留学神話の崩壊
○ある小さな留学
スイス作家ケラーのドイツ留学
四方を海に囲まれた日本は、国境を共有するためにたえず緊張して
にらみあうような隣国をもたずにすんだかわりに、外国はともすれば
観念的な存在になりがちであった。他国を身近な存在として受容する
ための地理的環境が欠けていた。
そのために、日本人が外国に行くということは、言語、風俗、習慣など
あらゆる点で異なる世界におもむくことを意味し、それに比例して
留学とは多かれ少なかれ冒険的な事業とみられがちであった。
また、海外に出る日本人たちは、ややもすると「外国での勉学」以上の
期待の重荷を負わされがちであった。日本がおかれた地理的条件のために
外国で勉学する資格はかなり限られた人々にのみ与えられた。それは名誉と
ひきかえに精神的負担を課した。
ここでは、それと対照的な1人のスイス人の留学をとりあげる。
そのスイス人は2度外国へ出た。外国といったところで、どちらも
陸続きであるドイツの、直線距離でわずか220余キロ、今日の陸上
交通機関では半日もかからないほどの土地への留学なのである。
同じドイツ語の世界の移動にすぎなかった。せいぜい、九州弁の土地から
大阪弁の、それとも東北弁の土地から江戸言葉の土地へ行ったにすぎない
程度の、したがって日本人が一般にもっている留学の概念からみれば、
およそ留学の名にあたいしないほどのものであった。
(時間の関係で 手短にケラーの留学を説明します)
ゲーテがドイツ文学を、シェイクスピアがイギリス文学を、セルバンテス
がスペイン文学を代表するように、一般に、ケラーはスイス文学を
代表している。
ケラーは29歳のときにチューリッヒを出発しハイデルベルクへ向かった。
チューリッヒ州政府が歴史や資料研究を学ぶ資金を出してくれたのである。
ハイデルベルクの留学生活が終わる前に、彼はチューリッヒ州政府に
手紙を書いて、さらにベルリン留学ができることになった。
ベルリンで劇作家になりたかったが実現せず、わずかに詩集が出版され
郷里の母に送って母を欣喜させた。詩集1冊だけで帰郷する気になれな
かったケラーは、ハイデルベルク時代から書きためていた「緑の
ハインリヒ」の原稿を出版者に送り、この小説の魅力を見抜いた
出版者に励まされ小説を書き続けることができた。
努力して到達しようと願う目標と、不十分な才能との矛盾をテーマに
したこの自伝的な小説を、ケラーは最初の構想では、主人公の死で終わらせ
るプランをもっていた。が出版者はケラーに主人公を生きつづけさせる
よう懇願し、今日われわれが手にする「緑のハインリヒ」はドイツ
教養小説の典型として認められ、失敗と苦労の末に若き主人公が
世界の実相と人生の意義にめざめる希望多き結末に終わっている。
彼は貧困の中で、この小説を書き続け、ドイツ系スイス人の中から
一人の才能ある作家の出現を告げるものとして歓迎された。
7年間の留学を終えてケラーは郷里へ帰った。
後年、ドイツの作家たち、ことにドイツの後進性を悲しみ、スイスの
民主主義的で自由な政治的風土を羨望する作家たちは、ケラーの作品に
正義感と客観性との健全な調和を見いだした。
あるドイツの作家は、ケラーの文学が1848年の革命失敗後のドイツ
文学が生み出せなかった健全なリアリズムを実現したとしるした。
しかし、彼の小説、とりわけて何より重要な小説「緑のハインリヒ」が、
苦しみ多き留学時代に書かれたという事実は、作品のスタイルとしての
リアリズムが作者のリアリズム精神と無条件に連結するものでない
ことを物語っている。
作品の舞台である郷里からへだたる異郷で、
作者は身近な異郷の影響を原稿用紙から必死の思いで排除すると同時に、
遠い郷里を追憶と想像のうちに現実化していったのであった。
したがって、
リアリズムという文芸学的な用語は、「緑のハインリヒ」には必ずしも
適当ではない。
ハイデルベルクからベルリンにかけての数年間、ケラーはもっとぱら
自己の内部に沈潜して作品を成立させたのであって、その限りにおいて
少なくともあの小説およびいくつかの短編小説は、素朴な意味合いでの
リアリズムから遠い地点で生み出されたからである。
ケラーの例から、次のようなことが言える。
自己の進路を模索する人間にとって留学とは純粋に個人的体験に他ならず
ある時点から留学は留学を可能にさせた者たちの期待と干渉から完全に
離脱するものである。この点に関しては、郷里と留学地との絶対的な
距離はあくまで副次的な要素にすぎない。
内村鑑三と新渡戸稲造の留学
☆ ☆ ☆
留学の意味について前から整理したいと考えていました。
ちょうどS野先生の留学をきっかけに、少しばかり書いてみました。
まとまりのない内容で、しかも専門外の文学についての記載が
多かったので、読者にご迷惑をかけたかもしれません。
私も留学、海外での生活を経て、自分なりに
日本とは、日本人とはというテーマについて考えることもありました。
留学については
またいつか時期をみつけて考えてみたいと思います。
とりあえずは、外国を見ることは何か刺激を受ける、何かいいことがある
そして
留学できなくても、こんなに岩手大学に留学生が入って来たのだから
留学生と話をするとか、相談相手になってやることは自分のためにもなります
ということを言いたいのです。