コンプレックスの例 その1

料理コンプレックスの中年女性

職場が楽しくないという中年女性がカウンセラーに相談に来た。
彼女はそれで体の調子まで悪くなったという。
いろいろ話合っているうちに、最近職場に移ってきた同僚に対して
強い嫌悪感を抱いていることが明らかになってきた。

仕事の仕方などで非常に腹が立ったときは、どなりつけようと思うほどになるが、
それをおさえて普通に注意をしようと思っても、「声が出ない」のだそうである。
喉に何かつまったような感じがして、何も言えずにいるが、いらいらしてしかたがない。
そのうちに、その人の顔を見るのも嫌になってしまって、毎朝、職場へ出動するのが辛い。
そうなると、頭が重くて、痛いように感じるし、体がだるくなって、欠勤しようかと
思うのだという。

そこで、カウンセラーは、その同僚のどんなところが嫌いかを話しているうちに、
その同僚が料理が得意で、料理をつくって友人を招待するのが好きだという話になって
くると、この人は大変な勢で、料理をつくることの馬鹿げていることを攻撃し始めたという。

料理をつくるような面倒なことは男女平等にすべきだ。
おいしい料理を食べるのが楽しいのは認めるが、それはあくまで「専門家」のつくった
ものに限るべきで、おいしい料理が食べたかったらレストランに行くべきである。
「素人」のくせに料理が上手だなどといっているのは皆偽ものである。
始局、男性に対抗するだけの能力が他にないから、そんなことをするのだろう。
考えてみよ、一流のコックは皆男性である。結局、女が少し位頑張っても男性には
太刀打ちできないことを知らないのだ。

こんなときに、この人の話し方は全く素晴らしい情熱に満ちている。
決して「体がだるく、頭が重い」ので欠勤しようと思っている人とは思われない。

そして面白いことに、始めは男女同権論者のような感じであったが、終りの方になると
俄然女性無能力論者のような感じになるのである。

この人は女性には珍らしく、論理的な思考法を身につけた人であった。
しかし、こと料理に関しては、彼女の論理的思考力も崩壊してしまうようであった。

彼女が「まるで別人のように」勢いよく、無茶苦茶に話をしたのは、つまり、
彼女の自我はコンプレックスによって動かされていたと考えることができる。

この場合、一応このコンプレックスを「料理コンプレックス」とでも名づけておこう。
料理に関する多くのことが、彼女の心の中でひとつの集合をなしており、
それは強い嫌悪感や、羨望の感情に色づけられているからである。

コンプレックスの構造は、ある党派のなかの派閥によく似ている。
それは、ある程度その党の動きに従いながら、時にはひとつの集団として党の動きに
対抗したりする。
このように考えると、自我というのもひとつの派閥であるが、主流派として政権を
獲得している、つまり、運動機能の統制力をもっているのだと考えることができる。
そのような意味で、自我もコンプレックスの一種であると考えることができる。
ただ、これは他のコンプレックスと異なって、自我は主流派であり、政権をもった派閥
なのである。

ところが、普通のときは主流派の統制に服している派閥も、問題の種類によっては、
なかなか主流派の思いどおりにならないように、コンプレックスは、問題に従って
その感情を露呈する。
たとえば、この例では、料理のことが関係すると、強い嫌悪感が働いて、
自我の統制力を著しく乱してしまうのである。

カウンセラーは、彼女に続けて面接をすることにして、彼女の話に耳を傾けることにした。
すると明らかになってきたことは、彼女の実母が早く死に、継母に育てられ、
継母の子供である義妹があったことであった。

彼女はことごとに継母に反抗し、義妹に対しても親しめなかった。継母は女の子は
女の子らしく育って、早くお嫁にゆくのがよいと口ぐせのように言うので反撥して
いたが、反面、女らしく育ってゆく義妹をうらやましくも思った。

そして、時々は妹と急に親しくなったり、妹のような女性になりたいと思ったことも
あった。しかし、母に対する反抗は妹に対する感情にも強く影響を及ぼし、
妹のような生き方を否定して、「女でもー人立ちできることを示すため」に、
高校卒業と同時に家出をしたのである。

おそらく、彼女ははっきりとは言わなかったが、妹は現在は結婚して子供もあり、
幸福にくらしていて、料理も上手であったろうと想像される。

この場合、
一応、「料理コンプレックス」と名づけておいたが、その下にもう一つのコンプレックス
があったのである。

それは、自分とは生き方の異なる妹に対する葛藤、一般に「カイン・コンプレックス」
といわれているものである。
それは、旧約聖書創世記にある兄カインと弟アベルの話から出ている。土を耕す人
力インは、地の産物をもって主に供えた。アベルは羊飼いとなったが、肥えたものを
主に供えた。主はアベルとその供え物とを顧みられたが、カインとその供え物とは
顧みられなかった。
怒ったカインはアベルを殺し、主によって追放されエデンの東に住むことになった。

この話がもとになって、兄弟間の強い敵対感情をカイン・コンプレックスと名づけられている。

この女性の場合は、「料理コンプレックス」の下に「カイン・コンプレックス」が存在
していたのである。このようにコンプレックスというものは多層構造をしていることが
ある。前に例えば派閥のように、派閥の下にまた小さい派閥があるようなものである。
コンプレックスは小さいコンプレックスもあれば、大きなコンプレックスもあるのである。

さて、カウンセリングを続けていくうちに、彼女が妹に対する敵対感情の底には、
彼女と父親との強い結びつきがあって、父親が異母妹に愛情を示すのが嫌でしかたなかった
ということがわかった。そして、結局、継母に対しても自分の父を奪うものとして、
最初から憎しみを抱いていて、そのような気持ちが妹への敵愾(てきがい)心として
発展していったということがわかったのである。

男性が母親に対して強い愛着を感じ、父親に競争者として敵愾心を感じるエディプス・
コンプレックスに対応する用語としてエレクトラ・コンプレックスがある。これは、女性が
父親に対して強い愛着を感じ、母親に競争者として敵愾心を感じるものである。

結局、この女性の場合は、「料理コンプレックス」の下に「カイン・コンプレックス」
があり、その下にさらに「エレクトラ・コンプレックス」があったわけである。