意味でこれからの土木学会においても価値のある 本だと思います。 大学教官としてドイツ語の文献を読むことも仕事で あり、学生に指導する立場としてドイツ語を自分でも きちんと日本語に訳すことを目標にしました。 しかしドイツ人の書いたドイツ人に読ませるための 本ですから、構文や表現などで日本人にはどうしても わからないことが出てきます。 そこで日頃から文献を読む際お世話をいただく本学 の人文社会科学部のドイツ語科の小林英信先生と一緒に 訳すことにしました。 なにしろ原文の中には小林先生が東京教育大学の 大学院の入学試験を受けたときに出た構文があったり して、とうてい私一人の力では訳しきれないもので ありました。 小林先生が調べてもわからない表現や専門用語に ついての質問は、直接著者に手紙で質問しました。 著者からの返事も5回以上届きました。 それでもなお理解が不十分のこともあり、今回直接 会って質問に答えていただきました。 ここでは、ミュンヘンで著者から直接聞いたことの中 で2つほど紹介したいと思います。 1つは図の説明で、Landwasserviaduktを「水陸高架橋」 と訳してはみたがなんだかわからない言葉で自信が ないから質問してみました。そうしたらLandwasser とは固有名詞で橋の下を流れる深い谷の川の名前で あることを教えてくれました。 結局、この訳は「ラントヴァッサー川にかかる高架橋」 ということになりました。 もう1つはやはり図の説明で Station der Fuerstlich Thurn und Taxis'schen Fahrpostとはどういう駅かと思ったことです。 原文ではこの駅はフランクフルトにあると書かれている ので、フランクフルトの町にそういう地名があるのかなど 小林先生と一緒に悩んだものです。 これはドイツ人なら常識のことらしく、1505年に Thurn und Taxisという名前の領主(Fuerst)がいて、 この領主が馬で手紙を運ぶ郵便制度を作り、 時の皇帝から郵便業務をする権利を認められたようです。 そのうち手紙だけでなく馬車で人も運んだようで、現代 なら通信と運輸の仕事をしたと言えるでしょう。 今でも南ドイツに行くと、汽車の無い地域の峠の道を ラッパのマークの郵便局のバスが走り(オーストリアや ドイツの郵便局のマークはラッパで、これは昔の郵便馬車の 御者のラッパからきたということです)、そのバスは 鉄道駅を結ぶものではなく、郵便局から郵便局へと走ります。 ニュルンベルクの鉄道博物館には汽車だけでなくそれ 以前の郵便馬車や電話などの通信関係の展示もあり、 博物館発行の本の中で上に述べたThurn und Taxis領主の いわれをきちんと解説しています。 なお Thurn und Taxisとは1人の名前のことで 今でも子孫は南ドイツ経済界で指導的な立場にある ということでした。 1505年から1866年まで彼の一族が郵便制度を 独占していたわけで、その後ドイツの国有郵便制度に 代わったのです。 なお余談ですが、この一族はレーゲンスブルクに おいて活躍したようで、観光ガイドブックにもある レーゲンスブルクの石橋のたもとの歴史的ソーセージ屋 でソーセージを食べたとき、一緒に飲んだビールの コースターをなにげなく見るとそこにはThurn und Taxis ビール会社と書いているではありませんか。 Thurn und Taxisビールのコースター(ヴァイツェン) Thurn und Taxisビールのコースター(ピルス) さては郵便で儲けただけでなくビールでも儲けたのかと 思いました。 いささか脱線しましたが、Thurn und Taxisという一族の 名前は郵便業務を表す言葉として使われていたので、 上記の言葉の和訳は「郵便馬車の乗り場」ということに しました。 そこでレーゲンスブルクの橋が出たので、翻訳書の中で でも重要な中世の石橋のことを述べたいと思います。 そもそもエトルリア人そしてそれを受け継いだローマ人 たちによって石のアーチ橋がヨーロッパに広く架けられた のですが、ローマ帝国の崩壊とともに石アーチ建設の技術 もいつか忘れられ、このレーゲンスブルクの橋を建設する 際は中世ヨーロッパ人独自の技術でなしとげられたよう です。 したがってローマ人ならもっと上手にやれたのに、 橋脚の基礎工事の重要性と確実な橋脚基礎施工法にうと かった当時の人々は流水から橋脚を守るために、橋脚を 取り囲む島を作ったのです。 その結果橋脚の洗掘はなんとか避けられても川幅が 1/3になり、必然的に川の流れは速くなり船の航行に とって困難な問題を生じたのです。 難工事であったこの橋を今渡ってみると幅員は片側1 車線で全部で2車線しかなく、両側に歩道がついていても バスが橋の上を通るときは歩道と車道の間に縁石などなく、 もっともあればかえってバスの通行が困難になるので、 歩道の一部を使いながら通行するバスのため歩行者は しばしば立ち止まらねばなりません。 この橋の幅員は当時の交通需要には十分だったよう ですが、現代なら幅員不足と間違いなく言われます。 しかしハイデルベルクの有名なアルテブリュッケ (古い橋)も歩いてみればほぼ同じような幅員構成 でした。 レーゲンスブルクは石橋建設当時は東のソフィア やコンスタンチノープルあるいはウィーンと西の ユトレヒトやパリを結ぶ東西交通と、北のプラハと 南のヴェネツィアを結ぶ南北交通の交差点の要(かなめ) ともなる町で、貿易で繁栄していた町でした。 今では静かな教会の多い町でしかありませんが、 この町の歴史を考えるにつけ交通が都市の活性化に 重要であったことがわかります。 しかしこのように東西交通と南北交通の要という ことは1つの町特有のことではなく、考えてみれば ドイツは常に東西と南北の経済や文化の要にあった のです。 つまり東から来る物資はドイツを通って西のフランス やオランダに運ばれ、あるいは西からドイツを通って 東欧諸国に運ばれるのです。 同様に北欧とギリシャ・イタリアなど南欧の間の物資 の移動もドイツを通るのが近道であり本流といえる でしょう。 このことはドイツ自身のヨーロッパの中の流通における 優位性と同時に、政治的にたえず隣国からの影響を受け また主体的に隣国に作用することも意味します。 古来よりドイツ民族は隣国から攻められたり逆に隣国 を攻撃したりという歴史を繰り返してきました。 スイスのように山国なら戦争も大変なので外国も攻める のに容易でありませんが、ドイツは平坦な土地が多く、 神聖ローマ帝国という名前だけは立派でも実態は各都市や 各地方の独自な自治が平和的に認められた生活も、 隣国が強大になるにつれおびやかされていきます。 少しづつ神聖ローマ帝国の領土は回りの国々にとられ 縮小されていきました。 ドイツのために一言説明するなら、フランスの アルサス・ロレーヌ地方はもともとドイツ語が使われ ドイツ文化が豊かな所でありました。 その証拠にはシュバイツァーが子供の頃アフリカに 行って黒人を助けようと決心したコルマール (ドイツ語ではコルマー)の町には、アメリカの自由の 女神を彫刻したバルトルディがこの町の出身者のため バルトルディ博物館があります(シュバイツァーは子供 の頃、バルトルディの作ったフランスの将軍の凱旋記念の 彫刻の足元のある支配されて嘆き悲しむ黒人像を見て、 アフリカ行きを決心したといいます)。 その博物館の2階に上がるとバルトルディ自身の選択 において最後まで残った自由の女神の2つのモデルも 陳列されていますが、その博物館の1階は古いアルサス 地方の歴史や文化を説明する郷土資料館になっていて、 昔のアルサス地方の言葉はドイツ語であったことが展示 で説明されています。 日本の小学校の教科書にはフランスのドーデーの 「最後の授業」という話が載ってあり、プロシャが攻めて きて明日からフランス語が使われなくなる子供たちの 悲しみが書かれてありますが、それはそれで正しいの ですが歴史をさかのぼると逆のことをフランスがした のです。 ドイツ系の住民を追い出したのはフランスの王様です。 私が盛岡に来てしばらくドイツ語を習ったのはアメリカ人 の牧師さんでシュレーヤ博士でした。シュレーヤ先生は もう亡くなりましたが、奥様はまだ元気で地元の大学で 教えています。 二人とも50年以上も盛岡の教会で布教の仕事を したり英会話教授をしてきましたが、先祖はドイツ人で 曾祖父の時代にアルサスからフランスの侵略に耐えかねて アメリカに移住したといいます。 ドイツの石橋としてあまり有名ではないが、翻訳書の 中に出てくるニュルンベルクの肉屋橋があります。当時 ニュルンベルクとヴェネツィアとは通商関係にあって、 ヴェネツィアのリアルト橋の技術が移植されたようです。 なお肉屋橋の名前は橋のたもとに肉屋があったからだ ということです。 中世の雰囲気を守る城壁で囲まれたニュルンベルクも 訪れ、観光客の必ず渡る「博物館の橋」の1つとなりの 肉屋橋を見てきました。 ヒットラーはたくさんの人を殺しましたが、なぜ イタリアと手を組んだのだろうかというと、私の考え ですが、彼の頭の中には神聖ローマ帝国があったのでは なかろうかと思います。 すなわちローマ帝国の栄光を受け継いだ神聖ローマ帝国 をドイツ人が再び現代に実現するためには、どうしても イタリアが仲間になるのは必要であったからではないで しょうか。 悪いジョークとして日本人がよくドイツ人から「今度 戦争するときはイタリア人抜きでしよう」と言われる そうです。日本がドイツの降伏後も戦争を続けたことで、 ドイツ人の中には日本人に対する信頼感のようなものは あるようです。 しかし長い歴史を通じてローマやイタリアに対して 抱いているあこがれとか伝統性をドイツ人は捨て去る ことができるでしょうか。 ドイツの分断の象徴であったベルリンのブランデンブルク 門をどうしても見たくて、ベルリンに行きました。 8年前にはブランデンブルク門を西ベルリン側から壁越し に見るだけでは満足できず、緊張しながらも東ベルリン の1日ビザをもらい反対側からの門を見ました。 東ベルリンの印象はといえばもの言わぬ市民 (フリードリッヒ・シュトラーセ駅の地下のトイレが 修理中で使えずやっと捜した駅前の簡易トイレで用事を たしていたら、やはり同じようにトイレを捜していた 酔っぱらいのおじさんが、やっと見つけたなと声をかけて くれたのが1度きり。酔っぱらいしか話しかけてくれない 東ベルリンでした)、笑わぬ警察それも町のいたるところ にあふれている、そして商店の中の客の行列と商品の 少なさでした。 とても首都とは思えぬ商品の品質の悪さと品不足で したが、価格は確かに安く、ビールなども西ドイツの半分 以下で、本も安くて換金した東ドイツのお金を使いきる ために本を買ってきた記憶があります。 私がドイツに行ったとき最初の汽車の中で会った おばあさんは東ドイツから来た人でした。確か本で読んだ 知識では東ドイツの住民は西ドイツには旅行できないはず と思って質問したら、女は60才になれば国外旅行が できると教えてくれました。 自分の国から出たい人がいるのに出ることを認めない のも思い切った政策だと思いましたが、自由を求めて壁を 乗り越えるのに失敗して死んだ人が大勢いてその人たち のために捧げられた花束をいくつも西ベルリンで見ました。 西ドイツはもともと東ドイツも自分の国だと考えていた ので、西ドイツの人間が東ドイツに行くことは認めて いました。 ただし東ドイツは親戚を訪ねてくれる西ドイツの人から も入国の際に税金をとっていました。これも貴重な外貨と して一時的には東ドイツの国の経済に役立ったかもしれ ないが、自立する力を弱める方向に作用したのではないかと 思います。 私がドイツにいた頃はドイツ統一など永久に実現する はずなくドイツ人にとってはドイツ統一とは悲壮なテーマ でした。 厚い壁にさえぎられても、バッハとゲーテとフンボルト は東西ドイツそれぞれに讃えられていた共通の偉人でした。 東ベルリンのフンボルト大学で見たフンボルト兄弟の 彫刻は、私にとって唯一の東西ドイツを結ぶ実在のもので ありました。 しかしその後の時間の経過とともに、東ドイツにとって 頼みのソ連が経済的に思わしくなくなり、東ドイツは勝手に したらよかろうということになりかつ西ドイツがソ連経済 を援助するという条件でソ連もドイツの統一を認め、 こうしてドイツ統一が実現できたことは、昔を見た私に とっても二度と見ることのできない奇跡を見たという 思いでした。 したがってどうしてもブランデンブルク門を通り抜け ウンターデンリンデン通りを一直線に歩きたかったわけで、 それが実現でき今年は本当に意義深い年でした。 東ベルリン(本当は旧東ベルリンと言うべきですが、 このように書きます)を歩くと今まで経済的余裕がなく 古いままであった町並みや歴史的建造物を、首都として ふさわしいものに修復しようと、ドイツ人の急激な ベルリン改造に対する力の入れ方が目につきます。 建設業の活動が活発です。 今まで自分の国にアメリカやソ連などの外国の軍隊が 駐屯し、西ベルリンには西ドイツの旅客機が乗り入れられ なかったのが、ルフトハンザの飛行機が発着するようになる など、すべてドイツ人にとって喜ばしい方向に向かって います。 もっとも東ドイツの社会保証制度に守られていた良い面 をすて、失業に不安を抱きながら将来に夢を託す東ドイツ の人々も少なからずいて、また大きな運命の変革を受ける 人々もいますので(大学教授も自分の専門によっては 研究部門が無くなったり地位を失うことがあるとか)、 すみやかにドイツ国民全体の幸福が来ることを願わず にはいられません。 またただでさえコンプレックスの裏返しの強気の ドイツ人が、いまや本格的に自他共に認める自信を持った 国民になることは、他の国にとって不安の高まることに なりそうです。 しかし戦後の強い反省をしたドイツ人は、きっと 回りの国々を助け真のヨーロッパのリーダーとなるで あろうと期待しています。 せっかくドイツにいったのでシュツットガルトや ダルムシュタットにも寄り、最後はカールスルーエに 行きました。 もともとこのカールスルーエ工科大学(現在は文化系 学部もふえ総合大学となったので名前もカールスルーエ 大学と改まった)で恩師の北大の渡辺昇教授が30年前 にフンボルト財団研究員として留学したため、私も あこがれの大学でありました。 ちょうど東京の国際会議で知り合ったシュナック教授 の招待もあり、カールスルーエ大学で1時間ほど 「日本の土木工学におけるCAEについて」という 講演をしてきました。 大学での研究は真理を追求しても、実践的な面では 設備や人的パワーは業界がふんだんに力をつけています。 そこでKTSの越後開発部次長さんに最新のソフト情報 を教えていただき会社の新製品ソフトのスライドをお借り し、日本語の説明をドイツ語に翻訳してドイツ語で講演を してきました。 当時ベルリンから岩手大学の電気工学科に客員教授と して来ていたシュミット教授にドイツ語を添削して いただきました。 なお講演の際に岩手と盛岡のPRもしてきました。 私の持論ですが、日本をJAPANというのはマルコ ポーロの「東方見聞録」の中で日本のことをジパングと 呼び黄金の家があると報告しているからのようですが、 金の屋根の家とは京都の金閣寺ではなく、平泉の中尊寺 の金色堂をさすものだと思います (1124 金色堂、1299 東方見聞録、1400 金閣寺)。 したがって岩手にこそ日本の名前の起源があるという わけです。 その他1993年に盛岡で世界アルペン競技がある ことを宣伝してきました。 そういうわけで岩手において外国のスキーヤーや 観光客を迎えるため英語やフランス語と並んでドイツ語 の通訳を養成することが重要なことです。 ドイツ統一にともない今後ドイツ語の重要性が高まる と思われます。 なにしろ中世のヨーロッパの中心的言語であったドイツ 語は当時の文化を研究する上で重要であり、これから先も ヨーロッパの中心においていよいよ指導的立場を発揮し ECの平和的リーダとして活躍することを期待されている からです。 また今回のドイツ旅行は滞在費を幸いにもフンボルト 財団の援助を受けましたが、渡航にあたって多大の援助を KTSをはじめ川田グループに受けましたことを感謝 いたします。 川田工業の川田忠樹社長には数々の橋の文化史に関する 著書があり、これらの著書により受けた啓発は数え切れ ないほどです。 川田社長の今後のご執筆と川田グループのご発展を 祈って結びといたします。