壁解放後のドイツ

10項目プログラム

89年11月28日、ヘルムート・コール首相は
ドイツの分断克服に関する10項目プログラムを提案した。

ソ連の後押し

90年2月10日、ソ連のミハイル・ゴルバチョフ共産党書記長は
モスクワを訪問したコール首相に対して、「統一国家となるという
ドイツ国民の決断をソ連は尊重する」と確言した。

初の自由選挙

90年3月18日、東ドイツで初の人民議会の自由選挙を実施。
ドイツ統一を支持する諸政党が全有効票の4分の3を獲得した。

2+4条約

東西ドイツの外相、およびドイツ全体に対して責任を負う
戦勝4カ国(英米仏ソ連)の外相がボンに集まり、
ドイツ統一の遂行とヨーロッパの分断状況の克服について方針を
打ち出した。

通貨同盟

90年5月l8日、両ドイツ間で経済・通貨・社会同盟に関する条約に調印。
同条約は7月1日に発効した。東ドイツ、ドイツマルクを導入。

新しい連邦州

90年フ月23日、東ドイツの人民議会は、
ブランデンブルク、メクレンブルク=フォアポンメルン、
ザクセン、ザクセン=アンハルト、チユーリンゲンを以前の
ようにふたたび州とすることを決議した。

ドイツ統一

90年7月6日、「統一条約」の完成へ向けて交渉開始。
8月31日、この「国家統一に関する条約」が東ベルリンで
調印された。 10月3日、統一、実現。東西ドイツは
45年ぶりにふたたび一つとなった。
ベルリンは、法的にもドイツの首都に返り咲いた

統一ドイツ初の選挙

90年12月2日、統一ドイツにおける初の国政選挙を実施。
その後、第12回ドイツ連邦議会が開始された。

主権

91年3月15日、ソ連が戦勝4カ国のなかでは一番最後に
2十4条約を批准。
これによって統一ドイツは完全な主権を回復した。

首都決定

91年6月20日、連邦議会は賛成337票、
反対320票で首都機能をベルリンに移転することを決定した。

連合軍の撤退

94年6月18日、アメリカ、イギリス、フランスの西側連合国の軍隊、
49年にわたる駐留を終えベルリンから撤退。8月31日には、
CIS(独立国家共同体)の軍隊もベルリンから撤退した。
   (Deutschland No.5/99)

  厳しかった東欧圏の国境

  ドイツ統一直後の旧東独事情

  私の見てきたベルリンの壁(壁のあった頃)

年表

1945年5月7日/9日 第二次世界大戦(欧州戦線)終結。戦勝四カ国ドイツとベルリン占領。
1945年8月15日 第二次世界大戦(太平洋戦争)終結。
1949年5月23日 ドイツ連邦共和国(西ドイツ)の成立。
1949年10月7日 ドイツ民主共和国(東ドイツ)の成立。
1951年9月8日 サンフランシスコ条約締結。
1952年5月26日 東西ドイツ国境。西ベルリンと東ドイツ国境の封鎖。(東西ベルリン境界は通行自由)
1953年6月17日 東ドイツ政権に対する国民蜂起。ソ連軍介入で鎮圧。
1956年12月18日 日本、国連加盟。
1961年8月13日 東西ベルリンの境界線封鎖。ベルリンの壁建設開始。
1963年12月19日 西ベルリン市民の東ベルリン訪問開始。
1964年10月10日 東京オリンピック開催。
1972年5月15日 沖縄返還。
1989年1月7日 昭和天皇死去。
1989年9月10日 ハンガリー、東ドイツ国民にオーストリア国境開放。
1989年11月9日 ベルリンの壁崩壊。
1990年10月3日 ドイツ再統一。