コンプレックスといえば、普通この言葉は
劣等感コンプレックスを指すようである。
しかし、complex sentence と言えば、副詞節とか名詞節とかが出てくるように
コンプレックスとは心理学では「心的複合体」と訳している。
河合隼雄先生の「コンプレックス」(岩波新書)を読んだメモです。
はたしてどれくらいわかったことか。
コンプレックスとは、その人の主体性をおびやかすものである。
たとえば外出恐怖症とか学校恐怖症というものがある。
特に本人が自覚する理由がないのに、どうしても行けなくなるのである。
恐怖心が起きたり、なぜか行けなくなるというのは、何が原因なのであろうか。
個々の患者のケースにもよるので普遍的な説明が困難であろう。
原因を本人がわからないから、問題なのである。
極端な場合は、目が見えなくなったり、耳が聞こえなくなったりする
ヒステリー症状がある。
このような心の作用を説明するために、まず自我というものを考えよう。
ヤスパースによれば、自我意識の特性とは次の4つのポイントがある。
(1)能動性(主体性)、(2)単一性、(3)同一性、(4)外界と他人に対する自我の意識
能動性とは、「私」がするのだという「私」を主体とした意識である。
単一性とは、自分は一人しかいないという意識である。
同一性とは、時間が流れても、自分は同一であるという意識である。
もちろん成熟とか老化といった変化はあるが、それでも同一人物であるとみんな認めるだろう。
外界や他人に対する自我の意識ということは、自分を外界や他人とはっきり区別することである。
主体性をおびやかすもう一人の自分、それがコンプレックスの症状である。
劣等感コンプレックスの重要性を強調したのはアドラーである。
彼はフロイドと共同研究をしていたが、やがてフロイドの性欲説に対して、
人間にとって根元的な欲望は「権力欲」であると主張した。
アドラーによると、人間は誰でも劣等感をもっているものである。
その劣等感を補償しようとして、「権力への意志」が働くと考えた。
それが成功すると、どもりを克服して雄弁家となったデモステネスのようになり、
反対にうまくいかないと、見せかけの強がりを言ったり、あるいは失敗を恐れる
あまり何もしなくなる。そう考えたのであった。
アドラーがこの劣等感を補償する働きに気がついたのは、人が何か特定の器官に
劣等性があるとき、それを補償する働きがその人の体にあることを知ったからである。
たとえば、一つの腎臓に欠陥があると、他の腎臓が普通より強力になって補うことがある。
あるいは他の器官が強くなって、腎臓の機能の不足を、何かの形で補償しようとするのである。
このように、人間には意識することがなくても、何らかの劣等器官を補償して
強くなろうとする性質があると思ったのだ。
アドラーは、心の働きにおいても、何らかの劣等感があると、それを補償しようとする
働きがあるに違いないと考えたのだろう。
たとえば、ソフトボールが下手な人がいるとする。
この人が、練習を重ねてソフトボールを上手になることで劣等感を克服するか、
あるいは自分はソフトボールを下手でできないと認めることで、劣等感という
こだわりから克服されれば、心の悩みはない。
ところが、劣等感コンプレックスにとらわれた人は、下手なくせに無理にピッチャーに
なりたがったり、失敗したことにいつまでもぶつぶつ言ったりするものである。
劣等感コンプレックスの裏返しが優越感コンプレックスかもしれない。
他人のために尽くそうとする善行の陰に、劣等感コンプレックスがあるのではないか。
これは、著者の河合先生の説であるが、思わずドキッとする。
カウンセラーになって、悩める人のために尽くしたいと思う人は、
「救われるべきは、他人なのか、それとも自分なのか」と自問せよ河合先生は言う。
まあ、自分も救われ、相手も楽になるのなら、それもよいであろう。
ある女子学生の例がある。
その女子学生は対人恐怖症であった。彼女の話を聞いていると、わかったことは
よい家庭環境の中で、勉強ひとすじに成長してきた。同級生の女子学生たちが
服装について話し合ったり、男性の噂話をしたときでも、彼女は関心がなかった。
希望の大学に入学できて、好きな勉強に専念できるようになったのに、
対人恐怖症になって、勉強にも身が入らなくなった。
彼女は、男性が恐ろしいことに気がついたという。今までは同級生として
男女の区別なく平気でつきあってきたが、同級生の男性は、異性であり怖いような
いやな感じがすることに気がついた。
そして、同級生の女子学生のBさんは化粧が濃いから嫌だ。Bさんは勉強しに
大学に来たのではなく、男性を探すために来ているのではないだろうか。
それはけしからん、と彼女は憤慨したという。
何度もカウンセラーのところに通って、このような話をカウンセラーの前でさんざんしてから、
そのうちに彼女はよくなったから治療を終わりにしたいと言ってきた。
どうやら彼女はボーイフレンドを獲得したらしい。
彼女がちゃんとお化粧をしている姿を見たときカウンセラーは驚いたという。
この女子学生の場合は勉強する優秀な学生として、教師や同級生から認められてきた。
しかし、彼女の内面で、自我を補うものとして、異性に関心をもつ傾向が無意識に
わき上がってきたのだろう。彼女の自我が一面的に成長しているときに、
いわば異性コンプレックスとでもいうべきコンプレックスが無意識に形成され、
その圧力が自我をおびやかしはじめたといえる。その結果、安定を崩されたくない
自我と、それに圧力をかける(異性に関心のある)もう一人の自分というコンプレックスで、
対人恐怖症におちいったのであろう。
しかし、カウンセラーとの話し合いを通じて、彼女の自我はしだいにコンプレックス
の存在を認め、自分は異性に関心がなかったという点も認め、
そのうらがえしで、同級生のBさんに対する非難をしたということを自覚し、
それに伴う感情を放出してから、新しい生き方を自我の中にとりいれていくことに
成功したといえるだろう。
こうしてみると、人間が成長する過程で対立する自我があり、
自我の一面性を補償するというものとして、コンプレックスが大きな役割をはたして
いるということになる。つまり、コンプレックスをきっかけとして、人格の発展の
可能性が存在するということになる。
したがって、人間は成長するものであるから、たえず人格も自我も変わっていく
はずなので、まだ統一のされていない自我においてはコンプレックスで悩むことも
あるが、それをのりきったなら、新しく統一のとれた自我に成長する未来がある
ということになる。
青春とは悩むもの。若者よ、悩め。悩んで明日はばたくのだ。