サンダカンまで  山崎朋子

山崎朋子が「サンダカン八番娼館」を書くにいたった彼女の自伝。
山崎朋子は底辺女性史の研究家と自称する。
底辺で苦労してきたからゆきさんのことを書いて、やがて出版社から、
そろそろ他人のことでなくて自分の伝記を書いたらどうかと勧められる。
彼女はずっと断ってきた。
しかし、最愛の夫の強い勧めがあり、加えて年齢が高くなって今まで心の奥に
こだわっていた、自分の顔をナイフで傷つけた男のことを気にせず
自伝を書ける心境になったので書いたという。

そんなにまで彼女の心に傷つけた、彼女の人生をすっかり変えた事件とは。
彼女には愛し合って同棲していた男がいて、彼は朝鮮民族解放活動家であり、
時代の動きにしたがって彼のために身をひく決意をする。
彼と別れて、喫茶店で働いたり写真のモデルをして生活費を稼ぐ。
ウェイトレス仲間と一緒に代々木八幡駅から遠くないパン屋の二階に
借りていたとき、喫茶店に現れた姿の良い人当たりの良い青年にひかれ
交際をしたが、やがて彼の言動にうその多いことに気がつく。
彼女から借りたお金は返さないし、母性本能を動かすため銀行強盗を行うという
作り話を彼女にして、彼女が彼を支えないといけないという気持ちにさせたりする
テクニックに気がつく。
彼女が自分から去っていくことを予感した男は、彼女の顔をナイフで傷つければ
写真のモデルにもなれず諦めて彼のところから離れないだろうとよからぬことを
考えて、帰宅途中の彼女を代々木八幡のガード下で襲う。

若い女性にとって顔を傷つけられたことは、その悲しみはとうてい想像できない。
しかし、そんな彼女にもプロポーズをしてくれる立派な男性もいた。
働いていた喫茶店の経営者で、有名な大学を卒業していた。
しかし、志をいだく男にこそ憧れていた彼女は、別れた朝鮮籍の元の夫に対しても
言い訳のできる自分の納得する相手を求めて、世間的には申し分のないプロポーズを
断ってしまう。

やがて、彼女の前に専門学校出の結核やみあがりの人間的に立派な男が現れ、
彼の両親の生き方にも共鳴するものを感じて結婚する。
その後、夫の深い理解と家族の協力があって、ついに彼女は
誰もが聞きえなかったからゆきさんの身の上話を聞いて、本人の了解の上に
本に出すことに成功する。

顔を傷つけられながらも、彼女の最大の理解者である上笙一郎(かみしょういちろう)と 幸せな結婚をして、何か自分をうちこむものを見つけたいと女性問題の研究会に加わった。 彼女がそうそうたるメンバーの日本婦人問題懇話会に入って勉強していたとき 忘年会の席で、酒も出て話題が男女の容貌に移ったとき、隣に座った女性が 一種のストーカーに襲われ傷つけられた彼女の顔をしげしげとのぞきこみ 「その顔の傷はどうしたの、傷はいくつあるの」と言いながら、その顔を手でなぞったという。 この失礼な女性のことを彼女はあちこちの本に書いている。 最高学府を出て大臣にまでなったエリート女性だが、人の心を思いやることのない人間。 その憤りを作者は何度も書いていて、 (した方は忘れていても、された方は30年たっても忘れない) エリート女性は強かったから、弱い人の立場や差別される立場は理解できないと結んでいる。 当然なことだろう。 そして、この怒りと悲しみが、 彼女に天草に行ってからゆきさんだった文盲の女性と一緒に暮らしながら 彼女らの薄幸の人生を活字に残す仕事のエネルギーとなったのだ。 作者は何度も書いている。 夫の母親は死ぬまで嫁の顔の傷のことは「どうしたの」と聞かなかった。 作者を3週間も泊めてくれ一緒に暮らした元からゆきさんのサキも 決して彼女の身の上を訊ねなかった。 「自分が話さないものを、どうして他人の私が訊ねてよいだろう」 無学な彼女らの方が、最高学府出のエリート女性より人間的に立派だった。 傷ついた体験をして弱い立場になった作者だから、底辺の人の気持ちが分かるのでしょう。 この本では、彼女の顔を触った無礼なエリート女性を さすがに名前こそ出さないが、その人の自伝の書名を書いている。 これではインターネットでわかってしまう。 この本の終わりの方に、サンダカン八番娼館の本ができるまでの裏話がある。 最初に原稿を持ち込んだC社ではうまくいかなかったのだが、 C社は新聞に身売りして出版社の性格が変わった上、関係編集者も亡くなったから と断って作者は書いている。 C社の出版部長は彼女に言った。 この本は売れます。しかし、この原稿のままだと固すぎるから、書き直してほしい。 プロローグとエピローグは削ってください。 からゆきさんたちの性的体験を具体的にもっと詳しく書いたらよくなります。 題名も「サンダカン八番娼館」より「ある海外売春婦の告白」の方が良いな。 あまりにも読者の性の好奇心にこびる姿勢と、彼女の書きたいこととのずれを 感じてうんと言えない。 彼女は底辺女性たちのことを書きたいのに、売春婦は多くの男性との性的交渉 に恵まれた幸福で解放された自由な人間ととらえられかねない。 それでは困ると考えた彼女はこの出版社から原稿を返してもらう。 それから一年半後に、本郷の古書店主の紹介で、筑摩書房を作った臼井吉見氏に 会うことができ、臼井氏から相馬黒光*についての原稿を書くように勧められ時に サンダカン八番娼館の原稿を代わりに見せることで、ようやく1972年5月に 出版の運びとなる。 この本は売れに売れて、翌年大宅壮一ノンフィクション賞を受賞し、 さらにその翌年には映画化される。田中絹代と栗原小巻 この本はタイ語、韓国語、英語に翻訳された。 彼女にテレビ局からレギュラーとして出演しないかという誘いがあった。 テレビに出れば収入も増え有名になるが、底辺女性史研究の本質に 反すると考えた彼女はこの申し出を断る。 社会の底辺で人生の辛酸をなめてきた人は、馴染んでもなかなか人を信用しない。 つきあう時間をたくさん重ねてからでないと本心はうちあけないであろう。 テレビに出て有名人になることは、底辺の人の心から離れていくことになるのだろう。 私もそれでよかったと思う 潜水艦の艦長だった父を失い、山崎朋子は終戦後に母の実家に身を寄せる。 そこで、封建的な価値観をふりかざす祖父に反発して、女に勉強はいらないと言われ、 夜8時に消灯させられた生活の中から、新しい生き方を求めていった。 今の親がものわかりすぎるのは、子どもにとってよいことではないと書いている。 (別の本では、彼女はその田舎暮らしを徹底的に批判していた。がそれがあったから今日の彼女があるのだ) テーゼがあって、はじめてアンチテーゼが成り立ちうる。その基本となる物差しが しっかりしていなくては、それに従うこともできなければ、それに反発して別の物差しを作っていくこともできない。 子どもの人格形成のために、子どもに迎合してはいけないという彼女は、最近の 自立できない若者たちとその親たちに怒っているようだ。 (わたしがわたしになるために)

この著者のアジア女性交流史の本に書いてあった中から、黒光のことをメモしておく。
相馬黒光(良)は仙台藩士の娘で、明治女学校を卒業してから
クリスチャン相馬愛蔵の妻となる。
荻原守衛(碌山)に影響を与えたと言われる。 安曇野に碌山美術館がある。
本郷に中村屋を開店し新宿に移ってから、自宅をサロンとして解放し、
荻原碌山・中原悌二郎ら若い芸術家たちやインドの独立運動志士ラス・ビハリ・ボースを支援した。

      「サンダカン八番娼館」

      日本人墓地公園