留学の意義、留学の意味 その5

留学神話の崩壊
○漱石の留学
谷口茂
 漱石は希望してイギリス留学をしたのではなかった。
 自分から希望して思いが叶って行ったのではなく、反対に行くのが嫌なのに
 官命でしかたなく行ったというのでもない、どっちつかずの気持だっらしい。

 彼が英文学に欺かれたような不安感を覚えたのは、彼に漢文学が与えた
 充実感があってからである。文学とはこのようなものだという実感を
 彼の中に培ってくれたのは漢文学であった。これは明治初年に幼年期を
 送った世代にとっては、ごく自然の結果であった。漢文学は文学の基準
 だった。しかし、この漢文学は決して中国文学ではない、すでに日本の
 古典と化しているといっても過言ではない漢文学を、彼は英文学と比較し
 同じようなものだと考えたのだ。

 漱石は留学前に、文部省上田萬年専門学務局長から、留学の目的は
 英語の研究をすることで英文学を研究することではない、と説明を
 受けたことにもこだわった。帰国してから3年後に書いた文学論
 の序文を書いた時点でもまだこだわっていることは、序文を読めば
 わかる。

 ケンブリッジで研究するつもりであった漱石は、ケンブリッジの明る
 すぎる光に一瞬目が眩んだせいか、精神的な不安感、あの「英文学に
 欺かれたるがごとき不安の念」を目覚めさせずにおかなかっただろう
 もしこの大学街でその不安の虜にされてしまったら、ここは明るすぎて
 隠れ場所などどこにもないのだ。昼なお暗い霧のロンドンこそ、絶好の
 避難場所ではないだろうか、ロンドンの片隅の隠れ家を求めて、そこで
 大勢を整えて安心のいったとき外へ出て敵意に満ちた現実と戦おう
 彼はそう考えたのではなかろうか。

 ロンドンに戻った漱石は、早速下宿探しにかかる。紹介された下宿に
 1か月暮らした漱石はそこを出てしまう。その下宿は4人の家族が
 住んでいたが、ほとんど家族らしい情愛が通っているとは思われないほど
 たがいに無関係に暮らしている。漱石はこの家のあまりにも暗い惨めな
 重苦しい雰囲気にたまらなくなったようだ。
 (家主の老令嬢は、母の死亡後、母の再婚相手の義父とその連れ子つまり
 義兄、そして義兄の娘の計4人家族として生活していた)
 (江藤淳はこの一家をユダヤ人だったかも知れないと推測している)
 彼はその家の重苦しい雰囲気に不安をかき立てられ、孤独の安息所を
 得ることが不可能となり、やむなく出たのである。

 漱石が半年ぶりに妻へ送った手紙の中に、2度ほど手紙を受け取った
 こと、甚だ淋しい等書いてある。
 当時は航空便も国際電話もなかった。船便で2か月近くもかかるのだから
 手紙を書いても空しい。当時の人々は、ただむやみに考えるしかなかった。 
 しかしひたすらに思い偲ぶ姿勢ほど美しい人間の姿勢が、ほかにある
 だろうか。思い偲ぶという最も人間的な素朴な姿勢は、なまの情感を
 じっくり時間をかけて煮詰め、濃密でこまやかで澄明なものへ仕上げて
 ゆく。航空便や国際電話という発明は、悪魔の差し金に違いない。
 その情感に水を注ぎ、何の味わいもない水っぽいものに変えてしまう
 からである。

 のちの「味の素」の発明者である池田菊苗が、ドイツ留学を終えての
 帰途ロンドンでしばらく滞在するのに、漱石の下宿の一部屋に寝泊まり
 することになった。池田は化学者でありながら英文学、漢文学の素養も
 深く、ともに語り合うことのできる友人を得て、孤独に苦しんでいた
 漱石は心の慰めを与えられた。

 しかし化学という着実に目に見える成果のあがる研究に従事している
 池田の自信に満ちた態度は、漱石に自分と英文学との関係の実態を
 自覚させずにはおかなかったろう。自分は怠けていない、何もかも
 犠牲にして読書に努めている。しかし正直いって何ら確実なものを
 掴んではいないのだ。

 原理的に異質な自然科学と文学とを同時に計るのはおかしいことだ。
 だが建設途上にある新しい国家が乏しい予算を割いて留学させるとき、
 国家有用の学を修めさせる以外の意図はありえない。その至上の
 国家意志を、漱石は片時も忘れるわけにはいかなかった。
 後世のわれわれは簡単に次のようにうそぶくことができる。いったい
 文学が有用の学になりうるだろうか。しかしそのような考えは漱石に
 とってはタブーであった。彼はただ、どうすれば文学を有用の学となしうるか
 と問うことしか許されなかったのである。

 彼は残された時間を意識しながら必死に考えた。そして彼は、英文学を
 学力とは無関係に自分にとって異質の親しみにくい文学だと悟った。
 (講義を聞いて理解できるし、英語の本をすらすらと読める。しかし
 英文学に自分の求める文学はない)

 <余は下宿に篭りたり。一切の文学書を行李の底に収めたり。
 文学書を読んで文学の如何なるものなるかを知らんとするは血をもって
 血を洗うが如き手段たるを信じたればなり。余は心理的に文学は
 如何なる必要あって、此世に生まれ、発達し、頽廃するかを極めんと
 誓えり。余は社会的に文学は如何なる必要あって、存在し、隆興し、
 衰減するかを究めんと誓えリ>

 文学書以外のものを読んで文学とはいかなるものかを極めようとするのは
 木によって魚を求めるようなものではないか、などというのはやさしい。
 注意すべきは、この方針の決定によって、それ以後の漱石の留学生活の
 かたちが定まったということであり、この決意のおかげで彼は、胃病や
 神経症に苦しみながらも、どうやら精神の統一に成功して、発狂せずに
 耐え凌ぐことができたという事実である。

 <ロンドンに住み暮らしたる2年は尤も不愉快の2年なり。余は英国紳士の
 間にあって狼群に伍する1匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり。
 余は物数奇なる酔狂にてロンドン迄踏み出したるにあらず。個人の
 意志よりもより大いなる意志に支配せられて、気の毒ながら此歳月を君等の
 恩澤に浴して累々と送りたるのみ。2年の後期満ちて去るは、春来って
 雁北に帰るが如し>
 
 漱石はここでは、留学は官命による強制だといわんばかりである。
 とにかく彼は留学を大いなる無駄と見なしているようだ。しかし後世の
 われわれの立場から見ると、まさに漱石が留学をそのように見なしている
 というところに、彼にとっての留学の意味があるといえるのだ。
 つまり「文学論」を講義することによって、「文学論」のための精進の
 無駄をあらためて骨身にしみて感じたであろう漱石は、そこで英文学に
 求めるべきでないものを求めていた根本的な錯誤に最終的に気づき、
 真に自分がなすべき仕事へ目覚める機会を得たに違いないのである。
 留学は回り道であった。しかし作家漱石の誕生のためには必須の過程で
 あった。

 近代日本の留学の歴史も百年に近いが、無数のヨーロッパ留学のあるなかで、
 漱石のそれはひとつの典型をなしている。とくに鴎外の場合と比較したとき
 この感が深い。極端な言い方をすると、漱石型と鴎外型とに大別することも
 できよう。憧れの有無、年齢、経歴、経済的条件、その他いろいろな点で
 対蹠的である。この比較は興味あるテーマであるが、それについては
 別の機会をえなければならない。ただ最後に強調しておきたいのは、留学先
 からも拒まれ(少なくともそう信じ)、一方頼みの故国からすら拒まれ
 (同じくそう信じ)、絶対的な孤独の蟻時刻に陥った漱石の留学体験は、
 たんに漱石個人にとってのみならず、ヨーロッパと近代日本、そして
 近代日本と知識人という問題に深くかかわっているということである。

この谷口茂氏の論文の内容の是非について
私は専門でないから口をはさまない。
(全文を紹介したわけではなく、自分が理解しえた部分しか書かなかった)

ただ言えることは 
留学とは、成果を得ないどころか、失敗に終わって
帰国して、その留学がきっかけとなって新しい道が開ける
そういう留学もあるということです。

苦労した実験そのものが失敗に終わっても、後にそれが何かの
ヒントになり新しい発見や研究につながれば、失敗だった実験は
やはり必要性があった意義のあるできごとだったということでしょうか。

留学の意義(つづく)

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