基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

トーマス・マン
            高橋健二

トーマス・マン (Thomas Mann 1875-1955) と
対談した70分間ほど充実した時間は、私の一生
を通じてまたとありません。いくど私はその
ひと時を思い返し、かみしめなおすことで
しょう。それは1953年9月2日の午後でした。
チューリヒ郊外のエアレンバハの駅まで、
カーチャ夫人が車で迎えに来てくださいました。
チューリヒ湖を見おろす丘の上の仮住居に、
マンは住んでいました。

何よりも私は、78歳の文豪が洗練されきった、
それでいてみずみずしさを失わない紳士である
のに、目を見はりました。態度といい、話術
といい、話題といい、この上もなくあかぬけ
していて、しかも相手に少しも退屈さを感じ
させないのです。多彩に豊富に話を展開させ
ながら、くつろぎとやわらぎを断えずただよわ
せているのです。そして話し振りは、その文章
のように、きめがこまかく、しかも程よい間(ま)
とユーモアを保っております。これは人間と
して到達し得る最高の境地の具現のように、
私には感じられました。

対談といっても、ほとんどトーマス・マン
ひとりで話しており、私は聞き役にとどまった
のですから、彼の話の内容は多彩豊富であり
ました。ここではドイツ文学とマン自身の
作品に関する話題をお伝えするにとどめます。

いちばんおもしろく思われたのは、マンが
自分の主要作品をいくらかユーモラスに皮肉
をまじえて位置づけたことでした。
<ドイツでは終始「ブッデンブローク一家」
(Buddenbrooks, 1901) がいちばん愛読されて
いる。自分はあれしか書かなかったら、ドイツ
で最も愛される作家であったろう。フランス
では、「ファウスト博士」(Doktor Faustus, 
1947) が自分の作品の中で最も人気がある。
この長編のフランス訳はなかなかよい。
アメリカでは「魔の山」(Der Zauberberg,1924)
が圧倒的に多く読まれている。>
そういうのでした。たしかに「ブッデンブロ
ーク一家」は2度の敗戦によって転落した
ドイツ人にとって、古いよい時代への郷愁を
ほろにがくあたたかくそそるものでしょう。
そして小説を読む楽しみをじっくりと味わわせ
てくれるからでしょう。これに反し、ドイツの
自己破壊的な傾向をえぐった「ファウスト博士」
がドイツ人に喜ばれず、ドイツによって繰返し
いためつけられたフランス人に喜ばれるのは、
もっともと思われます。「魔の山」はヨーロッパ
的教養の結晶として、新大陸の人々から彼らの
精神の郷土の財産目録のように珍重されるので
ありましょう。<この長編はアメリカのインテリ
層では、欠かしがたい家具調度のように扱われ
ている> と言って、トーマス・マンは笑い
ました。

その時マンは「山師フェーリクス・クルルの
告白」(Bekenntnisse des Hochstaplers Felix
Krull, 1954) を書いているところでした。
この長編は、ゲーテのことばを借りれば、
「まじめな冗談」(ernste Scherze) であります。
波乱に富む知能犯の回想録の形になっている
ユーモラスな小説で、人生と芸術について含蓄
に富む着想を語っています。この小説をマンは
30歳半ばで書き始め、未定稿の形で1922年と
1937年と2度刊行しました。マンはこの作品に
よほど愛着を持っていたとみえ、いくども取り
上げていますが、ことに重く暗い「ファウスト
博士」を書いていた時、山師クルルの話を書き
たい誘惑にかられて困ったそうです。結局
しかしこの大長編は「回想録の第1部」しか
できませんでした。すでに高齢だったのに、
マンは、私の訪問した年に、老らくの恋の中編
小説「欺かれた女」(Die Betrogene, 1953)
を書き、続いて、シラーの死の150年祭に
「シラー試論」(Versuch ueber Schiller, 1955)
という力のこもった講演をしました。それが
命とりになったのか、その8月に80歳でなくなり
ました。

マンは上記のように最後まで張りつめた執筆を
続けました。<仕事をしない生活は自分には
考えられない。仕事をしないことは苦痛だ。
自分は朝から1時まで毎日執筆する。午後は
散歩や、お客とのお茶や、レコードを楽しみ、
夜は翌日の執筆のための読書をする。>
その節度ある不断の精進が、彼の健康と精神の
若さを保たせているのだと思われました。

そうした生活態度をマンは、「アルコールに
ついて」(Ueber den Alkohol, 1906) という
小さい随筆を書いております。酒の勢いをかり
て執筆するとか、酒で創作の気分を作るとか
いうことを、マンは決してしないと言うのです。
<気分とは、熟睡したあとの状態、さわやかさ、
日々の仕事、散歩、清い空気、少数の人々との
交わり、よい書物、平安、平安...> そう
マンは書いています。

マンは1933年にナチス・ドイツを捨ててから、
フランス、スイス、アメリカで不自由な亡命
生活をしながら、大長編「ヨゼフとその兄弟
たち」(Joseph und seine Brueder, 1933-43)
を初めとして、数々の小説や評論を書きました。
断えず仕事をし続けて来た一生を振返って、
マンはみずから慰めているようでした。私も、
よくぞあれだけの仕事をしたものと、静かに
頭をさげました。
    (2月号)   

 

Watzmann と Berchtesgaden
              信岡資生

西ドイツの東南端の、オーストリアとの
国境で、ドイツ領の一部がまるでヘビの鎌
首のようにオーストリア領内へ食いこんで
いるところがあります。インスブルック
(Innsbruck)からザルツブルク(Salzburg)
へ向かって欧州道路(Europastraβe)17号
線を東へ走る車も、この鎌首を横切るため、
ここで税関を通っていったんドイツ領へ入
り、ザルツブルクの手前で再び税関を通っ
てオーストリア領へ戻るという、やっかい
なことになります。鎌首の先端に向かって
南北に細長いケーニヒスゼー(Koenigssee)
が走り、それを囲むアルプスの山々がこの
湖を静かに見下ろしているこのあたり一帯
は、ドイツで最も風光明媚(び)な景勝地の
1つで、夏の避暑地によし、冬のスキー場
によし、古来より四季を通じて数多くの保
養客、観光客を招き寄せています。

この地方の中心であるベルヒテスガーデ
ン(Berchtesgaden)は、12世紀初めに開
かれた由緒ある町です。海抜500メートル
の山麓(さんろく)に位置し、牧歌的な草原、清澄な
大気、温和な気候に恵まれた別荘地で、地
下の岩塩坑(Salzbergwerk)や食塩泉の湯
治場(Solbad)が人気を呼んでいます。ヒ
トラー(Hitler)も1933年ここに宏大な山
荘を建てました。 1938年3月のオーストリ
ア併合を前に、ときのオーストリア首相シ
ュッシュニック(Schuschnigg)と強引に
結んだ「ベルヒテスガーデン協定」(2月
12日)も、この山荘でのことでした。また、
1945年4月のベルリーン陥落の際にも、ヒ
トラーは総統官邸からこの山荘に逃げ籠る
ことを計画したのですが、時すでにおそく、
移転を果たせなかったといわれています。

ベルヒテスガーデンの南にあるケーニヒ
スゼーは、最も美しいアルプス湖の1つ
で、面積5,17平方キロメートル、最深192メ
ートルの湖で、遊覧船に乗って湖上に出る
と、チロルハットに革ズボンの船頭さんが、
サービスに吹いてくれる角笛の音が、周囲
の山壁にこだまして、澄みきった水面に静
かに吸い込まれていきます。湖の奥にある
聖バトロメーウス(St.Bartholomaeus)
の礼拝堂の背後には、ドイツで2番目に高
い山ヴァッツマン(Watzmann, 2,714m)の
東壁が、ほとんど垂直にそそり立っていま
す。(ちなみに言えば、ドイツ最高峰はツ
ークシュピッツェ(Zugspitze)で、2,963メ
ートルの高さです。)

むかし、むかし、このあたりをヴァッツ
マンという王が支配していました。王は悪
政を行ない、暴虐の限りをつくして人間や
動物を苦しめたので、遂に神の怒りに触れ、
王妃と7人の子供と共に、岩山の姿に変え
られ、永遠にその非道のつぐないをしてい
るという伝説があります。

この地方の地勢を読みこんだ俗謡の一節
とその大意を紹介しておきましょう。

Stets schaute Koenig Wazemann
die Reiteralpe zornig an.
Diese warf dann Felsesbrocken
dem Watzmann‐Koenig auf die Socken.
Mit Grimm nun strengte Wazemann
gegen den Nachbarn Rache an.
Entfachtes Toben und Geschrei
lockte auch "Hochkalter" herbei,
und durch sein Schnauben
             gluehend heiβ
schmolz das blaue Gletscher‐Eis,
daβ als breiter Wasserfal1
tosend stuerzt ins gruene Tal......

(ヴァーツェマン王は日頃から
ライターアルペを敵視した
さらばとアルペ、岩を取り
足もとめがけて投げつける
憤怒の形相ものすごく        ゛
復しゅうに出るヴァーツェマン王
激しい両者の雄たけびは
ホーホカルターも巻きこんで
その鼻息の熱風に
青い水河も水と解け
解けて流れて滝となり
緑の谷間にそそぎ落つ…)

Reiteralpe は 2,296m,Hochkalter は
2,607 m, いずれも Watzmann に隣接する
ベルヒテスガーデン・アルペンに属する山
です。 また、Hochkalter の北斜面には
Blaueis と呼ばれるアルプス氷河があるの
です。ダイナミックな自然の争闘に寄せる
里人の畏怖の念が、この素朴な歌にうかが
えるようですね。
    (2月号)   

ヴァッツマン山の名画を描いたカスパール・ダヴィット・フリードリヒ
 しかし、彼はこの地に行ったことがなかったという。

             

 

 

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