ヨーロッパ旅行記(4)

25回目から30回目まで
 コペンハーゲン、スカンジナヴィア・リンク見学、パリ

ヨーロッパ旅行記 その29

ヨーロッパ旅行記 コペンハーゲン編5
>>10月16日

>>パリの航空スト対策
>>このあおりで本日の予定はおおはばに変更。

午後いよいよ、これから大変
>>2つの班に分けて
>>本日16日のうちにパリに移動する。

最初のグループは添乗員が誘導して行く。

残りのグループは まず食事。
予約していた市内のレストランにバスで移動。

とりあえず
コペンハーゲンの市内の観光をバスの中から行ったが、
中世の雰囲気の市庁舎を始め、 チボリ公園、
クリスチャンスボー城(国会議事堂)など
の前をバスが走ってくれた。

コペンハーゲンの旧市内の美しさに、みんな感動した。

トンガリ帽子のある市庁舎の建物。その回りの広場。
ドイツの町も同じような雰囲気がある。
ベルギーの首都ブリュッセルの雰囲気にも似ていた。

        

本当はコペンハーゲンにきたら
人魚姫の像を見たかったのに。
人魚姫はホテルから遠すぎて行く暇はなかった。

 またコペンハーゲンにいらっしゃい、とガイドさんに言われた。
 もう一度こなくてはと思った。

  ◎日本にもできた倉敷チボリ公園(この旅行の2年後に見学)

  
センスの良いレストランでガイドさんの案内で
11名はワインを飲みながら美味しい食事をした。
ワインも肉もうまい。

せわしい私はこんなときにもレストラン向かいの郵便ポストを写してしまった。

予定では3時までにホテルに戻るので、それまで
ゆっくり食事を楽しむはずだった。
が、もうハプニングが起こっていた。

バスは我々をレストランに運ぶと、 次には
先発グループをホテルから飛行場へ運ばなければならないのに、
運転手が勘違いしたらしい。

彼はホテルに迎えに行くのが遅れた。
その結果、先発グループ一同は遅れて飛行場へ着いた。

その結果、レストランに迎えに来る時間が遅れることがわかった。

 それでは、3時までにホテルに戻れず
約束していたデンマークの建設省のお役人を待たせてしまう。

 そ れ は い け な い
というわけで、みんなをレストランに残して、
団長の私は、とりあえずタクシーでホテルに駆けつけることになった。

ただし一人ではホテルで連絡などに走り回っても効率が悪いから、
メンバーの中の建設省のOBの方2名に、一緒にタクシーに
乗っていただいた。

ホテルには3時前に到着した。

しかし、日本のホテルと違って 会議室の予約の掲示板などなかった。
といって会議室の数はたくさんある。

我々は相手の名前だけ聞いてきたが、会ったこともない。

あわててフロントに行って、そのデンマークの建設省のお役人の
名前を見せる。

しかし、コンピュータで調べ、こういうお方は泊まっていません。

当たり前だ、宿泊客ではない。
このホテルの会議室で講演をするのだから。

何という名前の講演ですか。
誰が約束しましたか。

それがわからないから聞いているのだ。調べてくれ。
というようなことを英語とドイツ語で、思いつくまま
フロントに訴えた。

ようやく、本日の会議室予約表を取り出してきて
これですか、と示された。

「ドボクガッカイ」ああ、それだ、土木学会の名前で予約
していたのか。

始めから知っていれば良かった。

会場はスウェーデンの間ということを聞いて、
みんなで2階に駆けつけた。 3:07に入室。

会場にはOHPの用意もされていて
ともかく、相手に挨拶し
パリの航空ストのため、我々は本日のうちにパリに移動
しなければならない。 この講演が終わったら、すぐ飛行機に乗りたい
ということを ドイツ語と英語で説明した。

わかった 了解。
おまえはドイツ語ができるのか。
ドイツ語でこれから話しをしよう。

私はさらに言った。
バスの運転手の勘違いで、一行はまだレストランにいる。
私は約束の時間に遅れぬようタクシーで駆けつけてきた。
あとの連中は間もなく遅れてくるはずで、もう少し待ってくれ
と説明した。

まあ、コーヒーでも飲んで待っていましょう、
というわけで、部屋に用意されたコーヒーを
セルフサービスでカップに入れて、
我々4人はコーヒーを飲んで待った。

ほどなく通訳に連れて来られた一行が部屋に入り、
3時半から講演ができることになった。

通訳は開口一番 パリの航空ストのため、先発隊はもう出発したし、
残りグループも、この講演が終わりしだい荷物をまとめて
飛行場へ急ぐから、
講演を少し早く終えてほしいと頼んでくれた。

15:00ー17:00の予定が
15:30ー16:30になってしまったけど、
興味深い講演を聞くことができた。

フェーマーンベルト・リンク
すでに書いたように、デンマークのロラン島とドイツのフェーマーン島
の間のフェーマーンベルト海峡を道路と鉄道で連絡する計画。

これは全くの計画段階で、9つの案を比較検討している
ということだった。

実施するには政治家が決めないといけない。
いまは政治家の判断する資料作りの段階であった。

講師は講演の後に
もっと後からくれば良かった。
今回は来るのが早すぎたとも言った。

デンマークは小国なので、経済発展するために
ドイツの工業に期待している。

フェーマーンベルト・リンクが実現すると、
ドイツとの間に便利な交通手段が確保される。

そうなると隣のドイツの大企業がデンマークに工場を作って、
デンマークの経済が活性されるに違いない。

東北自動車道路ができて、みちのくの小さな村や町に
工場が作られ、地元の人が働く機会が与えられ、
地元にも税金がたくさん払われる
ということを考えたら、デンマークの期待が理解できる。

本当にドイツの力は北欧に期待されている。
ドイツの力はこれからますますヨーロッパで大きくなる。

岩手大学のドイツ語の先生は、もっと自信をもって
ドイツ語を教えてほしい。

数年前に、ドイツのミュンヘンからオリエント急行に乗ったら、
東欧へ出稼ぎ者がお土産を一杯もって故郷に帰るのに
出くわしたことがある。
(ゆったりした座席がなかったので途中下車してしまった)

ウィーンのホテルで働いていた婦人はポーランド人だった。
ドイツ語ができると働く場所はいっぱいある。

だからドイツ語を勉強するヨーロッパの国の人は多い。
ドイツ語はますます重要になる。

無事、講演も終えて
ホテルのチェックアウトもすませて
バスに乗るところで通訳ともお別れ。

通訳さんは、このほかにも仕事がふえた。
コペンハーゲンに3泊する予定だったから、
ゆっくりクリーニングを頼んだ人が
2泊になって慌てて自分の品物を受け取ったり、
部屋の鍵の調子が悪く別の部屋に変えられて、その結果
申込時と現在の部屋の番号が変わって、そのため
クリーニングの届かなかった人のために交渉したりと
大活躍だった。

チェックアウトの後バスに乗り、
後は現地の旅行業者(こちらも若い日本人女性)に案内され、
飛行場で航空券を受け取り、パスコントロール(出国検査)の
入口まで案内され、これから先は私は入られませんからと、
そこで別れを告げる。

待合ホールでは出発まで1時間半ある。
そこで買い物、自由行動。

搭乗ゲートがディスプレィに表示されたら、20分前に集合して
乗り込もうということにした。

私が添乗員の役もしなくてはならないので、
もし一番遠い搭乗ゲートにあたたったら、
どのくらい時間がかかるだろう
と心配になって飛行場をすみからすみまで歩いてみる。

重いスーツケースを手押車に載せて、広い飛行場をあちこち
すみからすみまで歩いてみた。

トイレに行きたくなってトイレに行ったら、
個室トイレの中に手押車を入れることができる広さになっていた。
これには感心した。

一人で旅行する時は、荷物から目を離すのが心配。

飛行場の売店もたくさんあって、スーパーマーケットさえあった。
デンマークのお金を残らず使うことができた。

クレジットカードももちろん使うことができる。

みんなも買い忘れたトロルのお土産やセータを買っていた。

結局は搭乗ゲートはほどよい近さの所として表示されたので
移動する時間は十分にあった。

みんなも慣れてスムーズに飛行機に乗り込むことができた。
これで大丈夫。

SASの飛行機で最後のスカンジナヴィアの食事。

無事パリに着いた。

前もって添乗員から渡されていた黄色のカード。
DISEMBARKATION CARD 上陸カード 入国カード。
これを係員に渡すはずなのに、窓口の係員は隣の人と話をしている。

みんなで相談して要求されていないのだから、他の外国人と同様に
そのまま通ってしまった。
先発グループはちゃんと提出したそうであったが。
(このカードは記念にとってあります)

フランス人は時々、こういう手抜きをする。
しかし、フランスの科学も軍事も一流なのです。
いつも真面目な日本人やドイツ人が比較されそうです。

パリのドゴール空港の長い廊下を歩いて
荷物を持って外へ出たら、現地のガイドが待っていた。

バスの運転手は色の黒い人だった。
フランスにはアフリカの植民地
の関係か肌の色の黒い人が多く働いている。

無事ホテルについて、みんなと再会したのは11時ちょっと前。
このホテルはパリ環状線の近くで、凱旋門から近い。
私の部屋からライトアップされたエッフェル塔が良く見えた。

環状線の交差点があるせいか、車の音が一晩中聞こえたが、
旅に慣れた私は、問題なく眠られた。

さて、慌ただしい一日であったが、
ようやく団長らしい仕事をしたと思う。

一瞬だけでも通訳がいなくて、
自分の語学力だけが便りであった。

なんとか、ドイツ語が通じたことは、同行した建設省のOBの方が
十分認めてくれて、以後私のドイツ語は役に立つということになった。

ここにドイツ語の先生がいたら、
なんてデタラメな、文法無視のドイツ語だと思ったかもしれない。
ともかく、会話はコミュニケーションが成立すればいいのだ。

文法無視のサバイバルのドイツ語。

文法に気を使い過ぎて、名詞の性や格変化に気をとられて、
なかなか文章が出てこないよりは、
キーワードをポンポンと口にだす実践的会話で、
ドイツ滞在1年以上を切り抜けた私は、
ノルウェー、デンマークで
ドイツ語が役に立つことを身をもって体験しました。

    ☆     ☆     ☆

ヨーロッパでのドイツ語 
ヨーロッパを旅行するには、ドイツ語も少しは知っていたほうがよろしい。
東欧圏からモスクワにいたる社会主義国では、街角のおまわりさんも、
英語は知らなくてもドイツ語ならわかる人が多いので驚いてしまいます。
モスクワで病気になったら、ドイツ語を知らないと医者に診てもらえない、
とさえ言われます。ロシアでは有能な医師はユダヤ人が現在も多く、
これらの人はドイツ語を話すからです。
 これがイタリアに行けば、北部からローマまでは、すべてドイツ語で
なんの不自由もありません。ずっと南のほう、長靴のかかとのあたり
まで行くとそれほどでもありませんが、それでもドイツにGastarbeiter
として出稼ぎに行っていたという人たちは、喜んでドイツ語を話してくれます。
むろん土地のことばを、片言でもいいから話せばそれに越したことは
ありませんが。
 ただ率直に言って、かつてナチス・ドイツによってひどい目にあった
お隣りのオランダとデンマーク、それに東欧のポーランド。
この国々の人は今でもドイツ語はよくわかりますが、あまりうれしそうな
顔をしないので、私はそこではドイツ語を使わないようにしています。
同じスカンジナヴィアでもノルウェー、スウェーデン、それにフィンランド
ではドイツ語が大歓迎です。ドイツ・マルクの強さもその一因でしょうが、
歴史的背景もあります。
   (小塩節:ドイツ語続コーヒー・ブレイク、日本放送出版協会)

小塩節先生はテレビのドイツ語会話でおなじみの先生でした。
小塩先生にことわって、ドイツ語コーヒー・ブレイクのページも作ってみました。

   

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