黄信徳
  韓国の女子教育界の重鎮

朴順天、黄信徳、山川菊江

朴順天と黄信徳は日本行きの船の出る釜山で偶然知り合ってから、朝鮮女性の教育の
ために生涯努力を続けた。二人は婦人開放運動の先駆者であった山川菊江
を大正12(1923)年に訪問した。

朴順天と黄信徳が日本に朝鮮女性のため女学校を建てるため
昭和15(1940)年、相馬愛蔵黒光夫妻に資金援助を頼みに行ったところ
黒光はこころよく1万円を与えた。
思いがけぬ相馬黒光の資金援助に喜んだ二人は即土地と建物を手に入れ
昭和15(1940)年10月に東京に京城家政女塾という学校を創設する。
3年後の昭和18(1943)3月に最初の卒業生を送り出した。
その1ヶ月後、原因不明の火事で校舎が全焼する。
幸い教育勅語が焼けなかったため、特高刑事に謝って許してもらう。
昭和19(1944)夏に新校舎を建てることができたが、昭和20年には
この学校の女学生も女子挺身隊として工場に働きに行かねばならなかった。

終戦になって、二人は朝鮮に帰り、彼女たちが作った学校は
中央女子中学校と中央女子高等学校としてソウルにある。
彼女たちがどうしてソウルに学校の土地を得たか。
それは、彼女たちが留学した日本女子大の卒業生の同窓会「桜楓会」で
知り合った小林けい子が、植民地下の朝鮮の有力な日系デパート丁字屋の
一人娘であった。それが縁で小林けい子は京城家政女塾の無給講師
をつとめてくれた。
敗戦で丁字屋も日本に引き揚げなければならなかった。
丁字屋には店舗の他、二千坪の屋敷を持っていた。金持ちの朝鮮人が多数
自分に売ってほしいと申し入れに来たが、小林けい子は誰にも売らず
朴順天と黄信徳に「私の家と土地をあなた方の学校に寄付する」と伝えた。
こうして小林けい子の好意で土地と建物は学校施設として使っていたが
やがて朝鮮戦争が始まり釜山に疎開せざるをえなかった。戦争も終わり
ソウルに戻ると、学校はアメリカ軍が使用していた。そこで所有権を立証して
返還してもらったが、その後のソウルの市街地発展にともない、二人はその土地を
売却し、その代金で広大な校舎を獲得し、大きな学校にすることができた。
朝鮮の女子教育に力を貸した相馬黒光と小林けい子は、忘れられない日本人女性である。

日本に学校を作ったときから朴順天は陰に隠れ、黄信徳が校長であったのは、
政治活動をした朴順天の獄中体験ゆえ、日本の法律で教壇に上られなかったから。
戦後に朴順天は韓国の国会議員に選出された。
黄信徳は教育の道ひとすじに歩んだ。

アジア女性交流史