留学の意義、留学の意味 その3

○ヨーロッパのゆとり
 日本でも地方から東京へ出てきて、確かに東京のせわしさはかくべつ。

 しかし別の見かたもある。
 日本のなかは均一化してきている もう地方へ行っても東京と同じで
 ゆとりのある生活をしている人はいない。 本当にゆとりのあるところ
 へ行くと今度は逆に過疎なんて現象になってしまう。

 日本はどうしてこう極端から極端へ行くのだろう。 ヨーロッパのゆとり
 というのは、汽車で旅行していると、本当に地図にものっていない
 ような小さな町に、都会とかわらないような立派な建物の積み重なり
 が忽然としてパーッと丘の上なんかに現われたりする。

(汽車の窓から見ていると、森がすぎて突然小さな町の風景が
現われたりする、その時 この文章を思いだしたものです)
(NHKテレビのドイツ語会話に以前活躍していた小塩教授は
東京は忙しくて くすところ だから忙という字をかく
と言っています。さすがの勤勉な中国人留学生も東大での研究生活
と東京での生活は目が回ると言っていました)

(地方と東京 忙しさとゆとり このテーマは人によって意見は
さまざまでしょう。バカンスで1カ月も同じ町でのんびり過ごす
ヨーロッパ人のゆとりを、1日中疲れるまで観光地を歩き回る
日本人はとうてい理解できないかもしれませんね。
価値観の違い ヨーロッパでそういう感想をもつことが留学の
一つの意味かもしれません)

留学神話の崩壊
○留学生の文明論的位置
 西尾幹二「留学生の文明論的位置」
 森鴎外がナウマンとの論争にみせた日本文化の擁護の態度。
 それから日本という国の弱点をみせまいとする、おおまかにいえば
 愛国者的な態度と、後年の彼の日本の文明の弱点というものを直視する
 レアリスト的な態度の矛盾から説きおこしている。

 そこに、最初は和魂というものを幻想としてではあれ、まだもっていた
 明治期の日本、ヨーロッパ人と闘うだけの自己と、和魂に代表される
 文化共同体を背後に持っていて、何のために学ぶのかということが
 明瞭であった明治期の日本から、次第に和魂が洋才によって
 喰いつぶされていくことを認めて懐疑的にならざるを得ない
 個人との分裂について論じている。

 そしてこれが、和魂が洋才によって喰いつぶされる傾向が非常に
 進行していって大正期にいたると、もはや外国から何のために
 学ぶのかという意識さえもなくなって、いかに自分は西洋文化に
 より近い点にたっているかと競い合うようになっている

 この移行をみながら、そうした態度の延長、あるいはなれのはて
 としての現代の留学生というものを彼は論じている。

(ナウマンは動物学者で、ナウマン象のナウマンのことだが
鴎外はナウマンの講演を聞いて、講演に対しては礼儀上反論する
わけにはいかなかったが、あとで座談の席で別のきっかけを
とらえて反論を加えた。それが巧みだったので結局さきの
講演全体に対して反論を加えたのと同じだった)

留学神話の崩壊
○明治人の留学
 現代の留学生では
 たとえば最も文明的なものの最先端をとり入れに行って
 とり入れたら帰国するという自然科学系の留学生もいる。

 それは自分の立身出世と結びついているだろうが、
 その立身出世が必ずしも国家的な交流と幸福な関係にはない。
 これが明治の留学生と違う点であろう。

 その点自然科学でなく人文科学の場合、そういった関わりあいから
 自由な立場でヨーロッパへ行っていると思われる。
 それはもともと無用の学をやっているという気があるからでないか。

 我々4代目が明治1代目と違うところは、そしてそれゆえ我々4代目が
 1代目をいつも意識させられる理由は、結局、彼らはただ獲得すれば
 良かった、つまり彼らには獲得すべきものがはっきり実体的にあった
 のに我々にはない、ということだ。

 また洋才に立ち向かう和魂というものが彼らにはあった。 我々に
 あるものは何か、我々にあるものがもう彼らと同じ和魂でないことは
 確かだ。我々は西洋化百年目の人間なんだから。

 ところで我々のなかにあるものは一体何だろう。 腑分けして、これが
 和魂的なもので、あれが洋才的なものであるというふうに識別できれば
 いいんだが、もう本当にこんぐらかっちゃって融け合って、わけが
 わからなくなっているというのが実状だ。

 だからそういう自分自身の正体をつかめないでいる人間がヨーロッパへ
 行くと、今度は当然ヨーロッパに疎外されることになる。
 自分の居場所はどこにあるのかという、その座標軸すらはっきり
 わからない。

(明治の留学生のほとんどを自然科学の実学の留学生としてみて
一方、人文科学、特に語学の留学生は自らを虚学の留学生と
考えているようだ)

(実学と虚学という見かたもありますが、実学は実学で
ヨーロッパではなかなか認知されなかった。パリにエコール・デ・
ポン・ゼ・ショセ土木工学校ができたのが1795年、ベルリン
工科大学ができたのは1821年。もちろんアメリカの
工科系大学が充実したのはその後です。
神学がないと大学とはいえないというのがヨーロッパの伝統でした)

留学の意義(つづく)

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