イランの歴史


イランの地理をおおまかに言うなら、北のエルブルズ山脈から南のザグロス山脈
にかこまれた高原地帯からなっている。そしてイラン高原の中央部には砂漠と荒地
が続いている。
エルブルズとザグロスの山脈に降る雨や雪解け水をなんとか利用しようとして
考えられたのがカナートである。山の麓の水源から地下トンネルで水を引こうと
したのである。地下水道にしたのは、地上に水路を作ると暑さのため水が蒸発して
しまうからである。そして途中のところに縦穴を設けて井戸方式でそこから水を
汲み上げても使っている。このカナートはイランが発祥の地とされ、
しだいに東方に伝わっていった(今もシルクロードに広く見られる)。
こうしてイランから東方のインドや中国を結ぶ各地にオアシスができた。
オアシスが結ばれてイラン高原に交易の道ができた。こうしてシルクロードに
発展していったのである。この道を通って、絹をはじめ宗教や技術や文化が
東西をいききした。イランは文明の十字路と呼んでもおかしくないのである。

イラン高原で最初に国家を建設したのは、アーリア人種のメディア人である。
彼らが呼んだ西南イランの地パルスアから、同じアーリア民族国家のアケメネス王朝
が生まれた。そして古代ギリシア人はアケメネス王朝を、その出身地パルスアに
ちなんでペルシアと呼んだ。これがイランをさす言葉として英語のペルシアとなった。

イランの人びとは、自分たちを昔からイランと呼んだが、これはアーリア人の国
という意味のペルシア語である。

参考にしたのは 宮崎静一:イラン(世界の国ぐにの歴史 全20巻 岩崎書店) 要旨だけメモ的に紹介します。 BC2000ころ アーリア人種がイランに侵入してきた。当時のイラン高原では先住民族が 農耕と牧畜を行っていた。 BC9世紀 メソポタミアとエジプトを統一したアッシリア帝国が誕生し、イラン高原 の北西部に侵入 この地にはアーリア系のメディア人が住んでいた。 アッシリアはメディアから騎馬戦術を学び、メディアはアッシリアから政治組織を学んだ。 BC612 メディアは新バビロニアと同盟して、宿敵アッシリアをせめた。 アッシリアは滅亡しその首都ニネヴェは破壊された。 メディアは新バビロニアの贅沢さに影響され質実剛健さを失っていった。 イランの歴史はメディア人にかわってその南に住むペルシア人がつくることになる。 ペルシアとは辺境という意味であった。 BC550 ペルシア王キュロス(クローシュ)2世は、メディアを倒し、メディアと対立して いたリュディアも倒した。そして新バビロニアも征服してメソポタミアを統一した。 これがアケメネス朝ペルシアである。 BC520 ペルシア王ダリウス(ダリューシュ)1世は、ペルセポリスという、新年の儀式 にしか使わない都を建設した。そこには各地からの使節団が集められ、王に新年の挨拶 をして貢ぎ物を献上する儀式がとりおこなわれたのであった。 BC330 アレキサンダー大王は、ペルシアを滅ぼしペルセポリスを焼き尽くす。 アレキサンダー大王の死後、帝国は部下たちにより分割され、やがてイランには パルティア王国が成立した。 BC115 パルティア王ミトラダテス2世のもとに中国前漢武帝の派遣した張騫の 副使がくる。漢とパルティア国の間に結ばれた交易関係、こうして交易の道が シルクロードとして発展する。 AD226 ササン朝ペルシア建国 AD651 アラビア民族がササン朝ペルシアを滅ぼす。 AD1220 モンゴルのイラン侵入 AD1258 イル・ハン国はじまる。 AD1380 チムールのイラン支配 AD1501 イスマイール、サファヴィー朝を建国 AD1722 サファヴィー朝ほろびる。 AD1796 カージャール朝はじまる。 AD1804 第一次イラン・ロシア戦争 AD1826 第二次イラン・ロシア戦争 AD1891 タバコ・ボイコット運動開始 AD1906 立憲革命がおこり、憲法発布 AD1911 ロシア軍北部イランに侵入 AD1919 イラン・イギリス条約 AD1925 パーレビ王朝(初代国王レザー・シャー)はじまる。 AD1927 不平等条約撤廃宣言 AD1928 治外法権の撤廃 AD1938 イラン縦断鉄道の完成 AD1941 英ソ軍のイラン侵入 レザー・シャー退位 AD1947 アメリカと軍事協定むすぶ。 AD1951 イラン石油の国有化はじまる。 AD1952 イギリスとの国交断絶 AD1962 第一次農地改革はじまる AD1963 白色革命 革命に反対のホメイニ師逮捕 婦人参政権の獲得 AD1979 イスラム革命 ホメイニ師帰国 米国大使館占拠事件 AD1980 イラン・イラク戦争はじまる。 AD1988 イラン・イラク戦争停戦 AD1989 ホメイニ師死去

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