1979年イランでイスラム革命が起きると、イスラム化の動きが強まった。
パーレビ国王がイランの民族的なアイデンティティを重視し、古代ペルシアの
栄光を誇示する遺跡の整備や、強大な行事の演出に力を入れたことに対する
反動もあって、イスラム以前の文化や伝統や慣習を抹殺したいという極論も
イスラム教条派の間で唱えられた。
イスラム暦もその例外ではなく、2月11日の革命からおよそひと月後の
ノールス(イラン暦元旦)に、最高指導者ホメイニ師は祝いのメッセージを
発表することにも難色をしめしたといわれる。
しかしイラン暦は残り、ホメイニ師も結局は新年のメッセージを発表した。
イラン国民の長年の生活習慣に教条派が政治的な譲歩をしたからである。
湾岸戦争後1991年4月、イラン暦によるノールス(新年)の行事と
イスラム暦の断食月(ラマダン)が重なったことがある。
イラン暦の元旦(春分)から13日目は長い正月休みの最終日にあたり、
イランの庶民は一世に野山に出かけ、家族や友人と弁当を広げ、食べられる
野草をつんで家に持ち帰る。
ところが、この年はイスラム暦の断食月(ラマダン)と重なってしまった。
ラマダンでは日の出から日没までいっさいの飲食は禁じられている。
ホメイニ師が生きていれば当然ラマダンの戒律が優先する。しかし。ホメイニ師
は2年前に亡くなってしまっていた。人々はどちらの暦にしたがって行動する
のだろうか。中東に詳しいH山K太郎氏は興味をもって観察したという。
さてそのH山K太郎氏は、当日イラン人の友人Mと一緒にテヘラン郊外を車で
走らせた。ラマダンになると、日中はタバコも禁止となる。
Mの運転する車の助手席でタバコをくわえていると、MはH氏に
もう少し待てという。車がテヘランの市域を離れたとたん、Mは自分のポケット
からタバコを取り出し、「もう吸ってもよい」と言った。
テヘランからシーア派の生地コムに向かう幹線道路を20キロほど南下すると、
砂漠の中に「ベヘシティ・ザハラ」の墓地が広がる。イラン革命で国王の軍隊
と戦い命を捧げた「殉職者」、イラン・イラク戦争の戦没者などの墓標が整然と
並ぶイランのいわゆるアーリントン墓地である。ホメイニ師の遺体も、この墓地の
一角に葬られてある。ひつぎを治めた巨大な廟が建てられている。
このホメイニ師の廟のドームがはるかに見える幹線道路の路肩に、たくさんの
車が止められていた。野草を摘む人、持参のコンロで茶を沸かし弁当を広げる人、
炭火をおこしてシシカバブを焼いている人もいる。
やはり伝統的習慣がイスラムの戒律に優先されていた。
この野遊びの団らんがラマダンの戒律に完全に違反してるかというと、必ずしも
そうではない。断食の義務を免除される者の決まりがある。
聖なる戦いに従軍している兵士、妊産婦、老人、病人、そして旅行者は
ラマダンの断食の義務は免除される。
そして、旅行者とは、自分の居住する町村を一歩離れれば立派な旅行者である
というのが、野遊びの合法化の方便であった。そうした理屈を受け入れて
断食破りを大目に見るか、厳しく取り締まるかは当局のさじ加減であった。
ホメイニ師死後2年のイランでは、当局は寛容さを選んだのであろう。
(エルサレムは誰のものか、NHK出版)