壁とその崩壊

分断のシンボル

1961年から89年までベルリンを分断していた壁は、
この都市を東西対立の焦点にした。
この壁と、東西両ドイツ間に下がっていた鉄のカーテンは、つまるところ
民主主義の西ヨーロッパと共産主義の中央・東ヨーロッパの間の境界線であり、
ヨーロッパ大陸の政治的分裂のシンボルであった。

鉄条網とバリケード 1961年8月13日

東ドイツは、ベルリン以外の地でも、西ドイツとの境界の監視を次第に
強化した。東ドイツから脱出しようとする人は、大抵ベルリンでそれを試みた。
ベルリンには占領地区境界検問所が81ケ所あった。 60年、これらを通過して
西ドイツに入る東ドイツ市民は15万人近くを数えた。 61年8月12日、
東ドイツの閣僚評議会は西ベルリンを取り巻く境界を封鎖することを決議、
翌13日実行に移した。同日の真夜中以降、人民警察は東ベルリン市民の
西ベルリンヘの出国を拒否。東西ベルリンの境界線に鉄条網とバリケードが
設置される。8月14日正午、ブランデンブルク門が閉鎖された。
  ベルリンの壁20周年のビラ

逃亡者に発砲

これ以後、東ドイツ脱出の企ては、命がけの行為となる。 61年8月24日、
ベルリンの壁で初の犠牲者が出た。東ドイツからの逃亡を企て
国境警備兵に射殺された人の数は合わせて61人。最後の死者は、
89年に壁が崩れる直前に出た。

戦勝4力国の協定

連合国(英米仏ソ連)は71年に「4カ国協定」を締結し、各国はベルリンの
既存の状態を一方的に変更するようなことはいっさい行わないことを
取り決めた。同協定は
また、西ベルリン市民がベルリンを自由に往来する権利と東ベルリンの知人
親戚を訪問する権利を国際法に基づき保証した。
この協定によって戦後初めて、ベルリンの安定した発展の基礎が築かれた。

平和革命の年

89年夏、東ドイツ市民の大量逃亡、始まる。たとえば、プラハにある西ドイツ
大使館に逃げ込んだ人は6000人、また同年9月に開放されたハンガリーと
オーストリアの国境を経由して西ドイツヘ逃げた人の数は数千人にのぼった。
時を同じくして、ライプチヒなどの大都市で大規模デモが発生。
スローガンは「われわれが国民だ!」。
11月4・5両日には東ベルリンで東ドイツ史上最大のデモが発生。
89年11月6日、ライプチヒで行われた月曜デモにはほぼ50万人が参加した。 
この平和革命に押されて東ドイツの指導層は退陣。
旅行の自由に関する新しい規定が誤解を招く表現で発表されたため、
89年11月9日、ベルリンの国境付近に膨大な数の人が殺到。
ついに、壁が開放された。
   (Deutschland No.5/99)

  厳しかった東欧圏の国境

  ドイツ統一直後の旧東独事情

  私の見てきたベルリンの壁(壁のあった頃)