仏教者にとって「死」とは何か ひろさちや
◆仏教は「死」を線として捉えている いったい「死」とは何でしょうか……? わかつているようで、わからないものです。 そういえば、古代ギリシアの哲学者のエピクロス(前三四一〜前二七一)がこんなことを言っています。 《……それゆえに、死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわ れわれにとつて何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せ ず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているも のにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現 に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである》 (出隆・岩崎允胤訳) これは要するに、死ぬ前には死んでいないし、死んじゃえば生者は存在しない。だから「死」なん てものはない、と言っているのですね。形式論理的にはその通りですが、さて、そう教わつてわれわ れの気持ちが安らぐかといえば、それはありません。「死」に対する不安は少しも軽減されていない。 それが哲学の限界でしょう。 この「死」に対する不安を軽減させるのが、宗教の仕事です。仏教の仕事です。 したがって、なかには、エピクロスのような「哲学」を教わって、それで安心できる人がおいでに なる。そういう人にとっては、宗教は不要でしょう。死ぬまでは死にやせんのだから……と、死のこ とを忘れて生きておれる。そうできる人は幸福です。 もっとも、幸福なあいだは、あんがい人間は「死」を忘れておれるのです。それで、幸福なあいだ は、人間、死ぬまでは死にやせん……と哲学的諦観でもって高を括っ(くく)て生きてゆけます。だが、 いったん幸福な状態から不幸な状態になる(たとえば癌になる)と、そういう哲学的諦観ではやってゆけ なくなります。そうなる確率が高いのです。そのときが困るのですね。宗教を持っていない人間の悲 劇がそこにあります。 これはこういうことだと思うんです。 エピクロスが言うような哲学的諦観としての死は、死を点として捉えているのです。「死ぬまでは 死にゃあせん」というのが哲学的諦観ですから、ここでは死は生の終わりの点になっています。そう 見ると、死という実体はなくなります。それで死を忘れることができます。そうすると、勇ましいこ とも言えるわけです。 《臆病者は、ほんとうに死ぬまでにいくたびも死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない》 これは、シエークスピアの『ジユリアス・シーザー』に出てくる言葉です。しかし、これは形式論 理でしかないのです。 では、宗教は「死」をどのように考えるのでしょうか。宗教といっても、それぞれの宗教で考え方 が違います。わたしたちにとっては仏教が問題ですから、仏教は「死」をどのように考えているかを 知りたいのです。 結論から先に言えば、仏教は「死」を線として捉えています。哲学的には死は点ですが、仏教的に は「死」は線なのです。そこに宗教と哲学の根本的な違いがあります。 ◆『生・老・病・死」は一つのもの 点と線というものは、線は点によつて分断されます。連続した線があって、その中央に一つの点が ある。この点が死で、その右側が生、左側に死後があります。つまり、生きている(生)状態が突然 死によって終わり、そのあとは死後になるのです。 これが、エピクロスのような哲学者の考える死ですね。ユークリッド幾何学においては、点には位 置だけがあつて大きさはないとされていますから、その意味では死はないと言えるわけです。そして 同時に、人間存在は死という点で終了しますから、それ以後は人間でなくなるのです。人間でなくな ったものは物体だから、これを煮て食おうが焼いて食おうが構いはしない、といった考えになります。 脳死や臓器移植の問題の背後には、そういった哲学がちらついています。 では、仏教では「死」をどのように考えているか? 仏教においては、「死」は点ではありません。連続した線なのです。 そうですね、譬喩(ひゆ)的に言えば、氷が融けて水になるように、生が融けて死になるのだと考えるのです。 氷が融けて水になるといっても、氷が一瞬にして水になるわけではありません。最初は〈氷100 %・水0%〉の状態から、少しずつ変化して、〈氷80%・水20%〉→〈氷50%・水50%〉→〈氷 10%・水90%〉となり、最後に〈氷0%・水100%〉となります。それと同じように、最初は〈生100 %・死0%〉であった状態から、少しずつ死が忍び込んできて、〈生75%・死25%〉→〈生40%・死 60%〉→〈生15%・死85%〉となって、最後に〈生0%・死100%〉となるわけです。 これが仏教の「死」に対する考え方の基本です。 ですから、「死」は最初からわれわれの「生」のうちにあります。 その意味で、「死」は病原菌のようなものです。われわれ人間は「死」という病原菌のキャリアー なのです。すでに誕生の前から病原菌を保有していて、潜伏期間のあいだを生きているわけです。 だとすれば、「死」はすなわち『病」です。 じつは仏教においては、人間存在を「苦」と見ていく、そして、基本的な「苦」として、 ―生苦・老苦・病苦・死苦― の『四苦」をかぞえています。すなわち、生まれることは苦であり、老いることは苫であり、病む ことは苦であり、死ぬことは苦であると言うのです。 ところで、考え方によれば、この四苦は一つのものかもしれません。 なぜなら、「生」の中に『死」があるのです。というより、仏教においては先程も言ったように、 「生」と「死」が渾然一体としてあるのです。〈生40%・死60%〉といったようなあり方で、われわれ 人間は存在しています。 そして、その「死」は一種病原菌のようなものだとすれば、「死」はまさに『病」であります。 さらに、「死」は不可逆的に進行して行きます。どんどん、どんどんパーセンテージが増えます。 そのパーセンテージの増大は、ほかならぬ老いです。「老」なんです。 かくて、「生」と「死」が渾然一体のものであり、その「死」がイコール「老」であり「病」であ るとすれば、「生・老・病・死」はまさに一つのものです。 これが仏教の見方です。仏教は死を生から切り離して見ることはしません。生きることは死ぬこと であり、死ぬことは生きることなんです。また、死ぬことは老いることであり、老いることが生きる ことであり、生きることが病むことであり、病むことが死ぬことなんです。「生・老・病・死」が一 つになって、人間は生存しています。 だから、生から死を切り離して、この人は死んでしまったから人間じゃないと、死んだ人間を物体 として扱うことに仏教はものすごく抵抗を感じます。そういう見方をすれば、仏教でなくなってしま うからです。仏教においては、死ぬことが生きることなんです。生と死を切り離して論ずる科学的思 考からすれば、きっと奇異に感じられるかもしれませんが。 ◆「死ぬ時節には、死ぬがよく候」 ここで「苦」について考察しておきます。 先程わたしは「四苦」を言いました。「生・老・病・死」が人間の基本的な「苦」であると仏教は 見ているのですが、では仏教はこの「苦」をどのようにしようとするのでしょうか……? 「生・ 老・病・死」が苦であると指摘するだけでは、それは哲学ではあつても宗教ではありません。仏教が 宗教であるかぎり、その苦をなんとかしないといけないのです。 じつは、仏教には、小乗仏教と大乗仏教があります。古い時代のインドの仏教が小乗仏教であり、 紀元前後のころにインドに興起した改革派の仏教が大乗仏教です。日本の仏教はこの大乗仏教の系統 に属します。 小乗仏教と大乗仏教では、苦に対する解決法が違っています。 小乗仏教においては、苦を克服しようとします。死苦をなくそうとするのです。 具体的にはどうしますか……? まず、苦には原因があるのです。その原因は欲望であり執着です。あれが欲しい、これが欲しいと 思っていれば、苦になるのです。なぜなら、欲望は、たとえそれが充足されてもなくなりません。充 足されるとかえって膨れ上がるのが欲望の本質です。年収一千万円欲しいと思っていた人は、一千万 円が得られるようになっても満足しません。いや、一億ぐらいないと駄目だ、と、欲の皮は突っ張る だけです。だから、苦になるのです。そして苦は、その原因である欲望をなくすことによって克服で きる。小乗仏教はそのように教えています。 したがって、小乗仏教においては、簡単にいえば、長生きしたいという欲望を棄てることによって、 死苦を克服するのです。 大乗仏教は、それとはまったく違った解決法を提案しています。大乗仏教において、”苦”という 言葉の意味は、 ―思うがままにならないことーー といったふうに解釈されるのです。 そう言われると、その通りですよね。”苦”が「苦しみ」だとすれば、生まれることの苦しみはわ れわれはたいてい忘れていますし、老いることの苦しみも、われわれは一日一日、一秒一秒老いてい るのですが、それを苦しいと感ずることはそんなにありません。病気の苦しみも、すべての病が苦し みではなく、自覚症状のない病気だってあります。死の苦しみは、誰も体験者かいません。ひょっと したら苦痛でないかもしれません。 だから、「苦」は苦痛ではないのです。「苦」は「思うがままにならない」といった意味で、われわ れは生まれること、老いること、病むこと、死ぬことを思うがままにできないのです。大乗仏教はそ う言っています。 とすれば……。話は簡単です。思うがままにならないことを、われわれは思うがままにしようとし なければいい。そうすれば「苦」にならないのです。 われわれは、思うがままにならないことを思うがままにしようとして苦しんでいます。つまり「苦」 にしているのです。 そこで、 ―ーー「苦」にするな!―‐‐ というのが、大乗仏教の解決法です。 死はわれわれにとって思うがままにならないことです。死にたくないと思っても死なねばならない し、安楽に死にたいと思ってもそうなるかどうか、ともかくわたしたちの思うようにはなりません。 ならば、思うがままにしようとするな! つまり、なるようになると高を括っていればいい。大乗仏 教はそう教えています。 その点では、江戸末期の曹洞宗の禅僧の大愚良寛、というよりあの良寛さんですが、彼の言葉がい いですね。良寛さんは地震のお見舞いを受けたとき、その返信にこう書き記しています。 《しかし、災難に逢(あう)時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をの がるゝ妙法にて候》 それからもう一人、明治時代の俳人の正岡子規の言葉を紹介しておきましょう。彼は三十歳になる 前に脊椎カリエスになり、三十五歳で死ぬまでほとんど病床にありました。その彼が病床にあって認 めた言葉がこれです。 《余は今迄禅宗の所謂(いわゆる)悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事か と思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった》(『病牀六尺』) 「死」が思うがままにならないことであれば、われわれにとって死に方などはどうでもいいのです。 いや、「生」だって思うがままになりません。ならば、どのような生き方をしてもいいのです。そう あきらめるのが仏教の死生観です。ただし〃あきらめ〃は、たんに「断念すること」ではなしに、し っかりと「明らめること」です。「生死」は思うがままになるものではないとしっかりと覚悟するこ とが「明らめ」です。そう「明らめる」とわれわれに安らぎが得られます。その安らぎこそ、宗教と しての仏教によって得られるものです。哲学は、われわれにこのような安らぎは与えてくれません。 ともあれ、死に方なんてどうだっていいのですよ。室町時代の禅僧の関山慧玄(えげん)の死は、すばらしい ものでした。彼は妙心寺を開いた僧ですが、最期のとき、 「どうやらお迎えがまいったようじゃ」 と言って、旅仕度をして弟子に見送られながら寺を出て行きます。しかし、ものの三十歩も歩かぬ うちに立ち停まり、じっとしています。〈いかがなされたか……?〉と、弟子たちが駆け寄って見れ ば、関山慧玄は杖にもたれたまま死んでいました。これを立亡(りゅうぼう)といいます。見事な死です。 だが、明治時代の傑僧と言われた橋本峨山の死は、それと対蹠跳的です。彼は大勢の弟子たちが見守る中を、 「ああ、死にたくない、死にたくない」 とわめきつつ死んでゆきました。この死に方は、世間の見方で見れば、見苦しい死です。無様(ぶざま)な死 に方です。 だが、大乗仏教の考え方からすれば、別段、この死に方でもよいのです。わたしたちが自分の死に 方を思うがままにできるのであれば、橋本峨山的な死に方をやめて関山慧玄的な死に方にせねばなり ません。でも、死に方は思うがままにならないのですから、わめきつつ死んでいく心境になれば、わ めきつつ死ねばいいのです。思うがままにならないことは思うがままにしようとしないー―。それが 大乗仏教の考え方です。 ◆「選別」の思想と「平等」の思想 わが国、曹洞宗の開祖の道元は、 《この生死は、すなはち仏の御いのちなり。これをいとひすてんとすれば、すなはち仏の御いのちか うしなはんとする也。これにとどまりて生死に著すれば、これも仏のいのちをうしなふ也》 と言っています。われわれはこの「仏の御いのち」ということを考えてみましょう。 動物の生命を含めた自然界に対する現代日本人のものの見方は、完全に、 ―弱肉強食− のそれであります。日本人はこの見方が「科学的」だと思っていますが、必ずしもそうではありま せん。俗流科学の見方だと言つた方がよいでしょう。 そして、日本人はこの見方がキリスト教に通じると思っていますが、それはまちがいです。キリス ト教の見方は、人間も動物も同じく神が創造された生命ですが、霊性を持った人間は動物よりも上位 の生命であって、人間は動物を管理するように神から託されているのです。すなわち、キリスト教に は、生命をランクづける、 ―選別− の思想があります。この点において、仏教とは根本的に異なる生命観に立つています。 だから、キリスト教徒は、動物が瀕死の状態にあり、もがき苦しんでいるなら、これを安楽死させ てやるべきだと信じています。人間が動物の管理者である以上、そうすることが人間の責務なのです だからでしょうか、たとえば発展途上国援助に行った欧米のボランティアの人たちは、援助を求め てやって来る人々を、この人間はいくら援助の手を差し伸べても死ぬにきまっている・この人は援助 すれば助かる・この人は援助なしで自力で助かるといった三グループに分けて、援助をしても死ぬ人 間には絶対に援助しません。援助を受けて助かる人間だけに援助を与えるのです。そうでないと、援 助の効率が落ちるからです。日本人のボランティアの人々には、この「選別」ができないのですね それで、死ぬにきまっている人々になけなしの食糧を与えてしまいます。そうすることによって、援 助を受ければ助かる人を見殺しにすることになりますから、日本人ボランティアは欧米人から非難さ れるのです。まあ、このあたりのところが、キリスト教思想の「強さ」でしょうね。 キリスト教のこの「選別」の思想に対して、仏教のそれは、 ―ーー平等― です。仏教は人間を含めて、あらゆる動物の生命を同じに見ています。 それが証拠に、大乗仏教では、 「一切衆生(いっさいしゅじょう)悉有仏性(しつうぶっしょう)」(すべての衆生が悉く(ことごとく)仏性を有している) と言いますが、ここで〃衆生〃というのは人間だけではなく、ありとあらゆる生きものです。また 仏教には、 「不殺生戒」 がありますが、殺してならないのは人間だけではなく、蝿や蚊、ゴキブリを含めたあらゆる生きも のです。したがって、仏教では、純理論的には人間を殺すことと牛や豚、蝿や蚊を殺すこととが「同 じ」になります。キリスト教徒にすれば、牛は食用の動物だから殺していいが、鯨は駄目となります。 「選別」の思想と「平等」の思想の差なんですね。 おそらく、このような仏教の「平等」の生命観が、かえって俗流科学の「弱肉強食」の見方を受け 容れやすくしているのでしょう。つまり、あらゆる生命が平等であれば、生命のあるがままの姿がい ちばん「自然」だということになります。キリスト教徒であれば、あるがままの姿がもしも醜いもの であれば、人間は神から管理責任を問われかねません。したがって、あるがままの姿を絶対に「自然」 だとは認めないのです。「自然」とは、あるべき姿だということになります。だから、キリスト教は 原理的に、現在でもダーウィン流の進化論に反対しています。 ◆「死」はいのちの布施である では、仏教、とくにわれわれ日本の大乗仏教は「弱肉強食」の思想を認めるのでしょうか? 結論から言えば「ノー」です。大乗仏教は「弱肉強食」の世界観を容認しません。 だが、じつは、「弱肉強食」といった思想は近代科学の影響のもとに形成された一個のイデオロギ− です。このイデオロギーに対して大乗仏教がどう対応するか、はっきりとした見解はまだつくられ ていません。それ故、以下に述べることは、あくまでもわたし個人の意見ということになります。つ まり、わたしが理解するかぎり、大乗仏教はこのように考えるーといったことを書くことになりま す。その点をお断りしておきます。 さて、「弱肉強食」の思想の否定ですが、これは生態学の教科書に書かれていることですが、アメ リカのアリゾナ州にありますケイバブ自然公園に起きた出来事が参考になります。公園当局は鹿を殖 やすべく、天敵である肉食動物、すなわちピユーマやコヨーテ、狼を全部殺しました。すると鹿は殖 えます。だが、あるところまで増殖すると、鹿は死にはじめたのです。死因はストレスです。あまり にも鹿が殖え過ぎたために起きるストレスで、鹿はばたばた死んで行きました。 その次に起きたのが食糧不足です。増殖した鹿を養うだけの食糧はありません。そこで一気に鹿は 全滅に近い状態になりました。 このようなことは、実験によっても確められています。大きな倉庫で天敵のない状態でネズミを飼 育します。食糧は十分に補給し、遺伝子の劣化を防ぐためにときどき野性のネズミを外から加えてや ります。そうするとネズミは殖えますが、あるところまで行くと突然ネズミはストレスによつて死ん でしまいます。食糧はふんだんにあるのに、約三分のーまで減少します。そこから再び増殖をはじめ ますが、無限に殖えるわけではありません。 これはどういうことでしょうか……?・ 動物にとって、捕食者のいない状態はなにも理想ではないのです。 むしろ捕食者がいてくれるほうが、食糧不足にもならず、ストレスも起こさずにすみます。そのほ うが理想の状態かもしれません。 ということは、自然の世界は「弱肉強食」ではないのです。 食う・食われるの関係が、ある意味で「共生」の状態です。 とすれば、食う・食われるの関係をわれわれは「弱肉強食」と捉えるより、 ―布施― と見たほうがよいのかもしれません。そしてわたしは、それが仏教の見方だと思います。 そうなんです、仏教においては、強い者が弱い者を殺して食うのではなく、弱い者が強い者に自分 のいのちを布施しているのです。 強い者が弱い者を殺して食うという俗流科学の見方は、一つの仮説です。そもそも科学の見方は、 あくまでも仮説なんですね。日本人はそれを真理と錯覚していますが、真理ではありません。一つの 「説明」なんです。 だとすれば、仏教は仏教の「説明」を持ちます。キリスト教はキリスト教の「説明」を持ちます。 そしてキリスト教の「説明」からすれば、科学の進化論の「説明」はおかしいので、しばしば進化論 の「説明」に攻撃を加えます。キリスト教は自己の「説明」が正しいと信じていますから(正しいと いうのは、この場合、神が肯定されるということです)、他の「説明」に攻撃を加えるのは当然です。 いや、攻撃せねばならないのでしょう。 だが、仏教は、どうも弱気です。ことに現代日本人は俗流科学の「説明」が真理だと信じ込んでい ますから(わたしは、だから現代日本人は「科学教」の狂信者だと思っています)、仏教の立場から してこれに攻撃を加えることをようしないのです。そんなことをすれば、仏教は頑迷固階の烙印を押 されるのではないかと、おじけづいているありさまです。 どうも淋しいかぎりですね。 わたしは、仏教、大乗仏教の「説明」は、布施の見方だと信じています。 鹿は狼に殺されるのではなく、鹿のほうから狼にいのちの布施をしているのです。「狼さん、わた しはほとけさまからいただいたいのちを、楽しく生きることができました。わたしのいのちを布施し ますから、どうぞお食べください」と、鹿は思つているのです。いのちの布施をすることによって、 狼も生きることができるし、鹿もまた自滅しないで生きられるのです。 では強者は……? ライオンは誰にいのちの布施をするのか? ライオンの死体は大地に還元され ます。土に還るのです。そしてその大地から草が生え、その草によって草食動物が生かされます。そ れに、一頭のライオンが死ぬことによって、ライオン自身が過密になることからまぬがれます。それ 故に、死は大勢の仲間たちへの布施なのです。 つまり、自然界は、ほとけさまからいただいたいのちを互いに他に布施することによって共生して いるのです。それが仏教の「説明」です。 そして、人間の死についても、この「説明」が当て嵌まります。わたしたち人間の「死」もまぎれ もない布施なんです。わたしたちが死ななければ、地球上に人間が充満し、過密になって人類が全滅 するでしょう。然りとすれば、わたしたちは死ぬことによって未来の人類に布施しているのです。い や、過去の祖先たちが死んでくれたお陰で、わたしたちはこの地球に生きることができるのです。祖 先たちが死なずにがんばっいると、わたしたちが生まれる余地はなかったでしょう。そう考えると、 「死」が布施であることがわかります。 では、おまえは、「死」が布施なんだから、死体の布施ともいえる臓器移植に賛成なんだな……と 言われそうですね。だが、ちょっと待ってくださいよ。わたしが思うには、脳死の考え方のうちには、 まぎれもない、 ―「殺」の論理― が入っているようです。脳死者は生きている価値がほとんどない弱者であるから、強者がこれを殺 して食べてよろしいという「弱肉強食」の論理が、そこに読み取れませんか。それに、もうこの人間 は殺してよいのだと「選別」する思想は、仏教のものではありません。布施が布施であるかぎり、自 然死でなければなりません。強要された死、選別された死は、「死」ではなくて「殺」だと思います。 その意味で、仏教の立場からして、わたしは脳死の思想に反対です。 ◆死後の世界を「考えるな!」 最後に、死後の世界について一言しておきます。 「死」の問題を考えるとき、どうしても気になるのは死後の世界の有無です。いったい仏教は、死後 の世界についてどう考えているのでしょうか……? じつは、読者は意外に思われるでしょうが、仏教の開祖である釈迦は、死後の世界の有無について 一切発言を拒んでおられます。死後の世界について、 ‐―考えるな というのが、釈迦の教えです。これを仏教の言葉では、 ―「無記答」あるいは「捨置記」− といいます。釈迦は弟子から死後の世界の有無を質問されたとき、一切答えることなく沈黙を守っ ておられました。 なぜでしょうか? それは、死後の世界があるかないか、われわれ人間がいくら考えてもわからな いことだからです。わからないことはわからないことです。わからないことをわからないことだとす るのが、わかることです。それが悟りなんですよ。 もっとも、釈迦は、善業を積んだ人間は死後に天界に生まれ、悪業を積み重ねた人間は死後に地獄 に堕ちると発言しておられます。天界だとか地獄を言っているのですから、これは死後の世界の有無 を「考えるな!」ということと矛盾します。その点については、わたしはこう考えます。 5引く8はいくらか? そう訊かれたら、わたしたちはたぶん「マイナス3」と答えるでしょう。 けれども、小学校のー、二年生はマイナスという概念を習っていないのだから、そう答えられません。 彼らは「引けない」と答えるでしょうし、彼らにとってはそれで正解です。また、たとえば時刻でい えば、5時の8時間前は9時ですから、5引く8は9となります。このように、計算方法の違いによ つて答えはさまざまに成立するのです。 そこで釈迦は死後の世界について「考えるな!」と教えたかったのですが、レベルの低い小学生段 階にある者に対しては、そう教えることはできません。それで釈迦は、そのような人々を相手にした ときは、地獄や天界を説いたのでしょう。悪いことをすれば死後に地獄に堕ちる と教えれば、人 間は悪いことをしないようにしようと思うでしょう。そのための方便であります。 それからまた、大乗仏教では、 ―浄土― の思想があります。浄土とはほとけの国(仏国土)であり、さまざまな浄土があります。しかし日 本人にとっては阿弥陀仏の浄土である極楽世界がとりわけ有名で、浄土といえば極楽浄土と思われる ほどです。「南無阿弥陀仏」と念仏を称えた者は、死後にこの極楽浄土に往き生まれることができる とされています。 この浄上はどうなるのだ!? それも死後の世界ではないか!? そう言われるかもしれません。 だが、じつはこの浄土は、わたしたちに死後の世界のことを考えさせないために設定されているも のであります。わたしたちが死後の世界について「考えるな!」と教わって、考えずにいられる人も おいでになります。そういう強い精神の人はいいのです。あるいは禅を学んで、そういう強い精神を 持つことのできた人は、考えずにおられるからいいのです。けれども、一般の凡人はそうはいきませ ん。どうしても、死後はどうなるのだろう……と考えてしまいます。 そういう人に、死後は阿弥陀仏の極楽浄土に往き生まれるのだよと教えれば、そしてその人々がそ れを信ずれば、その人々は死後の世界について考えずに安心できます。浄土というのは、そういう意 味で、死後の世界について「考えない」ための方便です。 いずれにしても、仏教の基本は、死後の世界について「考えるな!」です。死後の世界をあれこれ 揣摩憶測(しまおくそく)するのは仏教者の態度ではありません。わたしたちはしっかりこの人生を生きればいいので す。そしてしっかりと死ねばいい。それが真の仏教者の生き方であり、死に方です。わたしはそう考 えています。 (まんだら No.30 1999.3.10)