基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

ヘルマン・ヘッセ
             高橋健二

Hermann-Hesse (1877-1962)は南ドイ
ツ Schwaben の Calw に生まれ、南スイ
スのモンタニョーラ(Montagnola)で85
歳で死にました。( Calwの発音は辞書によ
ってまちまちですが、Calwの町役場の文
書課長にききましたら、昔は Calb とつづ
ったので、今も Calb(カルプ)という発
音が残っているとのことでした。)

祖父母も父母もインドで新教の布教に従
ったので、ヘルマンも牧師になるため、マ
ウルブロン(Maulbronn)の神学校(Semi-
nar)にはいりましたが、半年ほどで発作
的に脱走したため、まもなく退学を余儀な
くされました。その前後のできごとが「車
輪の下」に描かれていることは周知の通り
です。脱線したヘルマンは何をやらせても
だめで、自殺をさえ計りました。高校には
いりなおしましたが、教科書を売ってまた
ピストルを買う始末でした。ようやく17歳
の時、カルプの町工場の見習工となり、労
働しながら、独学で文学や語学の勉強をし
ました。翌年、大学町チュービンゲン
(Tuebingen)の書店につとめるようになり、
l899年に処女詩集「ロマン的な歌」(Ro‐
mantische Lieder)を自費で出版しました。
それは一向に認められませんでしたが、そ
の中の「告白」という詩は当時のヘッセの
孤立した悲しい気持ちをよくあらわしてい
ます。

「私の友だちはだれか――
大洋の上空にさまよった渡り鳥
難破した船乗り、羊飼いのいない羊の群、
夜、夢、故郷を持たぬ風など。」

バーゼルの古本屋に移ってから出した詩
文集「ヘルマン・ラウシャー」(Hermann
Lauscher)にも,「そもそも生きることは、
かいがない。目的のない生活は味気なく、
目的のある生活はわずらいだ」としるされ
ているように、悲しい青春をヘッセは送り
ました。しかし、「山のあなたの空遠く」の
詩人カール・ブッセがヘッセの詩集を新進
ドイツ叙情詩人という双書の―冊として刊
行してくれました。ヘッセはようやく詩人
として認められるようになったわけです。

それで、1904年に最初の長編「ぺーター・
カーメンチント」(Peter Camenzind)を、
新しいドイツ文学の推進力となったフィッ
シャー出版社から出すに至って、一躍文名
を高めました。これはドイツ小説の本流と
もいうべき教養小説(Bildungsroman),
あるいは成長小説(Entwicklungsroman)
の典型的な作品で、新鮮な生活感情をもっ
て現代人の生き方を追求しております。自
然児の文明批判は今日でも共鳴される点が
少なくないでしょう。彼は人気作家になり
ましたが、結婚すると、大都会には出ず、
ポーデン胡に近いいなかに引っこんで創作
に専念しました。その産物が、「車輪の下」
(Unterm Rad, 1906),「青春は美わし」
(Schoen ist die Jugend, 1907),「ゲルトル
ート」(「春の嵐」Gertrud,1910)などの小
説と、詩集「孤独者の音楽」(Musik des
Einsamen)です。

作家として順調に行っていましたが、彼
は大きな試練にぶつかりました。 1914年、
第一次大戦が起きるとまもなく、ヘッセは、
詩人や学者まで戦争に感激し、愛国心をそ
そるだけでなく、敵への憎悪をかきたてて
いるのに、黙っていられなくなり、「おお、
友よ、そんな調子でなく!]という評論を
スイスの新聞にのせ、「愛は憎みより高く、
理解は怒りより高く、平和は戦争より気高
い」とはっきり言ったため、ドイツ本国か
ら裏切り者としてマスコミからボイコット
され、生活に苦しむことになりました。し
かし彼は、ドイツの捕虜を慰問する奉仕的
な仕事に献身しました。

大戦が終わると、彼は過去の名声を投げ
うって、ゼロから出発する決意をし、シン
クレールという匿名で「デミアン」(De‐
mian,l919)を出しました。それはトーマ
ス・マンによると、電撃のような強烈な感銘
を、敗戦のため混迷に陥っていた人々に与
えました。「お前のあるところのものとな
れ」そういう原点に帰って、自分の心の声
に従って行こうとする人間の模索を描いを
もので、ヘッセにとっても再出発の起点に
なりました。そのころから彼は水彩画をか
き始め、「放浪」(Wanderung、1920)とい
う詩と文と絵の本を出しました。その中に
も、ヘッセは「自分があるところのもの以
外になりたいと願わない。自分があるとこ
ろのもの、それが故郷だ、幸福だ。」「救い
の道は左にも右にも通じていない。それは
自分自身の心に通じている。」と言ってい
ます。その心境から「内面への道」(Weg
nach lnnen)の小説「シッダールタ」(Sidd-
hartha,1922)を書き、さらに問題的な小
説「荒野のおおかみ」(Der Steppenwolf,
1927),名作「ナルチスとゴルトムント」
(「知と愛」Narziss und Goldmund, 1930),
そして戦争中、ユートピア小説Γガラス玉
演戯」(Das Glasperlenspiel、1943)を書き、
1946年にノーベル文学賞を贈られました。
晩年彼は読者からの手紙に対し、「いくら
か年上の兄弟」「共に悩むもの」として、
心のこもった返事を死ぬまで書き続けまし
た。
    (3月号)   

      

Drachenfels
            藤 田 五 郎

[ブンデスドルフ] Bundesdorf n 「連邦村」
とあだなされる [ボン] Bonn から、遊覧船で
ラインを北上すれば、右手に [デア ランゲ
オイゲーン] der lange Eugen と呼ばれる高層
の議員会館が見えてきます。さらに行くこと
いくばくもなく、対岸に [ズィーベン ゲビ
ルゲ] Siebengebirge n の最高峰、高さ321m 
の山 [ドラッヘンフェルス] Drachenfels m 
が、同名の城を頂いた雄姿を現わしてきます。
この城はいまは廃墟ですが 1117年 [ケルン]
Koeln の大僧正 [フリードリヒ デア 
エーアステ フォン ケルンテン] Friedrich
der I. von Kaernten の築いたもので、ボン
を訪れる者が必ずといっていいほど、杖を
ひく名所です。Drachenfels の山は [バザルト]
Basalt m「玄武岩」と[トラヒュート] Trachyt
 m「粗面岩」を主として産出するために、
14世紀の頃これらの鉱物が Koeln の大がらん
の建築用に乱掘され、特にライン河に面する
西斜面は深い損傷を蒙りました。19世紀には
危険がいよいよ大きくなったので、法律に
よって乱掘が禁止されたのですが、1967年には
50トンもする岩塊が転落するという大災害さえ
生じました。わが名峯富士山も岩塊が崩落する
ために、セメントで斜面を固めるとかいう話
ですが、Drachenfels を今日訪れる者は、高さ
30m に及ぶ足場が組まれて、[アーヘン] Aachen
工業大学が案出した山容保全工事が行われて
いるのをまのあたりに見るでしょう。

この頂きをきわめるには、いまは登山電車が
あってかくべつの苦労もありませんが、十数年
前までは小型のSLがあえぎ上がったもので、
あるときブレーキの故障から脱線転落の大惨事
が起こり、それからいそいで電化工事が進め
られました。むろん徒歩で登頂することもでき
ますし、ロバの背にまたがってのぼる風流を
味わうこともできます。山頂に到れば、南に
北にライン平野への眺望をほしいままにし、
西には [アイフェル] Eifel f の山々を指呼
(しこ)のあいだに眺められます。[ドラッヘン
ブルート] Drachenblut m 「竜の返り血」
という有名な赤ブドウ酒をたしなむのも一興
です。山ろくにはおさだまりのスーベニーア・
ショップが軒を列ね、愚にもつかない
 [キッチュ] Kitsch m「がらくた」を並べて
います。

[ズィークフリート] Siegfried の竜退治に
ちなむ伝説もさることながら、ここの城には
また石の指輪にまつわる伝説もあります。
さきに記した大僧正は、あるとき金にこまって
この城を質草にして、[ゴッダルト] Goddart 
という男から金を借りました。ところが借金
のならわしとて、どうにも返済の才覚がつか
なくなり、とうとう城は質流れとなって
Goddart のものになってしまったといいます。

昔の騎士たちは好んで酒盛をひらいたもの
です。あるとき大酒盛の末に、かれらは
めいめいの指輪をはずし、どれがいちばん
高価なのか、品定めを始めました。なにぶん
自慢の品揃いのこととて、机の上に並べられ
た貴金属はさん然とした光りを放ち、夜空の
星も顔まけする有様でした。ところが主人役
の Goddart の石ばかりは、さっぱり光り輝き
ません。

一同がかつは呆れ、かつは嘲り顔に主人公の
顔を見つめますと、相手はすこしも騒がず、
「貴公らの石は大した値うちはないぞ、わし
の石がいちばん高価なのじゃ」と誇りました。
一同改めて代る代るその指輪を手にとって
みても、何の変哲もありません。かれらの
いぶかり顔を見わたした主人役は、カラカラ
と声高く笑い、「皆の面々、よく眺められよ、
この石こそは Drachenfels の山から切り出
される [ポルフューア] Porphyr「斑岩」じゃ。
これを切り出しては売りとばし、Koeln の大
がらんを建てさせているわけだ。その値うち
はどれほどのものか知られないのだぞ」と
言ってのけたそうです。居並ぶ騎士たちは
あっけにとられましたが、こんな乱掘に今日
の Drachenfels の危機が根ざしたものといえ
ましょう。笑ってすまされない伝説です。
    (3月号)   

             

 

 

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