仙台駅前の書店で、インターネットの本や構造解析の本を見て疲れたので、
例によって、勝手な理解ぶりをここに紹介します。
仏教書コーナーをのぞいたら、尊敬するひろさちや氏の著書がずらり並んでいました。
一番新しくて読みやすい本を買ってきました。
取り越し苦労
飢えたロバがいました。腹をペコペコにすかしていたのですが、幸運にも
乾し草の山を見つけました。だが、2つの乾し草の山を見つけたのです。
それは不幸なことでした。
ロバは「どちらを食べればよいかの?」と迷ってしまったのです。
どちらを食べてもいいのだから、ちっとも迷う必要はない、と思うかも
しれませんが、それは大きな間違いです。
迷いというものの本質は、迷う必要がないから迷うのです。
たとえば、昼めしに鰻重を食べるか、お寿司を食べるか迷います。
それは、鰻重を食べても、お寿司を食べても、どちらでもいいからです。
迷う必要がないから迷うのです。鰻の嫌いな人は、迷わずお寿司を食べるでしょう。
人間は「未来」に対しても迷います。それは未来が「わからない」からです。
私は(ひろさちや氏のこと)20年間、大学の先生をしていました。
理科系の大学で哲学を教えていました。哲学の先生だからでしょうか、
ときどき人生相談に来る学生がいました。
その学生の迷いは、この大学をやめて他の大学に行こうか、それとも
この大学をこのまま卒業しようか、というものが多かったのです。
「好きなようにしたら....」と、私が言いますと、「自分が何が好きなのかが
わからない」と学生たちは答えます。彼らは、「この大学に残ると、
自分の未来はどうなるか」「他の大学に移れば、自分の将来はどう変わるのか」
それを知りたいと思っているのです。それも正確に予測したいと思っています。
でも、そんなことはわかりません。
「いろはかるた」に、「一寸先は闇」というのがありますが、まことに
私たちの将来は、一寸先がわからないのです。日本経済がどうなるか、
1ドルが80円になるかならないか、そんなこと、私たちにはわかりません。
いや、それどころか、その学生の寿命がどれだけか、予測なんて不可能です。
ひょっとすれば彼が翌日、自動車事故で死ぬかもしれないし、東京に直下型の
大地震が起きて、東京都民が一人残らず死んでしまうかもしれません。
だから、この大学をやめたほうがいいのか、やめないほうがいいのか、
誰にも予測できないのです。
私は、人生相談に来た学生に言いました。「迷っているなら、サイコロで
決めなさい。2つのサイコロをころがして、丁が出たらやめる、半が出たら
残る。そう決めるといいよ」 そうすると、たいてい学生は怒りますね。
「先生、ふざけないでください。ぼくはまじめに相談に来ているのです」
2つの乾し草の山を見つけたロバの話にもどりましょう。
ロバは最初、右の乾し草がおいしそうだと思ってそちらに歩いて行くのですが、
途中で左の方がうまそうだと考えて、それで左に行きます。しかし、左に向かって
歩いているうちに、やはり右の方がいいと思い直して再び右に引き返す。
すると、こんどは左の方がうまそうに思える。それで左に向かう。
そうしているうちに、とうとうロバは翌日、2つの乾し草の中間で飢え死にをした。
そういうオチがついている話です。愚かなロバです。
しかし、わたしたちは、このロバを嗤(わら)えません。
わたしたち自身、このロバと同じ迷いを迷っているからです。
どちらを食べても同じなのに、だからちっとも迷う必要がないのに、
それを迷いに迷って苦しんでいます。それが人間なんです。
実は、その問題を、われわれは『般若心経』に聞いてみたいのです。
『般若心経』であれば、そのような問題にどう答えるか? それがわれわれの
テーマなのです。
たとえば、あなたが癌を宣告されたとします。あなたが癌にかかって、あと1年の
寿命と言われたとします。そのまま何の治療もしなければ、1年の寿命しかない。
しかし、放射線療法をすれば、ひょっとしたら癌を克服できるかもしれません。
だが、その成功率は7パーセントです。さあ、あなたはどうしますか。
放射線療法を受ければ、いろんな副作用があるようです。頭髪が全部抜け落ち、
肌にはしみが出てきます。全身にむくみが出てきます。そして、精神的にも
げんなりとし、虚脱状態になるようです。そうなることを覚悟で、成功率
7パーセントに賭けて、あなたは放射線療法を受けますか?
それとも、まあ普通の状態で死んでゆきますか?
そこで、迷いが生じます。いや、迷いが生じる人がいます。でも、言っておきますが、
私は迷いませんよ。私はそのような状況に立たされたら、ためらうことなく治療を
拒否します。普通の状態で死んでゆくことを希望します。
けれども、この点を誤解しないでほしいのですが、それが『般若心経』の教え
ではありません。『般若心経』は、頭髪が全部抜け落ちて、見るも無惨な姿に
なって生きるよりは、むしろ人間らしい姿のままで死ぬほうがましだ
と、そんなことを教えているのではありません。『般若心経』が教えている
ことといえば、そんなことはどっちだってかまわないということです。
そんなことにこだわるな、というのが、『般若心経』の教えです。
オランダ人画家の格言
キリスト教のイエス・キリストも
「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイによる福音書6)
と言っています。
私たちは、取り越し苦労をやめて、今日のことだけ考えていればいいのです。
だから、癌を宣告されたとしたら、そのときに迷えばいいのです。
そういうときには誰だって迷うのですから、そのときになってしっかりと
迷えばいいのです。それが『般若心経』の教えです。
私は迷わない、といったことは、考えてみると『般若心経』の教えに反する
ものです。『般若心経』がわれわれに教えてくれているのは、迷っていいのだよ、
大いに迷いなさい、ということです。それを、偉そうに私は迷わない、と断言する
なんて、もってのほかです。
われわれは、もし癌を宣告されたらどうしよう...と、なにも取り越し苦労を
する必要はありません。浪人生が、来年も受験に失敗したら....と思い悩むのも、
取り越し苦労です。いっさい、取り越し苦労はやめましょう。
私たちは、取り越し苦労はやめて、そのときになって真剣に考えればいいのです。
人間の物差しはゴム紐だ
子どものテストを見せられたお母さん、なんと90点という点数に
すっかり喜んでしまった。
ところが、よく聞くと、クラスの平均点は93点だったという。
とたんにお母さんの顔色が変わった。平均点以下なんてがっかりだわ。
お母さんの気持ちもわからぬわけではないが、せっかく子どもが
90点もとったら、すばらしいじゃありませんか。
よくやったねと声をかけてあげてもよかったのに。
お母さんの物差しが、状況によって変わってしまったのです。
ここに1000万円の札束があります。わたしがこの札束を見ると、
「わあー、すごい大金!」と思います。けれども、同じ札束を
どこかの政治家が見れば、「なんだ、こんなはした金!」と思うはずです。
同じ札束が見る人によって違うのです。
見る人が同じでも、そのときの気分によって同じものが違って見えます。
90点をとった子どものお母さんの気持ちが変わったように。
実際にあたなが1000万円のお金を手にすると、「そりゃあ、昔は、
1000万円は大金だと思っていた。でも、いまじゃあ、1000万円ぐらい
あっても、何もできないさ。税金はとられるし、それに家の修理をしたり、
息子の大学の入学金を払えば、あとは何も残らない。せめて5000万円
ぐらいでないと”金”とは言えんよなあ....」となります。きっとそうなります。
お釈迦さまは、人間の欲望の本質は「渇愛」だと言われました。
渇愛は、ちょうど救命ボートで海を漂流している状態に似ています。
のどがカラカラに渇いていて、水が飲みたくてたまらない。しかし、真水は
ありません。それでしかたなく、海水を飲みます。
すると、ますますのどの渇きをひどくさせます。
つまり、われわれの欲望を充足させると、かえって欲望が膨らむような欲望
そうした欲望を「渇愛」といいます。お釈迦さまは、われわれの欲望は、
本質的にそのような「渇愛」だと言われたのです。
100万円あったらなあ、と思う人が100万円を手にしたら、もっとほしくなり
でも、もっと先を望むことは、場合によっては悪いことではない。
医学でも工学部も農学でも、新しい技術をうみだして、人類に成果をもたらす
もちろん、ひろさちや氏がいうところの欲望は自分だけよくなろうとしたり、
500万円あったらなあと思うだろう。そして、500万円が手に入れば、
1000万円あったらなあと欲望ははてしがない。人間なら誰でもそうだろう。
水泳の練習をしていて、全然泳げなかった人がやっと5メートル泳げるように
なったら、元気が出て、よしもう少し泳げるようになろうと練習にはげむ場合は
よい欲望であろう。本人もむりがなく、上達するごとに喜びを感じるから。
ことは結構なことである。
それは自分の欲望というよりは、もっと大きな良いことの実現ということになる
のであろう。
とうていかなわぬ欲望にとりつかれ、ただ自分を苦しめるだけの欲望のことを
さしているのでありましょう。
”幸福とは何か”を知らない人の悲劇
あなたは幸福になりたいですか....? なんて馬鹿げた質問でしょう。
誰だって幸福になりたいにきまっています。幸福になりたいですか?
などと、わざわざ訊く必要はありません。
ですが、わたしに言わせると、現代日本人が本当に幸福になりたいと思っているか、
だいぶ疑わしいのです。どうも昨今の日本人は、不幸になるように、不幸になるように
努力しているように見えます。不幸になるように努力するなんて、そんなことするはずがない、
と言われるかもしれません。でも、たとえば日本人は、みな長寿を願っていますよね。
長生きできるように努力しています。ところで、お聞きしたいのですが、長生きは幸福ですか?
長生きすると、人間は幸福になれるのでしょうか。
人間の体というものは、年をとると自然に衰えてきます。胃腸なども機能が低下します。
だから、消化に悪いものは食べられなくなる。
すると、うまくしたもので、歯も悪くなり、抜けてしまったりします。
ところが、立派な人工義歯ができると、若い人と同じようにバリパリ食って、
そのために胃腸に負担をかける...といったようなことはないでしょうか?
ともあれ、医学や科学の発達によって、寿命が長くなり、人間の生活は快適になりました。
山海の珍味が食べられ、冷暖房完備で、テレビによって居ながらにして世界のあちこちの
土地を旅することができます。そういうふうになって、われわれの生活水準は向上しましたが、
しかし、人間は幸福になったでしょうか....? 幸福になったと断言するには、
やはりどこかためらいがありますね。
じつは、この問題は、「定義」の問題なんです。
いったい、幸福とは何か? わたしたちは幸福になりたいと願っていますが、
何を、どういう状態を幸福と考えているのでしょうか....?
それがはっきりしないと、幸福になれません。
わたしはインドで、インド人から最近のジョークを教わりました。
日本人がインドに来て、漁業講習会を開いてくれた。こういう道具・機械を使って、
こんなふうにして魚を獲ると、現在の二倍も三倍も魚が獲れると教えてくれた。
出席したインド人は感心した。ところが、一人のインド人が質問した。
「なるほど、そのようにすれば、二倍も三倍も魚が獲れそうだ。
だが、二倍も三倍も魚が獲れて、それでいったいどうなるのか?」
予期せぬ質問だったが、日本人はともかくも「そうなると、お金が儲かる」と答えた。
インド人はさらに質問をする。「じゃあ、お金が儲かってどうなるのか?」
「暇ができる」
インド人はさらに追及してきます。
「なるほど、暇ができるというのはよくわかる。それじゃあ、われわれはその暇をどうして潰せばいいのだ?」
日本人は「ゴルフでもすればいいじゃないか」と言おうと思ったのだが、
どうもインドの漁民にゴルフは似合わないから、こう答えたそうです。
「それじゃあ、魚でも釣っていればいいでしょう」
このジョークを話してくれたインド人は、ここで「あはは...」と笑ったのですが、
わたしは笑う気になれませんでした。なんだか日本人のエコノミック・アニマル
ぶりがからかわれているように思えてなりません。
インド人は、貧しいけれど幸福なんですよ。いや、貧しいが故に幸福なんです。
ところが、幸福とは何かを知らない日本人は、あるいは幸福について、お金が
あるのが幸福だとまちがえている日本人は、インド人を不幸だと思っています。
そこに食い違いが生じるのです。これは悲劇です。
お金がないよりは、あったほうがよい。あの野村胡堂だって授業料が払えず大学を中退した。
資本主義社会の中で、日本人は老いも若きも、ほしいものに取り囲まれている。
ここでは、買い物をしたり、食事をしたりするだけでも、お金はどんどん出ていく。
しかし、インドの漁民の場合、お金はそれほど必要ではないかもしれない。
日本人ばかりでなく、中国人もお金にはこだわる民族だ。死んだ人を弔うにも紙のお金を燃やす。
しかし、お金は手段であって目的ではない。人生に目的は別にもたなければならない。
われわれは人生の忙しさにかまけて、生きる意味とか、幸福とは何かを考えていないようだ。
二つの幸福感
わたしたちは幸福になりたいのであれば、まずしっかりと幸福とは何かを
知らねばなりません。幸福とはどういうものかを考えてみましょう。
そうすると、どうやら幸福には2種類あることがわかります。
その1つは「競争の勝者に与えられる喜びから得られる幸福」です。
これはまちがった幸福感ですが、現代日本人はたいていこのまちがった幸福感
に毒されています。だから、日本人は幸福にはなれないのです。
そして、もう1つの幸福は、「ほとけさまが与えてくれる幸福」です。
これが本当の幸福なんです。もちろん、『般若心経』が教えてくれる幸福は、
この本当の幸福なんです。『般若心経』は、わたしたちがどうすれば
この「ほとけさまが与えてくださる幸福」を手に入れることができるか、
その方法を教えた経典なんです。
たいていの日本人は、競争の勝者が感ずる喜びが幸福だと錯覚しているのです。
わたし(ひろさちや氏のこと)は、これに「競争型幸福感」と命名しています。
これではしかし本当の幸福感は得られません。
なぜなら、二人が競争すれば、一人は勝者になり一人は敗者になるからです。
勝者が幸福になれるということは、一人は不幸になるのです。
しかも、競争の勝者も、永遠の勝者ではあり得ません。必ずいつか転落します。
すると勝者は、勝者でいるあいだは未来の転落を怯えて暮らさねばなりません。
そして、転落した暁には、敗者の不幸を味わわねばならない。
それで幸福といえるでしょうか。
いま日本人は金持ちになれると幸福だと思っています。
金持ちになっても、自分より上の金持ちがいれば、その人に羨望の気持ちが
出てきますから、幸福にはなれません。そして、金持ちは未来の転落の不安に
怯えて暮らさねばなりません。どう考えても幸福じゃないですね。
そこへ行くと、「ほとけさまのくださる幸福」は本物の幸福です。
この幸福は、誰にでも与えられる幸福です。百人が百人、幸福になれる幸福です。
勝者には与えられるが、敗者は泣かねばならない、といったものではありません。
では、「ほとけさまのくださる幸福」とはどういうものでしょうか?
われわれはどうすれば、その「ほとけの幸福」が得られるでしょうか?
簡単です。自分と他人を比較しなければよいのです。
比較しないということは、物差しを使わないことです。わたしたちは事物を
見るとき、物差しを使います。物差しを使わないと判断できないのですが、
しかしわたしたちの持っている物差しはゴム紐の物差しです。
そんなゴム紐の物差しでもって、自分勝手な判断をしているのです。
ゴム紐の物差しを捨てて、自分と他人を比較しないようにすれば、わたしたちは
簡単に幸福になれるのです。その幸福が、「ほとけさまのくださった幸福」です。
では、どうすれば、わたしたちにゴム紐の物差しを捨てられるでしょうか。
それは、わたしたちが、「いまある、このままの自分」に満足すれば
いいのです。いまある、このままの自分が、ほとけさまのくださったものだと
気づき、それに満足できれば、たちまちわたしたちは幸福になれるのです。
私も昔、このことに気がつきました。他人と比較したら、どんなに天才でも
今のままの自分で、向上心があるなら努力してみて、そしてそこそこの結果に
きっとその人を上回る人がいるから、そういう比較をしていてはたいてい不満が
たまってフラストレーションにおちいると思います。
満足できれば、それは幸福なのでしょう。
(ゲーテがファウストで書いているように、努力する者は迷うものなのです)
(もっともっとと努力していながら、なかなか満足できないものなのです)
(このままの自分に満足できたら、それができたら、悟りをひらいたことですね)
中道とは「いい加減」精神
わたしの嫌いな言葉に、”がんばる”があります。
実はこの言葉が嫌いになったのは最近のことで、それまでは平気でよく使っていました。
がんばるという言葉は、本当は悪い意味です。辞書を引けば3つの意味が書かれてあります。
1.他の意見を押しのけて、強く自分の意見を押し通す。我を張る。
例「ただ一人反対意見を述べてがんばる」
2.苦しさに負けずに努力する 例「子どもが大学を出るまでがんばる」
「負けるながんばれ」
3.ある場所に座を占めて、少しも動こうとしない。
例「立ち退きをせまられたが、最後までがんばる」「守衛ががんばっている」
こうしてみると、”がんばる”っていやな言葉ですよね。
1のがんばるはよくない。どうも日本人は、自説に固執しすぎます。
会話のとき他人の話を聞かずに自分の意見ばかり述べている人が多いですね。
そうかと思うと、大筋では同じ意見なのに、ほんのちょっとした違いを青筋立てて
議論しています。日本人はよく白黒をつけると言いますが、白黒をつけるということは、
自分の意見は白(100点)、相手の意見は黒(0点)ということですね。
そんなケースは滅多にありません。たいていの場合、自分の意見が80点とすると、
相手の意見は75点くらい、つまりどちらも灰色ということです。
そうだとすると何もがんばる必要はありません。
3の”がんばる”もよくないです。満員電車の中で、隣の人がほんのちょっと
腰をずらしてくれると、お互いに楽に座れるのに、てこでも動くものかとがんばって
いる人がいます。あれはよくないですね。
それじゃ、2の”がんばる”はいいだろう。つまり、苦しさに負けずに努力する、
これはいいことだろう。そう思うかもしれません。
けれども、そうではないのです。どうして苦しさに負けていけないのですか。
第一志望の大学に入れなくて、3年も4年も浪人して、初志を貫徹する。
どうしてそういうがんばりが立派なのでしょう。2度くらいの失敗でやめて、
第二志望、第三志望にすればいいのです。そのほうがのんびりと生きられますよ。
仏教においても、「初志貫徹」という考え方は否定されています。
天台宗の開祖最澄は、若いころに「願文」を書いています。これは決意表明です。
わたしは、わたしの眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が仏陀と同じく清浄に
ならないあいだは、世間に出て活躍しない。
しかし、最澄は気がつきました。いくら修業をしても仏陀と同じように清浄になる
なんてことは絶対にありえない。
かりにそれが可能だとしても、おそらくそのような境地に達するためには、
とても時間がかかります。ようやく80歳になって、90歳になって、
そうなれるかもしれません。しかし、それでは、その悟りを人々に伝えることはできません。
「己を忘れて他を利するのは、慈悲の極みである」と考えて、最澄は
自分の修業に50年も60年もかけるエゴイズムを捨て、世間に出て人々のために
活躍したのでした。
登山の場合も同じです。なにがなんでも山頂に登ろうとするのは危険です。
台風が来たり、体の調子が悪かったりすれば、途中で下山するほうがいいのです。
山登りのベテランはそういう知恵が働きます。
なにがなんでもと山頂をめざし遭難するのは、おおむね素人の初志貫徹派です。
では、どういう言葉がいいでしょうか。
わたし(ひろさちや氏のこと)は大阪生まれだから、「ぼちぼちやりましょうよ」
が好きです。
それから”いい加減”というのも、いい言葉ですね。
もっとも、この”いい加減”は「無責任なさま。徹底しないさま。中途半端」
の意味で使われていて、あまりよくない言葉に思われています。
しかし、この言葉は、仏教の「中道」にあたると思います。
というのは、お風呂の湯加減を言うとき、この”いい加減”を使いますね。
「いい加減のお湯ですよ(よい加減のお湯ですよ)」といえば、
それはけっしてぬるま湯ではありません。そうではなくて、熱い湯の好きな人には
熱い湯が、ぬるい湯の好きな人にはぬるい湯がいい加減なのです。
つまり、いい加減というのは、それぞれのいい加減があるのです。
十把一絡(じっぱひとから)げのいい加減があるのではありません。
仏教でいう「中道」が、まさにそれです。
「中道」の道には、「行く」「歩む」といった意味があります。
あまりに極端に走らず、ゆったりと中を歩んで行くのが中道です。
走っているときは、周囲が見えていません。ゆったりと歩んでいるとき、
周囲が見えるのです。
「中道」という意味を、仏教では楽器の弦の強さでたとえます。
これが「中道」ということでしょう。
でも若いうちは、この「中道」は難しいと思います。がんばりすぎて疲れるか、
(ハープや琴の)弦があまりにきつく張っていたら、ぴんぴんして高い音しか
出ません。聞く人はつい緊張感をいだいてしまう。
反対に弦が緩く張られているときは、低い音しか聞こえません。
ちょうどよいほどよいくらいの緊張力で張られているのが、良い音色を出します。
まあいいやと怠けるか、どちらかだと思います。精進することは大切だと思います。
「中道」を無意識のうちに実践できるのは、修業を積んだひろさちやにして
いえることではないでしょうか。若いうちはできるだけ努力するのがいいかと思います。
迷惑をかけている自覚
「いまの日本では、学校の先生や親たちは、”あなたがたは他人に迷惑をかけない
ようにしなさい”と教えている。こんなことを教えていて、真の宗教教育は
できないだろう...」
「なるほどな、”他人に迷惑をかけるな”と教えているのか?!
そんな教育はおかしい!」
これは、インドの新聞記者とわたしの対話です。
同席していた日本人にはわかりません。それで私は、インドではどう教えているか
聞きました。
「インドでは、親は子どもに、”あなたは他人に迷惑をかけているのですよ”
と教えます。それが本当の教育です」とインド人は答えました。
そうなんです。私たちはみんな、他人に迷惑をかけています。
極端に言えば、人間が生きているだけで他人に迷惑なのです。
人間が一人いれば、それだけ地球上に酸素は少なくなるのです。
あなたの息子が大学に合格します。親にとってはそれは喜びですが、
そのとき、確実に一人はその大学に不合格になっているのです。
一人が会社に入社できると、誰か一人は入社できなかった人がいます。
迷惑をかけているのです。
あなたが家を建てて住んでいると、そこは誰も住めなくなります。
1つしかないブランコに二人同時に乗りたくなれば、やっぱり迷惑をかけているのですね。
中学の先生が、むかし私に、「人間は誰かと空間や時間を共有すると、きっと相手に
迷惑をかけている」と教えてくれました。宿で相部屋だった相手がいびきをかく
人なら、こっちは眠られませんから。
この「自分の存在が相手の存在のじゃまになる」ということを教えてくれた、
中学校の先生を尊敬したものです。
日本人は子どもに、他人に迷惑をかけるなと教えます。そのように教えると、
子どもは迷惑の量を測るようになります。いや、子どもに教えるおとなが、
迷惑の量を測っているのです。自分は相手にほんの少し迷惑をかけただけだ。
しかし、相手は私に、すごい迷惑をかけている。そんなふうに考えます。
前にも書きましたが、私たちが使っている物差しは、ゴムの物差しなんです。
だから、相手の迷惑を測るときは、ゴム紐を伸ばして、こんなに大きい...
と考えます。そして、自分に関しては、たったこれだけ....と、ゴム紐の
物差しを縮めて測っているのです。
ある仏教学者の話です。その仏教学者の家が火事で焼けてしまったのです。
夏休みの直前に、隣家が失火して、彼の家は類焼に遭ったのです。
夏休みが終わって、新学期になって、彼は学生たちにこう語りました。
「今年の夏休みほど、私は”仏教”の勉強をさせてもらったことはなかった...」
最初、彼は隣家が憎くてならなかった。だった、その隣家のせいで、彼は
たくさんの蔵書を失い、未発表の研究論文を灰にしたのだから、憎いのは当然です。
彼は、なんとか隣家に仕返しをすることを考えました。
だが、そのうちに、彼は気がつきました。自分は仏教学者である。その仏教学者が
仕返しを考えるなんて、やはりおかしい。それじゃあ、何のために仏教を勉強
してきたかわからないのではないか。
そこで彼は、自分は隣家によって大事な蔵書や研究論文を、「焼かれた」と考えて
いたが、それだから憎しみが消えないのだ。それ故、蔵書や研究論文を自分で、
「焼いた」のだと考えようとしました。そうすると、憎しみが消えるのだろう
と思ったのです。でも、自分で焼いたわけでないものを、自分で焼いたことに
するのは無理なことでした。
そのとき、彼ははっと気がついた。「焼かれた」でもない、「焼いた」でもない、
ただ、「焼けた」と思えばいいのだ、ということに。そして、彼は浄土真宗の
人でしたから、静かに「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えていました。
そうしているうちに、自然と火事のことをあきらめることができたといいます。
これが、『般若心経』でいう、「空」だと思います。「空」というのは、
「こだわるな!」ということです。「焼かれた」と見るのもこだわりであれば、
「焼いた」と見るのもこだわりですね。こだわりのない「空」のこころで見れば、
家はただ「焼けた」のです。
「少欲知足」のすすめ
「貧者の一灯」という言葉があります。
むかし、古代インドのマガダ国の阿闍世(あじゃせ)王が、お釈迦さまを
ご招待申し上げて、お釈迦さまの帰路を万灯でもって照明しようと考えました。
ところが、物乞いで生きている老女がいて、この老女はその日の稼ぎを全部投じて、
わずか一灯を献じました。
その翌日、阿闍世王の献じた万灯はすべて消えているが、老女の一灯はあかあかと
ついている。それを目連(もくれん)尊者が消そうとしますが、なぜか消えません。
目連は「神通力(超能力)が第一といわれた弟子です。その目蓮が消そうとしても
消えません。
それを見て、お釈迦さまが言われました。「目連よ、そなたの神通力によっても、
この灯は消すことができないのだよ。なぜなら、この一灯こそ、真の布施の灯
だからね」と。
ではなぜ、老女の献灯が真の布施なのでしょうか?それは、阿闍世王の万灯が
なぜ真の布施にならないか?と、聞くことと同じですが、その理由は、
阿闍世王にとって万灯が、必要不可欠のものではなかったからです。
「貧者の一灯」を、「たとえわずかでも貧者の真心のこもった寄進は、
富者の虚栄による大量の寄進よりも、まさっている」と説明する本がありますが、
それはまちがっています。
阿闍世王が誠意をもって献すれば布施になるかといえば、そうではないのです。
誠意のある・なしは、あまり関係がありません。
その施しが布施になるか、ならないかの決め手は、「その施しをすることに
よって、施した人間が生活に困るような財物を施すこと」なのです。
老女は一灯を献ずることによって、たちまちその日の生活に困りました。
その日、食べる物がなかったのです。しかし、阿闍世王は、万灯を献じても
生活に困りません。だから、老女の一灯は布施になり、
阿闍世王の万灯は真の布施にはなっていないのです。
わたしはときどき、臓器移植において臓器を提供するのは、仏教の布施に
なりますか?と、質問されます。たしかに、仏教学者のうちには、布施の理論
をもって臓器移植に賛成しておられる人も多いようです。けれども、私は
臓器の提供は布施ではないと思います。なぜなら、死体にとって臓器は必要な
ものではありません。不要なものです。不要なものをあげたところで、
それは布施でしないのです。
布施をしたいのであれば、生きているうちに、自分の臓器をあげることです。
そうすれば布施になります。
ただし、誤解しないでくださいよ。わたしは、臓器の提供は悪いことだから
やめよと主張しているのではありません。臓器の提供はいいことかもしれません。
わたしは、それが仏教の布施ではないと言っているだけです。
御歳暮や御中元は布施ではありません。でも、布施ではないから廃止すべしと、
そんなふうに極端に受け取らないでください。わたしは『般若心経』の考え方
を論じているのです。
さて、阿闍世王の万灯の寄進が布施でないことがおわかりいただけましたね。
では、阿闍世王はどうすれば布施ができたのでしょうか?彼は、全財産を施せば
よかったのです。全財産を投げ出したとき、それが布施になります。
私たちも、持っている全財産を投げ出したとき、布施をしたことになります。
そんなこと、不可能だ!なにをねぼけたことを言っているのだという声が
聞こえてきそうです。
なるほど、私たちには布施はできません。が、実はその自覚が大事なのです。
私たちが少しばかりの施しをさせていただく。そんなもの、布施ではありません。
布施であるためには、全財産を施さねばなりませんが、それは私たちには
できない。その「できない」という自覚をもって施しをすれば、それが布施に
なるのです。それが『般若心経』のいわんとするところです。
信者に全財産を投げ出せ、布施をしろと強制した教団があります。
これなどは、宗教の悪用ですね。
もっとも本人の自発的布施なら尊いことですが、某教団の場合は、信心を金儲け
の手段と考えているようです。ひろさちやは何度も書いているように
(水子供養におけるように)お金を要求するのは仏教ではないと断定しています。
仏教では、古来「少欲知足」を教えています。「少欲知足」とは、欲を少なくし、
足を知る心をもて、といった教えです。
欲を少なくするのは、別段無欲ではありません。よく、仏教は「無欲」を教えて
いると受け取られますが、それは錯覚です。無欲では、人間は生きられませんよ。
また、「小欲」でもありません。欲望が小さいことはいいことですが、
仏教は必ずしも欲望が小さくなければならない、とは言っていません。
そうではなくて、「少欲」は、私たちの欲望を少なくすることです。
そして、足を知る。それが「少欲知足」です。そして、その「少欲知足」が
ほかならぬ布施そのものであると、仏教は教えています。
そのような意味での布施であれば、私たちにもできそうですね。