紹介されているのは以下5名のイラン人ですが、プライバシー保護のため仮名のようです。
おそらく独身をつらぬくモレーニ
アメリカ人を妻にもつレザー教授
妻が日本人の幸運なアリー・レザ
工場で働く4人のイラン人のまとめ役マジード
文部省奨学生アレズ
観光ビザで日本にやってきたモレーニ 苦労して夜間の大学を卒業する。そのためには2年間学資を稼ぐため 必死で働いた。それから、昼は働き夜は大学で学ぶ生活が続いた。 一度だけ8万円の奨学金を受けたり、1学期だけ授業料免除になったのは 大学の特別待遇。 (よほど優秀だったのだろう) 旅行が好きだが、日本人の旅行は事前にホテルも予定表もきっちり決めてから 行くスタイルなので驚いている。 (イラン人はもっと無計画らしい) イランの各地を旅行したが、ゾロアスター教徒の多いヤズドが(お客好きで)好き。 イスファハーンは京都、シーラーズは奈良。 シューレザルド(サフラン粥)は、願い事がかなったら毎年つくり皆に配る。 イランでは何か願い事がかなうと「ソフレ(食布)をひらく」といって 「ふるまい」をする。「ふるまい」にはアーシュ(米・麦・野菜の粥)、 ホルマー(ナツメ)、ハルワ菓子、シューレザルドなどを用意してふるまう。 (喜びのお裾分けは、日本人も見習うべきだ) イラン人は鼻が大きいので鼻を低くする手術がある。 日本人は決めつけるのが好きだ。「イラン人だから....である」 「アメリカ人だから....だ」私は国をしょっているのではないから、 もっと一人の人間として見てほしい。 (○○人は△◇だ こういう言い方をよく聞くが世の中そう簡単ではない) コメント モレーニの友人ファルディーンは国費留学生だったが、日本人と結婚して、 夫が大学院で学ぶため彼女が働いて生活費を得ていた。(けなげに働く彼女に 姑の「可愛げのない嫁」という言葉は本心としてもヒドイと思う) 自己主張の強いイラン人女性。イランの賢女は辛抱するが言うべきことはキチンと 主張する。そして、その対極的なイラン女性もいる。それは楽天的であきっぽく、 のびのびとして奔放なイラン女性。愛嬌がよく、モレーニのような努力家からは 顰蹙をかう女性もいるという。 1991−1992 4万人を越えるオーバー・スティ(超過滞在) のイラン人労働者は1992年4月の日・イ間ビザ協定以降急激に減った。 現在、就労目的でイラン人は来日できない。 客員教授として来日したレザー教授 夫人はアメリカ人なので、日本での仕事が終わったらアメリカに帰った。 本当はイランに帰りたかったらしい。 イランの大学を卒業してから、アメリカに留学して、女子学生と学生結婚する。 イランでアメリカ大使館人質事件があってから、アメリカ政府はイラン人のビザ をチェックしはじめた。少しでも問題のある学生や勉強しない学生は帰国させられた。 彼の学ぶペンシルバニア大学はそんなこともなく、見識ある対応をした。 しかし、町の人が彼をイラン人だということを知り始めて、いつものように 仲間とサッカーをした後にビヤホールでビールを飲もうとしたら「イラン人には ビールを売りたくない」と断られた。こんなことがきっかけとなり町の人びととの 乱闘事件も経験して警察のやっかいにもなる。イラン人嫌いの町の住民ゆえ、家族に被 害がおよぶことを恐れた彼は、妻子を妻の実家に送り届け、自分はハバークレーに旅立つ。 バークレーで博士課程の最終学年を無事終えることもできたし、妻も呼び寄せ 妻の仕事もみつけることができた。しかし、イラン美人にだまされる。彼の身分を 利用して安い学生寮を使わせてほしいと頼まれたので、世話をしてやったら、約束した 寮費を払わず逃げてしまった彼女のため、2400ドルの寮費を払わなくてはならず、 悪いイラン美人を追っているうちに滞納して結局6000ドルになってしまった。 この借金をすませないと、博士の審査が受けられなかったのである。妻にもひどく怒ら れた。 (同国人に親切にしたいのは理解できる。しかし、人間全部が善人ではない) レザー先生には蒙古斑があるという。アジアの血が混じっているのだろうか。 日本人女性はとてもやさしい。シットリしている。そう信じている。日本文化のいい ところは。美しさ、繊細さ、優しさ、ゆたかな自然描写である。 幸福なイラン人 イラン・イラクに遺跡調査に行ったM先生が、ある日にペルシア湾で 一人の青年が板を切ったり釘を打ったりしている姿を見て、声をかけた。 「なにしてるの?」「船を作っているんです」 人なつっこそうな青年に、ついM先生は、日本に来たら電話しなさい。泊めてあげる と電話番号のメモを渡す。 2年後に、そんなことも忘れたM先生の家に電話がかかってきた。「ぼくはペルシア湾 であなたに会ったマスードです」驚いたM先生。まさか自分の作った船で来たわけで はないだろう。ともかく横浜に迎えに行って、自分の家に連れてきた。 小さな日本の家や小さな湯船に驚き、布団に寝かせるとイランでもこういうのがあると いい、日本の食べ物一つ一つに喜びの声を上げた。M先生の子どもたちともすぐ仲良く なった。マスードは1ヶ月ほど滞在して、子どもたちと泣き別れするように船で帰国した。 このような偶然の幸運にめぐまれた、もう一人のイラン人の青年アリー・レザ。 彼も、ひとりぼっちで困っている姿を見ると、まわりでほおっておけないような 人徳があったらしい。彼もまた東洋に対するあこがれがあった。「東の女性と結婚 したかった」という彼の夢は実現した。日本人女性と結婚して、しあわせに日本に暮ら している。 スポーツ好きの彼は、イランで盛んだったカーンフーを習おうと町の道場に行った。 兵役をすませた彼は、カーンフーの本場であろう中国に行った。社会主義国の中国人は 外国人との接触を避けたが、日本人の大学生がよくレストランなどに誘ってくれた。 中国は自由でないから、韓国か日本に行こうと思った。日本は物価が高いというから 韓国に行こうと思った。飛行場まで行ったとき、イラン人女性がいて、日本に来れば 世話すると言う。そこで韓国行きを変更して日本に向かうことになる。 成田に着いたが教えてくれた電話番号が繋がらず、困っている彼にアメリカ人が 正しい電話のかけ方を教えてくれる。タバタの駅までどうして行けばいいかわからない 彼に親切な日本の女の人が教えてくれる。そして、困ったら電話をするようにと 電話番号を教えてもらう。やっと、親切なイラン人夫妻の家に行くことができ 東京での生活も慣れてきた。そして、あの空港で親切にしてくれた日本人女性に 電話したら、一家で歓待してくれ、音楽会のチケットを1枚もらった。 電車賃も節約している彼は、しかしせっかくのチャンスだからと、本郷三丁目に行く。 そのコンサートで隣の女性と運命的な出会いをして、1年後に結婚してしまう。九州の 彼女の実家は海沿いの小さな村のお寿司屋さん。東京でとった指圧師の免許もつかい 指圧をしたり、カーンフーを教えたり、お寿司屋さんを手伝う彼は、すっかりお嫁さん の実家に気に入れられる。もちろん彼の明るい性格もあった。カーンフーを教える外国 人としてテレビや新聞にも取り上げられ有名人となる。イランと日本をつなぐ仕事が したい彼は東京に出てくる。日本の不動産の会社では、給料は高かったが、社内の派閥 に疲れイランのマスコミ会社に移る。給料は下がったが満足している。 (日本好きで日本に住んで日本人から大切にされる彼は、ウィッキーさんのように 人柄が良く人徳があるからだろう) 彼の分析する日本でのイラン人の多い犯罪の原因 ・欧米に住んでいるイラン人は大抵エリートだが、日本に来るのは下層労働者が多い。 ・イラン本国で日本についての正確な情報がとても少ない。観光ビザで来たら就労でき ないことをキッチリ教えないといけない。日本で儲けてきた話を聞くから日本に行き たくなってしまう。 ・イランはイスラム教という戒律が支配する厳しい国。そんなとこから、日本のように 物質や音楽や色彩の氾濫した国にやってくると、イラン人は今までに見たこともない 自由な(というか無制約や)まるで魔法の国に来たみたいな印象で、イスラム社会の 束縛がいっぺんにとけて、どうしたらよいかわからなくなってしまう。 イランでは制約が多くどこに行っても誰かの目が光っている感じなのに、日本だと 誰も注目しないから、何をしてもいいような気になってしまう。 彼は長野が好きだという。湿気がなくカラっとしているのが体にあうらしい。 自然の豊かな長野。長野の次は北海道という。東京の夏の湿気は苦手。 (こういう人を大切にしたい) マジードは比較的おとなしいが、日本文化に興味をもっている青年である。 彼の両親はアルダビール出身。アルダビールはイラン北西部のアゼルバイジャーン州の町である。 大学の機械工学科に入学した。そして、大学に在籍しながら兵役に出ることにした。 ちょうどそのころ、兵役を拒否する大学生たちの運動があって、彼は兵役2年を1年で やめてしまったことが大変心の重荷となっている。つまり警察から追われる身となった ので、知人から偽造パスポートを手に入れ1991年に日本に来る。上野公園で イラン人たちがたむろしているとき、優しい声がかけられた。後でわかったのだが、 それはヤクザで、知らないうちに犯罪の手伝いをさせられた。H氏という立派な日本人 が助けてくれた。いったんは偽パスポートでトルコに渡ったが拘留される。しかし、 彼がトルコ系のアゼルバイジャーン語を使うので親切にしてくれた。 イスタンブールで偽のパスポートを手に入れ、また日本にやってきた。そして日本が 好きになっているのに気がつく。町工場で働くようになった。社長は韓国人だが、 奥さんは日本人。息子の専務が横柄で嫌いだ。4人のイラン人、パキスタン人、 バングラディッシュ人などが働いている。社長は良い人だが、息子の専務はどなって ばかりだ。辞めようと思ったが、専務の奥さんが優しい人だからまだ辞めないで働いている。 アパートには共同のでも風呂があるから恵まれている。普通のイラン人の住んでいる ところには風呂はない。風呂屋は恥ずかしいし、汚いと言われるから行かない。夏には 汗をかくからよけい臭くなって、「イラン人はクサイ」と言われる。 兵役をちゃんと果たさなかったからイランに帰られないと思っていたら、最近は 罰金を払えば許されることがわかった。もう少し待てば、その罰金もなくなるかもしれない。 社長が彼らに親切にしてくれても恩にきせるのが気にくわない。「おまえには○○を やったんだぞ」と毎日言う。「うん」とか「はい」と言ったら「ありがとう」という まで許してくれない。何度も恩にきせるのなら、してくれないほうがいい。 でも、大阪のH氏にはとても世話になった。外国に行くために7万円も貸してくれた。 あとでそのお金を返しに行ったが受け取らなかった。 イランでは皆誰にでもできるだけ親切にしてあげるが、お礼は期待していない。また 誰か別の人に親切にする。誰に何をしてあげたか覚えてもいない。 日本でお世話になったお医者さんのS先生やH氏の親切を忘れないつもりだ。 そういう人には「恩を感じている」 日本人の差別はつらい。イランでは外国人をとても大事にする。ぼくの友人は建設業 で働いていたが昼飯のときが一番悲しかったそうだ。日本人だけで丸くなって座って ほぼくの友だちのイラン人は仲間に入れてもらえなかったから。一緒に仕事をしている 仲間なのに。 日本にいるイラン人についてはあまり良く思っていない。なかなか仕事がないから、 言葉もわからずつい悪事に手を出したりする。もう少し我慢して、自分のしたことや 失敗を反省すればいいのにと思う。イランのことわざ「忍耐は酸っぱいブドウも甘く する」のように我慢すべきなのだ。日本にも「石の上にも三年」ということわざが ある。悪いイラン人がいるのは残念だ。欲望を抑えきれなくて悪いことをするのは いけないことだ。ぼくらは皆とても迷惑している。 彼には良いことがあった。イラン政府が兵役拒否のために国外に出たイラン人には、 前には出さなかった正規の身分証明書を出してくれることになった。おそるおそる 大使館に行った彼に大使館員は親切だった。1996年まで通用するパスポートを 手に入れることができた。 家族はイランに帰ってこいというが、日本の生活に慣れてしまった。日本が好きに なった。日本人の口のきき方は乱暴だけど、心はシンプルで、友人になれたら どんなにいいだろうと思う。礼儀正しい習慣と伝統。この平和な雰囲気を捨てて イランに帰る決心はつかない。イランではパン一つ買うにも行列し、口論し、 時間も正確でないし、規則も守らない。そういう荒々しいイランの雰囲気に、 僕の神経はまいってしまうだろう。 (このイラン人も日本にいたが不法在日のため、堂々と生きていけない。 法律の矛盾を感じる) 5人目のアレズ(希望)は文部省奨学生として来日してきたので、恵まれている。 テキパキとした挙動、利発な目の動き。 彼女の父方も母方も祖父母はアゼルバイジャーン州のアハルの町出身。 したがって、彼女はトルコ系だ。中学は有名なテヘラン英才教育女子学校の中等部 だった。そして、高等部に進んで、やがてテヘラン工大電子制御学科に入学が決まって ほっとしていたとき、知人から日本大使館での日本留学試験があることを聞いて 応募する。運良く選ばれて、半年間駒場で日本語研修を受けてから、松江高専で 学ぶ。たくさんの日本人に親切にしてもらった。広島のアジア大会の通訳に 自分から応募し夢が実現、選手村の仕事を通じて生きがいを感じた。 その後豊橋技術大学をへて今東京工大の社会理工科に学んでいる。 この本の著者に言う彼女のイラン人の分析がまたおもしろい。「先生、イラン人は もっとずるいのよ。だまされていませんか」「先生の感じているイランは古き良き イランなのよ」 彼女から指摘される、イラン人の「賢さ」つまり要領がよくて目から鼻にぬける、 くわせものの才智を聞いて感心する著者。しかも常に次に何かを求めている変わり身 の早さをイラン人の長所だと指摘するのは、イラン人の口からは初めて聞いたという。 そんなものかなと思うのは私のほう なぜイラン人は日本人に受け入れられないか。アレズの分析 ・イラン人のほめ言葉「なんて賢い子なんでしょう」は、才智がある、ずる賢いこと。 テレホンカードの偽造やカンニングはイラン人ならうまくやったと思うもの。 (えっ、本当、そりゃまずいよと思う私) 「なんてチャッカリ」もほめ言葉。こういう賢いイラン人はとてもチャーミングな光 る目をもち、あのよく光る目は次の冒険を求めている。賢い人はすぐあきるから。 ・イラン人は自己主張が強すぎる。時と場所を考えた方がいい。時には歩み寄りも必要。 (やはり日本で暮らしているうちに、わかってきたらしい) もっともそうするとイランでは偽善者とか二心があるとか、策謀にたけたと言われる。 ・イラン人は集まることが好き。日本人の一番嫌うところ。男の労働者ばかりだと目立つ。 ・イラン人のしつこいところ。日本人にしつこく誘われることもあるけど、日本人のは すぐウラが見えてしまう。イラン人はうまいのよ。なかなか日本人には見ぬけない。 日本人批判 日本人は自分たちの文化を他人に紹介することばかり考えている。 私の国の習慣、風土なんか聞いてくれる人はまずいない。異文化交流はお互いに。 偏見をもたずに、幼い子どものようにまず相手の文化に耳を傾けることが大切。 もちろん自国の文化が第一、それはわかるけど。 (日本人でもみながそうとは限らない。やはり人によるでしょう) 日本人は意見をはっきり言わないで可能性を残しておく。これは日本人の良いところ でもある。つまりグレー・ゾーンが広いこと。白でもなく黒でもない。そういう用心 深さ。 石油が必要な日本にとって、これからも中東特にイランは大切な国。 中曽根総理は当時イラン国王を誉め讃えていたそうだが、あっさり国王は追放されて しまった。 イスラム圏でありながら、非イスラムの因習をどこかに残しているイラン いにしえをたどるなら、シルクロードを通じて、日本にイランの先祖の影響が 残っている。我々は知らず知らずイランやインドの文化の香りを受けているはずなのだが。
簡単なイランの歴史