基礎ドイツ語

ドイツ留学前に数年間、この三修社の雑誌を購読していました。
ドイツ語の能力はさっぱり上達しませんでしたが、ドイツ語の文法の
知識はこの雑誌のおかげで高いレベルを知ることができました。

この記事の転載については、出典を明示し原文を変更しないという条件のもとで、三修社から許可を得てあります。

第24巻第1号−第12号(昭和48年5月−昭和49年4月)

シラーのAn die Freude

        小塩 節

Freude,schoener Goetterfunken,
フロイデ    ゲッターフンケン

Tochter aus Elysium,
     エリュ―ズィウム

Wir betreten feuertrunken,
 ベトレーテン フォイアートルンケン

Himmlische,dein Heiligtum.
ヒンムリッシェ ハイリヒトゥーム

Deine Zauber binden wieder,
  ツァオバー ビンデン

Was die Mode streng geteilt,
  モーデ   ゲタイルト

A1le Menschen werden Brueder,

Wo dein sanfter Fluegel weilt.
ザンフター フリュ―ゲル ヴァイルト

      Seid umschlungen, Millionen!
   ザイト ウムシュルンゲン ミリオーネン

      Diesen Kuss der ganzen Welt!
      クス

      Brueder一―一 ueberm Sternenzelt
              シュテルネンツェルト

      Muss ein lieber Vater wohnen.

                  Friedrich Schiller (1759-1805)

   歓喜に寄す
喜びよ,美しい神々の火花よ,
楽園の娘よ,
わたしたちは火に酔いしれて歩み入る
天なる乙女よ,あなたの聖域に。

あなたの不思議な力はふたたび結び合わせる,
この世の時流がきびしく分け隔てたものを。
すべての人びとは兄弟となる,
あなたの柔かな翼の憩(いこ)うところで。

  百万の人びとよ,わが抱擁を受けよ。
  この口づけを 全世界に!
  兄弟たちよ星の輝く大空の上に
  父なる神はおりたもう。

解説
あまりにも有名な、ベートーヴェンによって
作曲された(第9交響曲合唱)この詩の内容
については、ここで改めて言うまでも
ないでしょう。そこで、言語的な説明だけ
申し上げましょう。「花火」という言葉
は日本語ではきらりときらめく、しかし
小さな、はかない火の粉ですが、ドイツ語
では非常に力強い火の一部と考えられています。
神の本質が火花となって人間の中にとびこんで
精神になる。これはドイツ神秘哲学
からフィヒテにいたる思想です。そういった
歴史的伝統を踏まえたうえで、シラーは
「輝かしいもの」の意味で、この語を
用いています。エリューズィウムはギリシア
のパラダイス(楽園)ですが、そこに住む
天使の翼(つばさ)をした乙女「歓喜」とは、
まったくシラーの考え出したアレゴリーです。
ヘルダーリーン以前のドイツ詩では,アレ
ゴリーは一般にそれほど深い意味はありま
せん。その感じをとらえれば十分です。

第2節で、この世の時流がきびしくへだ
ててしまったもの、というのは社会的人間
関係です。階級制度とも申せましょう。階
級が違えば、結婚も出来ない、そんな古い
因襲にとらわれている後進国ドイツの社会
をシラーは鋭く見つめています。しかも、
それが永遠に続くものではないことを、彼
は確信していたのですから、歴史学者でも
あったシラーのヒューマニズムはほんもの
と言わざるをえません。

第3節のわが抱擁を受けよ、というとこ
ろは、「わたし」の強烈な感情が、噴出す
るように全世界の人びとに向けて語られた
ところです。それまでは理想境での出来事
のような描写だったのが、非常に個人的に
なったのです。ここを、注に記しましたように、
人びとよお互いに仲良くなれ、兄弟に
なれ、とすすめているのだ、というロマン・
ローランの解釈もありますが、それは
彼の自己流解釈でして、そういう解釈は
明白な理由でダメなのです。注にも書き
ましたが、わたしの気持ちを強く表現する
きまった形があるわけで、けっして
Umschlingt euch ! ではないのです。
Seid umschlungen von mir ! なのです。次の
行の[Ich gebe] diesen Kuss der ganzen Welt !
は世界中の人びとの(2格と考えて)あつい
口づけをほめたたえる、ではなくて、「わたし
が口づけを与える」の意志を表明している
のです。 だから1行目も2行目も「わた
し」の意志・感情に間違いないのです。

星空の上に「父」がいる、住んでいると
いうのは、カント的発想ですが、まぎれも
なくキリスト教的思考です。 lieber Vater
という人格的関係はギリシアの神に対して
はありえません。そしてもし、もうそこにいる、
と指し示しているのなら定冠詞 der...と
なるでしょうが、これから紹介するから
不定冠詞 ein...なのです。
    (1月号)   

           O Freunde, nicht diese Toene

      

             

 

 

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