ドイツのロマン主義絵画を代表する風景画家。
ドイツ人を日本に招待したとき家に泊めたら、この画家の本をお土産に
持ってきてくれた。当時の東ベルリンで買った来たとのこと。東ベルリンは物価が安い。
特に図書は内容も充実していて安いから、お買い得の商品ということになる。
美術はまったくの素人なのであるが、その本をもらったことを機会に
フリードリヒのことを少し勉強してみた。
そういうわけで、少しフリードリヒについてメモを書いてみよう。
彼はバルト海沿岸の小さな町グライフスヴァルトで生まれた。
20歳の時、彼は故郷を離れコペンハーゲンの美術アカデミーで、当時流行の
新古典様式にふれた。ここでの教育は厳格なだけで、なじめなかった彼は
「すべての訓練指導は人間の精神性を抹殺する」という言葉を残している。
1798年に、ドレスデンに移ってから、生涯をそこで暮らした。
彼は、故郷ポンメルンの親戚訪問と、風景画の題材を求めての北部・中部の旅行
を除いては、ドレスデンを離れなかった。
ドレスデンには「ドレスデン・ロマン派」の作家や批評家のグループがいて、
フリードリヒは彼らとの交流によりその思想をすみやかに吸収した。
しだいに有名になったフリードリヒはプロイセン王家やワイマール公爵などの
パトロンをもつようになった。
ワイマールで毎年開催される絵画展があったが、1805年にフリードリヒの出品
した2点の絵画はどちらも1位になった。ゲーテが高く評価してくれたから。
ドイツはナポレオンに支配され、当時流行のロマン主義が、いわゆる「ゲルマン
らしさ」を強調するための愛国的手段としてもてはやされた。
フランス美術の「人為的な姿勢」に対極するものとして北方的野人フリードリヒ
はドイツ・ロマンのシンボル的存在となった。
フリードリヒは44歳のとき、20歳以上も年下の妻カロリーネを迎え
幸せな家庭生活をおくった。娘2人と息子1人が生まれた。
1825年に脳卒中におそわれ、1835年に重い脳卒中になるまでの10年間に
多くの優れた作品を描くことができた。
死後はほとんど忘れられた存在となった。
19世紀末に象徴主義が流行したとき、再び注目されるようになった。
【ヴァッツマン山】 1824−25年 ベルリン国立近代美術館蔵
フリードリヒはアルプスを訪れたことはなかった。この絵は弟子のアウグスト・
ハインリヒの水彩画にもとづいて描いたのである。
なぜ、ヴァッツマン山という人の名前みたいな山なのか。
ヴァッツマン山の名が人名みたいな訳 伝説の紹介です。
【人生の諸段階】 1835年ころ ライプチヒ美術館蔵
グライフスヴァルト港に入港する船の前でポーズをとる5人の人物が描かれている。
作品中の人物は、人生の4段階つまり幼年期、青年期、壮年期、老年期
をそれぞれ象徴している。フリードリヒの幼い2人の子たちがスウェーデンの旗
で遊んでいて、それを長女が見ている。こちらを向いているのは甥で、老人は
フリードリヒであろうと説明されている。
フリードリヒの出身地グライフスヴァルトはもとスウェーデン領ポンメルン
にあったが、1815年にポンメルンはプロイセンに併合された。
1774 グライフスヴァルトに生まれる 1781 母死去 1787 弟溺死 1794−98 コペンハーゲン・アカデミーで絵を学ぶ 1805 ワイマール展覧会に出品した2点の作品がともに1位入賞 1810 ベルリン・アカデミー会員に選出 1818 カロリーネ・ボンマーと結婚 1825 脳卒中の発作 1835 重い脳卒中発作 1840 ドレスデンで死去